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第七章 停電の夜
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一九四五年一月十七日、ワシントン州リッチランド。
ハンフォード・エンジニアリング・ワークスの上空を、冷たく乾いた風が吹いていた。コロンビア川の川面には氷が張り、夕陽が赤い線を引いて沈んでいく。外気温はマイナス八度。空は透き通るほど澄んでいるが、現場の空気は重かった。
ドクター・フランクリン・ストーンは、白い息を吐きながら変電棟の外壁を見上げた。
「この風で静電トラップが壊れてもおかしくないな」
隣の若い技師エド・ハリソンが笑いを混ぜて返す。
「まるで火星ですよ、博士。川を渡る風が刃みたいだ」
「ここはもう地球の終端みたいなもんだ」
ストーンは冗談めかして答えたが、その目は笑っていなかった。
この地には、世界の命運が封じ込められている。プルトニウム生産用のB炉、D炉、F炉――それらを維持する電力供給が、この変電棟で一手に制御されていた。
午後七時二十五分。監視盤に異常が走った。
「ライン6の電圧が低下!」
ルース・メイナードが声を上げる。彼女は夜勤シフトの運転監視官で、冷却ポンプ系統の監視を担当していた。
「落雷か?」
「いいえ、雷は観測されていません」
「じゃあ、何だ……?」
次の瞬間、照明がちらついた。
外で、風が何かを引き裂く音がした。
ストーンは窓際に駆け寄り、外を見た。暗闇の中、光の点が流れていた。
「……何だあれは?」
風に乗って、白い布のようなものがゆっくり降下している。風船、のように見えた。
ルースが双眼鏡を取り出し、焦点を合わせる。
「……何か、ぶら下がってる」
「発火装置か?」
「違う、金属片……いや、バラスト?」
誰かが外線電話を掴もうとしたが、ストーンが止めた。
「待て。あれは高度な気象観測か、敵の宣伝かもしれない。いずれにしても危険だ。変電棟に接触させるな」
言い終わるより早く、音がした。
シュウウ、と風を切る音のあと、鋭い閃光が走る。
風船は送電線に絡まり、火花が夜空を裂いた。
変電盤が一斉に落ち、警報ベルが鳴り響く。
「停電だ!」
「ライン6、全損!」
「予備電力へ切り替え!」
ルースが制御棒を引く手を震わせながら叫んだ。
「予備もダメ! スパークで母線が焼けた!」
ストーンは電気主任の肩を押しのけてコンソールに手を伸ばす。
「冷却ポンプの状態は!」
「一系統停止、二系統に負荷集中!」
「どれだけ保つ?」
「四分。いや、三分が限界だ」
ポンプが停止すれば、B炉の黒鉛ブロックは一瞬で過熱し、プルトニウム製造どころか炉心が崩壊する。
「冷却水を逆送できるか?」
「試みます!」
ルースがバルブ制御レバーを引く。だが、応答はない。圧力計が震え、赤針が上限を越えて跳ねた。
「圧力が上がってる!」
「逃がせ、急げ!」
ハリソンが非常弁を開放する。瞬間、蒸気が轟音とともに噴き出し、室内が一気に白く曇った。金属臭と焦げた絶縁材の匂いが混じり、誰かが咳き込む。
外では、送電線の鉄塔が炎上していた。
風船の布が燃え、夜空に赤い煙を吐いている。
「連鎖している……」
誰かの声がした。
見れば、隣接の母線が次々に過熱している。冷却系の予備回路にも逆電流が流れたのだ。
ルースがモニターを睨んだ。
「ポンプ2号、温度限界です!」
「バイパスを開け!」
「バルブが……動かない!」
「手動で行く!」
ハリソンが工具を掴んで走った。白煙の中で姿が消えた。
時計が二十一時を指すころ、制御室の中は混乱を越えて沈黙に変わっていた。
回路盤は焦げ、冷却水ポンプの回転数は限界を越え、やがてひとつ、またひとつと止まっていく。
「炉心温度、上昇……!」
「落とせ、緊急遮断棒を挿入しろ!」
だが、回路は沈黙していた。電力がない。
ルースは両手で制御盤を叩いた。
「くそっ、反応しない!」
ストーンが咆哮した。
「人力だ! 手で行け!」
彼は作業服のまま制御区画を飛び出した。冷却水が床を滑り、煙が低くたなびいている。
金属扉を開けた瞬間、灼熱の空気が顔を打った。
光があった。
それは太陽の破片のように、静かに燃えていた。
翌朝、ハンフォードの敷地は、淡い灰色の霧に包まれていた。
B炉の冷却塔は崩れ落ち、内部の配管はすべて焼失。放射化した水蒸気が広範囲に漏出していた。
現場に立つストーンの顔には疲労が深く刻まれていた。
「死者は?」
「二名行方不明。五名重傷」
ルースが答えた。
「どれくらい復旧にかかる?」
「……半年は見てほしい」
「半年?」
「冷却系を全部作り直さなきゃならない。グラファイトブロックも交換だ。燃料管も再設計」
ストーンは顔を覆った。
その「半年」は、つまり「すべてを失う半年」だ。ロスアラモスでの臨界実験の予定は白紙になる。
報告書にそう書けば、ワシントンは激昂するだろう。だが、事実は事実だった。
軍の車が砂煙を上げて近づいた。
制服の男が降り立つ。
「ストーン博士、命令です。事故の原因は“外的要因”として報告する。詳細は秘匿。送電線への衝突物は、ただの気象観測気球ということに」
「それでは再発を防げません」
「再発は防ぐ必要がない。……敵が風を使ったのだ」
男は短く言い残し、車に戻った。
ストーンは風の方向を見た。
コロンビア川の上を渡る冷たい気流が、北西から吹いている。
「敵が風を使った……」
その言葉が、耳に残った。
夜になると、ルースは一人で現場に戻った。焼け焦げた送電線の下に、黒く縮れた紙片のようなものが落ちている。拾い上げると、半分炭化した和紙に、墨の筆跡がかすかに残っていた。
そこには、こう書かれていた。
「風に願いを」
彼女はそれを握りつぶし、沈黙した。
三日後。
ワシントンD.C.、機密報告書。
《Project Hanford Incident Report 01-17A》
概要:変電系統への外的衝突による停電・炉心冷却喪失。再稼働見込み、最短六か月後。プルトニウム製造スケジュールは第二四四号炉以降に遅延。
備考:敵国による風船型兵器の可能性。米本土に対する最初の越洋攻撃と見られる。
この報告を読む者は、まだ知らない。
その「半年」が、
太平洋の向こうで、別の実験を成熟させる猶予になることを。
ハンフォード・エンジニアリング・ワークスの上空を、冷たく乾いた風が吹いていた。コロンビア川の川面には氷が張り、夕陽が赤い線を引いて沈んでいく。外気温はマイナス八度。空は透き通るほど澄んでいるが、現場の空気は重かった。
ドクター・フランクリン・ストーンは、白い息を吐きながら変電棟の外壁を見上げた。
「この風で静電トラップが壊れてもおかしくないな」
隣の若い技師エド・ハリソンが笑いを混ぜて返す。
「まるで火星ですよ、博士。川を渡る風が刃みたいだ」
「ここはもう地球の終端みたいなもんだ」
ストーンは冗談めかして答えたが、その目は笑っていなかった。
この地には、世界の命運が封じ込められている。プルトニウム生産用のB炉、D炉、F炉――それらを維持する電力供給が、この変電棟で一手に制御されていた。
午後七時二十五分。監視盤に異常が走った。
「ライン6の電圧が低下!」
ルース・メイナードが声を上げる。彼女は夜勤シフトの運転監視官で、冷却ポンプ系統の監視を担当していた。
「落雷か?」
「いいえ、雷は観測されていません」
「じゃあ、何だ……?」
次の瞬間、照明がちらついた。
外で、風が何かを引き裂く音がした。
ストーンは窓際に駆け寄り、外を見た。暗闇の中、光の点が流れていた。
「……何だあれは?」
風に乗って、白い布のようなものがゆっくり降下している。風船、のように見えた。
ルースが双眼鏡を取り出し、焦点を合わせる。
「……何か、ぶら下がってる」
「発火装置か?」
「違う、金属片……いや、バラスト?」
誰かが外線電話を掴もうとしたが、ストーンが止めた。
「待て。あれは高度な気象観測か、敵の宣伝かもしれない。いずれにしても危険だ。変電棟に接触させるな」
言い終わるより早く、音がした。
シュウウ、と風を切る音のあと、鋭い閃光が走る。
風船は送電線に絡まり、火花が夜空を裂いた。
変電盤が一斉に落ち、警報ベルが鳴り響く。
「停電だ!」
「ライン6、全損!」
「予備電力へ切り替え!」
ルースが制御棒を引く手を震わせながら叫んだ。
「予備もダメ! スパークで母線が焼けた!」
ストーンは電気主任の肩を押しのけてコンソールに手を伸ばす。
「冷却ポンプの状態は!」
「一系統停止、二系統に負荷集中!」
「どれだけ保つ?」
「四分。いや、三分が限界だ」
ポンプが停止すれば、B炉の黒鉛ブロックは一瞬で過熱し、プルトニウム製造どころか炉心が崩壊する。
「冷却水を逆送できるか?」
「試みます!」
ルースがバルブ制御レバーを引く。だが、応答はない。圧力計が震え、赤針が上限を越えて跳ねた。
「圧力が上がってる!」
「逃がせ、急げ!」
ハリソンが非常弁を開放する。瞬間、蒸気が轟音とともに噴き出し、室内が一気に白く曇った。金属臭と焦げた絶縁材の匂いが混じり、誰かが咳き込む。
外では、送電線の鉄塔が炎上していた。
風船の布が燃え、夜空に赤い煙を吐いている。
「連鎖している……」
誰かの声がした。
見れば、隣接の母線が次々に過熱している。冷却系の予備回路にも逆電流が流れたのだ。
ルースがモニターを睨んだ。
「ポンプ2号、温度限界です!」
「バイパスを開け!」
「バルブが……動かない!」
「手動で行く!」
ハリソンが工具を掴んで走った。白煙の中で姿が消えた。
時計が二十一時を指すころ、制御室の中は混乱を越えて沈黙に変わっていた。
回路盤は焦げ、冷却水ポンプの回転数は限界を越え、やがてひとつ、またひとつと止まっていく。
「炉心温度、上昇……!」
「落とせ、緊急遮断棒を挿入しろ!」
だが、回路は沈黙していた。電力がない。
ルースは両手で制御盤を叩いた。
「くそっ、反応しない!」
ストーンが咆哮した。
「人力だ! 手で行け!」
彼は作業服のまま制御区画を飛び出した。冷却水が床を滑り、煙が低くたなびいている。
金属扉を開けた瞬間、灼熱の空気が顔を打った。
光があった。
それは太陽の破片のように、静かに燃えていた。
翌朝、ハンフォードの敷地は、淡い灰色の霧に包まれていた。
B炉の冷却塔は崩れ落ち、内部の配管はすべて焼失。放射化した水蒸気が広範囲に漏出していた。
現場に立つストーンの顔には疲労が深く刻まれていた。
「死者は?」
「二名行方不明。五名重傷」
ルースが答えた。
「どれくらい復旧にかかる?」
「……半年は見てほしい」
「半年?」
「冷却系を全部作り直さなきゃならない。グラファイトブロックも交換だ。燃料管も再設計」
ストーンは顔を覆った。
その「半年」は、つまり「すべてを失う半年」だ。ロスアラモスでの臨界実験の予定は白紙になる。
報告書にそう書けば、ワシントンは激昂するだろう。だが、事実は事実だった。
軍の車が砂煙を上げて近づいた。
制服の男が降り立つ。
「ストーン博士、命令です。事故の原因は“外的要因”として報告する。詳細は秘匿。送電線への衝突物は、ただの気象観測気球ということに」
「それでは再発を防げません」
「再発は防ぐ必要がない。……敵が風を使ったのだ」
男は短く言い残し、車に戻った。
ストーンは風の方向を見た。
コロンビア川の上を渡る冷たい気流が、北西から吹いている。
「敵が風を使った……」
その言葉が、耳に残った。
夜になると、ルースは一人で現場に戻った。焼け焦げた送電線の下に、黒く縮れた紙片のようなものが落ちている。拾い上げると、半分炭化した和紙に、墨の筆跡がかすかに残っていた。
そこには、こう書かれていた。
「風に願いを」
彼女はそれを握りつぶし、沈黙した。
三日後。
ワシントンD.C.、機密報告書。
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備考:敵国による風船型兵器の可能性。米本土に対する最初の越洋攻撃と見られる。
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