9 / 21
第九章 追いつかれる者たち
しおりを挟む
一九四五年三月、ニューメキシコ州ロスアラモス。
砂漠の風が吹き抜け、研究所の建物群を赤茶けた砂塵がかすめる。
雪解けの水は細い流れとなって谷を渡り、午後の日差しがそれを真鍮のように光らせていた。
遠くでは実験場の小さな爆発音が、雷のように響く。
ドクター・フランクリン・ストーンは、車を降りた。
ハンフォード事故から二か月。彼の顔には疲れが刻まれていた。
車の窓から降ろされた書類の束には、赤いスタンプ――DELAY CONFIRMED(遅延確定)。
「半年。いや、七か月だ」
同行の士官が呟く。
「まるで地獄の延長契約だな」
「地獄にも期限があるのか?」
ストーンは皮肉気に言って、建物に入った。
中では、ロスアラモス研究所のディレクター、ロバート・オッペンハイマーが待っていた。
痩せた頬に疲れの影を浮かべ、煙草の灰を落としながら、ストーンを見る。
「ハンフォードの現場から、ようやく帰ってきたか。どうだった?」
「惨状です。炉心は完全に破壊。グラファイト・ブロックは再利用不能。新設ラインが稼働するのは秋でしょう」
オッペンハイマーは短く息を吐いた。
「秋、か……つまり、“リトルボーイ”しか残らない」
「そうなります」
「マンハッタン計画は、“二本立て”で動いていたはずだ。ウランとプルトニウム。一本が折れた今、もう片方に全ての命運がかかる」
ストーンは頷いた。
「だが、ウランも時間が足りない。遠心分離も、気体拡散も、思ったより進捗が悪い。素材の純度が足りない。戦争は終わるかもしれないが、核は間に合わない」
「……“終わるかもしれない”?」
オッペンハイマーの眉がわずかに動く。
「誰の情報だ?」
「陸軍情報部の内部報告。日本が、別の形で“臨界”に近づいているという噂です」
「まさか」
「まだ裏付けはありません。が、理研――RIKEN――という言葉が出てきた」
オッペンハイマーは煙草をもみ消し、机の端に腰を下ろした。
「我々は“時間の神”を手に入れようとしている。だが、神にすら“締め切り”があるのかもしれないな」
ストーンは、疲れた笑いをこぼした。
「もし神に締め切りがあるなら、地獄には報告書があるでしょうね」
「君のユーモアは好きだ」
オッペンハイマーは一瞬笑い、すぐに真顔に戻った。
「グローヴス将軍は、君の報告を受けて怒り狂っている。原因が“風船”では、あまりに馬鹿げているからだ」
「馬鹿げているが、事実です」
「わかっている。だが将軍は“敵の成功”を認めたくない。プレスにも出せない。だから、全ては君の“過失”になる」
「……つまり、スケープゴートか」
「そう呼ぶならそうだ」
「構いません。私は、科学者ですから」
「それは、まだ“安全な言葉”だと思うか?」
オッペンハイマーの声は低かった。
「科学者であることは、もう安全じゃない。君も知っているはずだ。人が“神の火”を弄べば、火は必ず人を焼く」
窓の外、砂塵の中を若い物理学者たちが行き来している。ファインマンが書類を抱えて駆け抜け、エンリコ・フェルミが実験棟から出てくる。
オッペンハイマーは続けた。
「フェルミは言った。“制御された臨界は、美しい”。だが我々がやろうとしているのは、美しさじゃない。“勝利”だ。勝利は美しくない」
「勝利が先にあり、科学が後にある――それは逆です」
「だが、戦争は順番を選ばない」
しばし沈黙が落ちた。
そこへ、ドアが開いた。
レスリー・グローヴス将軍が入ってくる。分厚い肩章、軍靴の音。
「オッペンハイマー、ストーン、立て」
二人は立ち上がる。
将軍は机の上に拳を叩きつけた。
「この計画は国家そのものだ。お前たちの“感情”や“倫理”で止められるものじゃない。日本に“次の都市”が立っている限り、我々は止まらん」
「しかし、将軍」
ストーンが声を上げる。
「あなたが命じているのは“爆弾”ではなく、“太陽の模倣”です。それは誰にも制御できない」
「制御できるさ。勝つまでは」
オッペンハイマーが低く言った。
「それが、敗北の定義ですよ、将軍」
グローヴスの目が鋭くなった。
「科学者が戦争を語るな。戦争を終わらせるのは政治だ」
「その政治が、科学に火をつけた」
「黙れ、ストーン」
将軍は命令書を突き出した。
「お前はハンフォードの再建を指揮しろ。二十四時間体制だ。次の炉心試験は五月。間に合わせろ。できなければ――他の人間に代える」
「承知しました」
ストーンは短く答えた。
「だが、私は報告書に真実を書く」
「勝手にしろ。報告書は燃やせる」
将軍が去ると、部屋は再び静まった。
オッペンハイマーが椅子に崩れ落ち、低く呟く。
「科学者は、神に近づいたと思っている。だが実際は、“政治の奴隷”に近づいているだけだ」
ストーンは立ち尽くした。
「日本の理研に、同じ科学者がいるとしたら、彼も今、同じことを考えているでしょうか」
「違う。彼は“時間を稼げた者”だ。君は、“追われる者”だ」
オッペンハイマーは煙草に火を点けた。
「だが、歴史はいつも“追われる者”を記録する」
煙の中で、彼の顔が霞んだ。
「ストーン、君は帰れ。砂漠の風が君を殺す前に」
ストーンは外へ出た。
夕陽が沈み、空が紫に染まっていた。
車に乗り込む前、彼はふと空を見上げた。
東の空。まだ暗くはないが、どこか遠くで雲が立ち上がっているように見えた。
その雲が、彼の心に形を残した。
――もし日本が先に光を見たら。
誰が、神を名乗るのだろう。
砂漠の風が吹き抜け、研究所の建物群を赤茶けた砂塵がかすめる。
雪解けの水は細い流れとなって谷を渡り、午後の日差しがそれを真鍮のように光らせていた。
遠くでは実験場の小さな爆発音が、雷のように響く。
ドクター・フランクリン・ストーンは、車を降りた。
ハンフォード事故から二か月。彼の顔には疲れが刻まれていた。
車の窓から降ろされた書類の束には、赤いスタンプ――DELAY CONFIRMED(遅延確定)。
「半年。いや、七か月だ」
同行の士官が呟く。
「まるで地獄の延長契約だな」
「地獄にも期限があるのか?」
ストーンは皮肉気に言って、建物に入った。
中では、ロスアラモス研究所のディレクター、ロバート・オッペンハイマーが待っていた。
痩せた頬に疲れの影を浮かべ、煙草の灰を落としながら、ストーンを見る。
「ハンフォードの現場から、ようやく帰ってきたか。どうだった?」
「惨状です。炉心は完全に破壊。グラファイト・ブロックは再利用不能。新設ラインが稼働するのは秋でしょう」
オッペンハイマーは短く息を吐いた。
「秋、か……つまり、“リトルボーイ”しか残らない」
「そうなります」
「マンハッタン計画は、“二本立て”で動いていたはずだ。ウランとプルトニウム。一本が折れた今、もう片方に全ての命運がかかる」
ストーンは頷いた。
「だが、ウランも時間が足りない。遠心分離も、気体拡散も、思ったより進捗が悪い。素材の純度が足りない。戦争は終わるかもしれないが、核は間に合わない」
「……“終わるかもしれない”?」
オッペンハイマーの眉がわずかに動く。
「誰の情報だ?」
「陸軍情報部の内部報告。日本が、別の形で“臨界”に近づいているという噂です」
「まさか」
「まだ裏付けはありません。が、理研――RIKEN――という言葉が出てきた」
オッペンハイマーは煙草をもみ消し、机の端に腰を下ろした。
「我々は“時間の神”を手に入れようとしている。だが、神にすら“締め切り”があるのかもしれないな」
ストーンは、疲れた笑いをこぼした。
「もし神に締め切りがあるなら、地獄には報告書があるでしょうね」
「君のユーモアは好きだ」
オッペンハイマーは一瞬笑い、すぐに真顔に戻った。
「グローヴス将軍は、君の報告を受けて怒り狂っている。原因が“風船”では、あまりに馬鹿げているからだ」
「馬鹿げているが、事実です」
「わかっている。だが将軍は“敵の成功”を認めたくない。プレスにも出せない。だから、全ては君の“過失”になる」
「……つまり、スケープゴートか」
「そう呼ぶならそうだ」
「構いません。私は、科学者ですから」
「それは、まだ“安全な言葉”だと思うか?」
オッペンハイマーの声は低かった。
「科学者であることは、もう安全じゃない。君も知っているはずだ。人が“神の火”を弄べば、火は必ず人を焼く」
窓の外、砂塵の中を若い物理学者たちが行き来している。ファインマンが書類を抱えて駆け抜け、エンリコ・フェルミが実験棟から出てくる。
オッペンハイマーは続けた。
「フェルミは言った。“制御された臨界は、美しい”。だが我々がやろうとしているのは、美しさじゃない。“勝利”だ。勝利は美しくない」
「勝利が先にあり、科学が後にある――それは逆です」
「だが、戦争は順番を選ばない」
しばし沈黙が落ちた。
そこへ、ドアが開いた。
レスリー・グローヴス将軍が入ってくる。分厚い肩章、軍靴の音。
「オッペンハイマー、ストーン、立て」
二人は立ち上がる。
将軍は机の上に拳を叩きつけた。
「この計画は国家そのものだ。お前たちの“感情”や“倫理”で止められるものじゃない。日本に“次の都市”が立っている限り、我々は止まらん」
「しかし、将軍」
ストーンが声を上げる。
「あなたが命じているのは“爆弾”ではなく、“太陽の模倣”です。それは誰にも制御できない」
「制御できるさ。勝つまでは」
オッペンハイマーが低く言った。
「それが、敗北の定義ですよ、将軍」
グローヴスの目が鋭くなった。
「科学者が戦争を語るな。戦争を終わらせるのは政治だ」
「その政治が、科学に火をつけた」
「黙れ、ストーン」
将軍は命令書を突き出した。
「お前はハンフォードの再建を指揮しろ。二十四時間体制だ。次の炉心試験は五月。間に合わせろ。できなければ――他の人間に代える」
「承知しました」
ストーンは短く答えた。
「だが、私は報告書に真実を書く」
「勝手にしろ。報告書は燃やせる」
将軍が去ると、部屋は再び静まった。
オッペンハイマーが椅子に崩れ落ち、低く呟く。
「科学者は、神に近づいたと思っている。だが実際は、“政治の奴隷”に近づいているだけだ」
ストーンは立ち尽くした。
「日本の理研に、同じ科学者がいるとしたら、彼も今、同じことを考えているでしょうか」
「違う。彼は“時間を稼げた者”だ。君は、“追われる者”だ」
オッペンハイマーは煙草に火を点けた。
「だが、歴史はいつも“追われる者”を記録する」
煙の中で、彼の顔が霞んだ。
「ストーン、君は帰れ。砂漠の風が君を殺す前に」
ストーンは外へ出た。
夕陽が沈み、空が紫に染まっていた。
車に乗り込む前、彼はふと空を見上げた。
東の空。まだ暗くはないが、どこか遠くで雲が立ち上がっているように見えた。
その雲が、彼の心に形を残した。
――もし日本が先に光を見たら。
誰が、神を名乗るのだろう。
0
あなたにおすすめの小説
鋼鉄海峡突破戦 ーホルムズ海峡ヲ突破セヨー
みにみ
SF
2036年4月9日第六次中東戦争が開戦 中露の支援を受けたイランは中東諸国へと攻勢を強める
無論ホルムズ海峡は封鎖 多くの民間船がペルシャ湾に閉じ込められ世界の原油価格は急高騰
そんな中ペルシャ湾から4月28日 ある5隻のタンカー群がホルムズ海峡を強行突破しようと試みる
自衛用兵装を施した日本のある燃料輸送会社のタンカーだった 今彼らによる熱い突破劇が始まろうとしていた
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
米国戦艦大和 太平洋の天使となれ
みにみ
歴史・時代
1945年4月 天一号作戦は作戦の成功見込みが零に等しいとして中止
大和はそのまま柱島沖に係留され8月の終戦を迎える
米国は大和を研究対象として本土に移動
そこで大和の性能に感心するもスクラップ処分することとなる
しかし、朝鮮戦争が勃発
大和は合衆国海軍戦艦大和として運用されることとなる
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる