トキノクサリ

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人形山 -5-

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 港に着くと、ウミはそのまま、町医者の医院へと運ばれた。僕達は中に入る事を許されなかった。例の自衛隊員の医者が出て来て、様子と処置については明日説明する、とだけ告げられた。
 僕らは…自衛隊から酷く叱責を受けたり、または拘留されたり、なんらかの罰を与えられる覚悟をしていた。けれど、簡便な注意をされただけで、解放された。対応としては拍子抜けだったけれど、それは裏を返せば、事件をおおごとにするリスクの方が高い事を示している。つまり、今回の逃避行は、一部の人間を除けば、完全に秘密にされ、なかったことにされるのだろう。更に言うと、このくらいの脱出劇、予め想定されていた可能性すらある。アメリは恐らく、神主である母親の怒りを買うだろうし、野辺も、父親から叱られるのだろう。

 翌日から、港には護衛艦が常時逗留する事になった。当然だが、僕達は、もう、逃げる事ができない…。
 僕は町医者に呼ばれ、医院へと足を運んだ。ウミは、既にそこにはいなかった…。
「お前、やってくれたな」町医者が、紫煙を吹きながら言った。「もう少し大人だと思ってたが、まあ高校生の思考回路なんて、そんなもんか。今回の自衛隊の活動だけで、どれだけの税金が投入されたか、なんて考えた事もないだろ」
 そんな事、考えられる筈もない。
「国家がウミを人柱にするのなら、ウミが支払う命は、税金をいくら積んでも取り戻せないんじゃないですか」
 僕は反駁した。町医者は、ククク、と笑った。
「お前達がやったのは、陳腐なトロッコゲームに過ぎない。重い荷物を載せたトロッコが制御不能で暴走している。お前の手には、線路の分岐レバーが握られている。左に倒せば、一人の瀕死の人間が助かるかもしれないが、反対の線路にいる多くの健康な人間の命が失われる。右に倒せば、その逆。全体最適や最大多数の最大幸福とは何か、考えさせられる問題だよな」
「でも、ウミが大きな病院で診てもらえれば、今よりも回復できるかもしれない。それから浄化を継続すれば、線路の多くの人間の命も助けられるんじゃ…」
「そうじゃない。もし、お前があの娘を連れ出した事で、島の連中や、それよりももっと大きい単位の被害が発生した場合、お前はその重圧をあの娘一人に負わせる事になる。そこまでの覚悟でやったのか、って事だよ。もっと考えて動け。気持ちは解らないでもないが、自分の感情や、自分の利益だけを勘定に動こうとするな。本当の意味で他人の為に正義を貫くというのは、常に困難な選択の連続だ。二歩、三歩どころじゃない。五歩、六歩先の未来まで想定して動かないと、返って人を不幸にさえする。一番大切にしなければならない人生の目的みたいな物は、人生のタイミングや段階によって都度変化するだろうが、お前が、死ぬときにどんな死に方をしたいか、は、生きる指標として常に考えておけ。もう、こんなクソみたいな伝統、未来に残したくないだろう?」
 僕は、町医者の言葉を完全には理解できなかった。僕は…それでも、今回の行動は間違ってなかったと思っている…。
「ちょっといいですか」自衛隊員の医者が、声をかけてきた。「あの娘の状況と今後について、ちゃんと話しておきたいんですけれど…」
「ああ、ごめん」町医者が言った。「俺から言うより、兄ちゃんから言って貰った方がいいだろう」
 自衛隊員は、頷いた。
「まず、昨日…正確には今朝だけれど…の処置として、あの娘の左腕を切断したよ。可哀想だけれどね…。これは、遅かれ早かれ、必要な対処だった。それから…いいづらいな」
 自衛隊員は、言葉を詰まらせた。これ以上、何だって言うんだ…。
「…続けて下さい」
 僕が促した。自衛隊員は深刻そうな表情のまま、わかった、と答えた。
「正直に言うと、あの娘は既に、生きている事自体が奇跡に近い状態なんだ…。骨はもうボロボロになっているし、全体的に壊死が進行していて手の付けようがない。内臓系は絶望的で、あちこちに腫瘍ができてしまっている。開腹まではしていないけれど、癒着だけじゃない、もう散ってしまっている物もあるだろう。だから…君には申し訳ないけれど、このまま無事に浄化作業が終えられたとしても、治療は行わない方針だ…」
 それって…!
「それは、ウミを見殺しにするって事ですか!」
 僕は、思わず声を張り上げた。自衛隊員は、一瞬怯み、言葉を継ごうとしたが、町医者がそれを制した。
「その通りだ」町医者が言った。「出て行こうとしたお前だからこそ、状況を正確に伝えておこう。あの娘を助ける手段は、もう、何も残っていない。確実に、死ぬ。そして、既にあの娘の死体処理をどうするか、という議論が始まっていると聞いている。なにしろ、高濃度の毒のかたまりになっているからな。下手に火葬すれば大気中に蔓延する恐れがあるし、そうでなくとも島の人間はいやがるだろう」
 そんな…そんな…。生きる事が許されないばかりか、死に方まで自由にさせてやれないなんて…。
「なんで…なんでそこまでウミを侮辱するんだ! もう、いい加減にしてくれよ! いい加減に…僕達を放っておいてくれよ…!」
「黙れ、このガキが!」町医者は叫ぶように言うと、僕の胸ぐらを掴んできた。スクールシャツのボタンが弾け飛び、首が絞まった。「お前が今できる事は何だ? お前がやらなければならない事はなんだ? いつまでも甘ったれるんじゃない。この限られた状況、限られた選択肢の中で、なにをすべきかを選び考え行動することは、難しくない筈だ」
 町医者は、僕から手を離した。僕は頭に、止まっていた血が流入する感覚に襲われながら、数回咳き込んだ。
 僕が、やらなければならない事…。ウミの残された僅かな時間の為に、できる事…それはなんだろうか。

 浄化は、その夜から再開された。ウミに対して、運命が容赦しない事は既に理解していたし、僕以上にウミは承知しているに違いない。だから、僕は淡々としていなければならないのだ。

 野辺が海に捨てた猟銃は、すぐにオーバーホールされて、神社の物置に戻された。けれど、残りの期間において、僕は勝手にそれを持ち出す事は許されず、毎回ウミの祖父が鍵を開けて、直接渡してくれる事になった。こればかりは、仕方あるまい…。
「俺よりも、先に逝く事になるかもしれないなんてな…」祖父が言った。「でも、あの娘は、自分でこうなる事を、もう随分前から解ってたんだろうと、最近、思うようになったよ。どうか、安らかに逝かせてやってくれ。お願いします」
 気丈な祖父が、僕に深々と頭を下げてきた。

 僕は、繰り越してきた個数を残りの日数で割った分量を、今日採取した燐光石に追加して持ち帰った。僕は…この事実を、ウミに告げなければならない。
 社の扉を開けるのが…怖かった。けれど、躊躇なく、開けた。

 ウミは、今までと同じように…布団に横たわり、そこに居た。ただ、昨日まであった左腕がない事が、掛け布団から失われた膨らみが、物語っていた。
 ウミは、やはり今までと同じように、僕の存在を視認すると、安心したかのように、微笑んだ。
「ユウくん…お帰り…」
 僕は、黙ってウミの横に膝を付いて座った。
 祖母も神主も、いつもと同じ様子だった。逃避行については全く触れてこない…。もしかすると、そんな事があったとさえ、知らない可能性もある…。 
 僕は、ウミに燐光石の袋を見せた。
「今日は…こんなに沢山…。頑張ったんだね…」
 僕は、その言葉に自嘲すると、数回、首を横に大きく振った。
「ごめん…ウミ…。そうじゃないんだ。僕…少しでも負担を軽くしようと思ったんだけれど…ダメだった…」
 そこまで言うと、自然と涙があふれてきてしまった。自分の情けなさがどうしようもなく悔しかったし、それでウミの苦しみが増える事が申し訳なくて仕方がなかった。
 ウミは、ふ、っと笑った。
「ユウ…くん…。大丈夫だよ…。わたし…わかってた…もん」
「…え?」
「わたし…最後まで…頑張るか…ら…だから…そんな事で…悲しまないで…欲しいな…」
 恐らく、本当に繰り越していた事を知っていた訳ではないだろう。いや、ウミの事だから、もしかすると、ここ数日の燐光石の数に増減がない事から、なんとなく解っていたのかもしれない。でも、この期に及んでも、まだ、ウミは僕の心配をしているのだ。

 僕は、神主と祖母が見守る中、ウミの唇に燐光石を運び続けた。繰り返される苦しみの呻き声の中、僕は、まだウミの命を護る事を諦めていなかった。以前、人形山の山頂で見た、あの巨石…。もし、本当にあの石に治癒の力があるとするのなら…。とても現実的な話ではないのは分かってる。でも、それ以外に思いつく手立てはないんだ。ただ…それは、ウミが本当にそれを望むか…次第だ。全ての浄化が終わって、もし、ウミに残された時間があるのなら…。
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