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第四章 マンハッタンの影
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一九四四年十二月、ニューメキシコ州ロスアラモス。
雪は降らないが、空気は鋭く冷たかった。高原の乾いた風が、真新しいバラック群の屋根を鳴らす。まだ若い基地の匂いがする。鉄、油、紙、焦げたコーヒー。
オッペンハイマー博士は、分厚いコートを肩から滑らせながら、白い息を吐いた。
「……三号炉、再臨界の確認を。あれではグローヴスに殺される」
独り言のような声を、そばを歩く助手のローレンスが聞き逃さなかった。
「順調ですよ、ボブ。あなたが心配しすぎなんです」
「順調な研究というのは、だいたい嘘だ」
オッペンハイマーは微笑み、顎に手をやった。
「理論は滑らかでも、装置は気まぐれだ。君も覚えておけ」
二人が研究棟に入ると、熱と声が迎えた。十数名の科学者が黒板の前に集まり、方程式を罵倒のような勢いで書き消している。
「くそ、また臨界値がずれている!」
「データが違う。誰が更新した?」
それでも皆の顔に焦りよりも高揚があった。ここは“世界を変える”現場なのだ。
会議室では、陸軍工兵隊のグローヴス将軍が、分厚い書類を机に叩きつけた。
「この線を、三か月で繋げ。予算も人も出す。足りなければ他所から奪え」
参謀たちは黙って頷く。
オッペンハイマーは腕を組み、壁の地図を見つめた。
ハンフォード、オークリッジ、ロスアラモス。三つの点が、太い赤線で結ばれている。
「ハンフォードのプルトニウムが安定供給されれば、実験は前倒しできる。理論上は」
「理論上?」
グローヴスが眉を上げる。
「自然は理論に従わない将軍です」
「ならば従わせろ。それが君の仕事だ、ボブ」
乾いた笑いが起こり、会議は続いた。
夕刻。
カフェテリアでは、疲れ切った科学者たちがアルミトレイを片手に列を作っていた。
ラジオからは、パールハーバー三周年を報じるニュースと、戦局の楽観的な論調が流れている。
「日本は風前の灯だそうですよ」
若い研究員が笑う。
「ええ、連中の飛行機も燃料も、もはやない」
「風船爆弾のニュース、聞きました?」
別の研究員が言った。
「西海岸で何か落ちたって」
「おもちゃみたいなもんだ。気象観測気球に爆薬をくっつけただけさ」
笑い声が上がった。
オッペンハイマーは窓辺の席でその会話を聞き流していた。
外の砂漠に沈む夕日が、実験棟の壁を赤く染めている。
「……風船が、大陸を越えてくるか」
ぼんやり呟く。
助手のローレンスが笑った。
「まさか。そんな馬鹿げた話があるもんですか」
「馬鹿げた話ほど、現実になることがある」
オッペンハイマーはカップを置いた。
「科学も戦争も、それでできている」
夜。
ハンフォード工場では、巨大なコンクリートの壁の向こうで、B炉が低い唸りを上げていた。
エンジニアのスティーヴン・マクレインは、メンテナンス記録を眺めながら、コーヒーの紙コップを手に取った。
「冷却系、流量安定。中性子束、予定値どおり……上出来じゃないか」
隣で若い技師が笑う。
「最近は退屈なくらいですよ。こいつが止まることなんてありえません」
「そういうときが一番危ないんだ」
スティーヴンは呟いた。
窓の外では、ワシントン州リッチランドの夜空に風が吹いていた。
同じころ、ワシントンD.C.。
戦略研究委員会の報告書を手にした参謀が、グローヴス将軍に言った。
「敵国が“原子力研究を続けている”という情報があります。日本の理化学研究所という施設です」
グローヴスは鼻で笑った。
「木造の研究所が何をどうする? あの国に精製装置など作れるものか」
「しかし、ドイツの資源が流れているという話も……」
「馬鹿げている。もしそうなら、彼らが原爆を作る前に、我々が地球を燃やしてやるさ」
そう言って将軍は葉巻に火を点けた。煙が天井にゆらゆらと昇っていく。
その煙が消えるころ、ハンフォードの変電所で、わずかな火花が走った。
風に煽られた電線がきしむ。
誰も気づかない。
それが、のちに世界の時間を半年狂わせる最初の閃光になることを──。
雪は降らないが、空気は鋭く冷たかった。高原の乾いた風が、真新しいバラック群の屋根を鳴らす。まだ若い基地の匂いがする。鉄、油、紙、焦げたコーヒー。
オッペンハイマー博士は、分厚いコートを肩から滑らせながら、白い息を吐いた。
「……三号炉、再臨界の確認を。あれではグローヴスに殺される」
独り言のような声を、そばを歩く助手のローレンスが聞き逃さなかった。
「順調ですよ、ボブ。あなたが心配しすぎなんです」
「順調な研究というのは、だいたい嘘だ」
オッペンハイマーは微笑み、顎に手をやった。
「理論は滑らかでも、装置は気まぐれだ。君も覚えておけ」
二人が研究棟に入ると、熱と声が迎えた。十数名の科学者が黒板の前に集まり、方程式を罵倒のような勢いで書き消している。
「くそ、また臨界値がずれている!」
「データが違う。誰が更新した?」
それでも皆の顔に焦りよりも高揚があった。ここは“世界を変える”現場なのだ。
会議室では、陸軍工兵隊のグローヴス将軍が、分厚い書類を机に叩きつけた。
「この線を、三か月で繋げ。予算も人も出す。足りなければ他所から奪え」
参謀たちは黙って頷く。
オッペンハイマーは腕を組み、壁の地図を見つめた。
ハンフォード、オークリッジ、ロスアラモス。三つの点が、太い赤線で結ばれている。
「ハンフォードのプルトニウムが安定供給されれば、実験は前倒しできる。理論上は」
「理論上?」
グローヴスが眉を上げる。
「自然は理論に従わない将軍です」
「ならば従わせろ。それが君の仕事だ、ボブ」
乾いた笑いが起こり、会議は続いた。
夕刻。
カフェテリアでは、疲れ切った科学者たちがアルミトレイを片手に列を作っていた。
ラジオからは、パールハーバー三周年を報じるニュースと、戦局の楽観的な論調が流れている。
「日本は風前の灯だそうですよ」
若い研究員が笑う。
「ええ、連中の飛行機も燃料も、もはやない」
「風船爆弾のニュース、聞きました?」
別の研究員が言った。
「西海岸で何か落ちたって」
「おもちゃみたいなもんだ。気象観測気球に爆薬をくっつけただけさ」
笑い声が上がった。
オッペンハイマーは窓辺の席でその会話を聞き流していた。
外の砂漠に沈む夕日が、実験棟の壁を赤く染めている。
「……風船が、大陸を越えてくるか」
ぼんやり呟く。
助手のローレンスが笑った。
「まさか。そんな馬鹿げた話があるもんですか」
「馬鹿げた話ほど、現実になることがある」
オッペンハイマーはカップを置いた。
「科学も戦争も、それでできている」
夜。
ハンフォード工場では、巨大なコンクリートの壁の向こうで、B炉が低い唸りを上げていた。
エンジニアのスティーヴン・マクレインは、メンテナンス記録を眺めながら、コーヒーの紙コップを手に取った。
「冷却系、流量安定。中性子束、予定値どおり……上出来じゃないか」
隣で若い技師が笑う。
「最近は退屈なくらいですよ。こいつが止まることなんてありえません」
「そういうときが一番危ないんだ」
スティーヴンは呟いた。
窓の外では、ワシントン州リッチランドの夜空に風が吹いていた。
同じころ、ワシントンD.C.。
戦略研究委員会の報告書を手にした参謀が、グローヴス将軍に言った。
「敵国が“原子力研究を続けている”という情報があります。日本の理化学研究所という施設です」
グローヴスは鼻で笑った。
「木造の研究所が何をどうする? あの国に精製装置など作れるものか」
「しかし、ドイツの資源が流れているという話も……」
「馬鹿げている。もしそうなら、彼らが原爆を作る前に、我々が地球を燃やしてやるさ」
そう言って将軍は葉巻に火を点けた。煙が天井にゆらゆらと昇っていく。
その煙が消えるころ、ハンフォードの変電所で、わずかな火花が走った。
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誰も気づかない。
それが、のちに世界の時間を半年狂わせる最初の閃光になることを──。
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