くたばれオッペンハイマー

ぼを

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第九章 追いつかれる者たち

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 一九四五年三月、ニューメキシコ州ロスアラモス。

 砂漠の風が吹き抜け、研究所の建物群を赤茶けた砂塵がかすめる。
 雪解けの水は細い流れとなって谷を渡り、午後の日差しがそれを真鍮のように光らせていた。
 遠くでは実験場の小さな爆発音が、雷のように響く。

 ドクター・フランクリン・ストーンは、車を降りた。
 ハンフォード事故から二か月。彼の顔には疲れが刻まれていた。
 車の窓から降ろされた書類の束には、赤いスタンプ――DELAY CONFIRMED(遅延確定)。
 「半年。いや、七か月だ」
 同行の士官が呟く。
 「まるで地獄の延長契約だな」
 「地獄にも期限があるのか?」
 ストーンは皮肉気に言って、建物に入った。

 中では、ロスアラモス研究所のディレクター、ロバート・オッペンハイマーが待っていた。
 痩せた頬に疲れの影を浮かべ、煙草の灰を落としながら、ストーンを見る。
 「ハンフォードの現場から、ようやく帰ってきたか。どうだった?」
 「惨状です。炉心は完全に破壊。グラファイト・ブロックは再利用不能。新設ラインが稼働するのは秋でしょう」
 オッペンハイマーは短く息を吐いた。
 「秋、か……つまり、“リトルボーイ”しか残らない」
 「そうなります」
 「マンハッタン計画は、“二本立て”で動いていたはずだ。ウランとプルトニウム。一本が折れた今、もう片方に全ての命運がかかる」
 ストーンは頷いた。
 「だが、ウランも時間が足りない。遠心分離も、気体拡散も、思ったより進捗が悪い。素材の純度が足りない。戦争は終わるかもしれないが、核は間に合わない」
 「……“終わるかもしれない”?」
 オッペンハイマーの眉がわずかに動く。
 「誰の情報だ?」
 「陸軍情報部の内部報告。日本が、別の形で“臨界”に近づいているという噂です」
 「まさか」
 「まだ裏付けはありません。が、理研――RIKEN――という言葉が出てきた」

 オッペンハイマーは煙草をもみ消し、机の端に腰を下ろした。
 「我々は“時間の神”を手に入れようとしている。だが、神にすら“締め切り”があるのかもしれないな」
 ストーンは、疲れた笑いをこぼした。
 「もし神に締め切りがあるなら、地獄には報告書があるでしょうね」
 「君のユーモアは好きだ」
 オッペンハイマーは一瞬笑い、すぐに真顔に戻った。
 「グローヴス将軍は、君の報告を受けて怒り狂っている。原因が“風船”では、あまりに馬鹿げているからだ」
 「馬鹿げているが、事実です」
 「わかっている。だが将軍は“敵の成功”を認めたくない。プレスにも出せない。だから、全ては君の“過失”になる」
 「……つまり、スケープゴートか」
 「そう呼ぶならそうだ」
 「構いません。私は、科学者ですから」
 「それは、まだ“安全な言葉”だと思うか?」
 オッペンハイマーの声は低かった。
 「科学者であることは、もう安全じゃない。君も知っているはずだ。人が“神の火”を弄べば、火は必ず人を焼く」

 窓の外、砂塵の中を若い物理学者たちが行き来している。ファインマンが書類を抱えて駆け抜け、エンリコ・フェルミが実験棟から出てくる。
 オッペンハイマーは続けた。
 「フェルミは言った。“制御された臨界は、美しい”。だが我々がやろうとしているのは、美しさじゃない。“勝利”だ。勝利は美しくない」
 「勝利が先にあり、科学が後にある――それは逆です」
 「だが、戦争は順番を選ばない」
 しばし沈黙が落ちた。

 そこへ、ドアが開いた。
 レスリー・グローヴス将軍が入ってくる。分厚い肩章、軍靴の音。
 「オッペンハイマー、ストーン、立て」
 二人は立ち上がる。
 将軍は机の上に拳を叩きつけた。
 「この計画は国家そのものだ。お前たちの“感情”や“倫理”で止められるものじゃない。日本に“次の都市”が立っている限り、我々は止まらん」
 「しかし、将軍」
 ストーンが声を上げる。
 「あなたが命じているのは“爆弾”ではなく、“太陽の模倣”です。それは誰にも制御できない」
 「制御できるさ。勝つまでは」
 オッペンハイマーが低く言った。
 「それが、敗北の定義ですよ、将軍」
 グローヴスの目が鋭くなった。
 「科学者が戦争を語るな。戦争を終わらせるのは政治だ」
 「その政治が、科学に火をつけた」
 「黙れ、ストーン」
 将軍は命令書を突き出した。
 「お前はハンフォードの再建を指揮しろ。二十四時間体制だ。次の炉心試験は五月。間に合わせろ。できなければ――他の人間に代える」
 「承知しました」
 ストーンは短く答えた。
 「だが、私は報告書に真実を書く」
 「勝手にしろ。報告書は燃やせる」

 将軍が去ると、部屋は再び静まった。
 オッペンハイマーが椅子に崩れ落ち、低く呟く。
 「科学者は、神に近づいたと思っている。だが実際は、“政治の奴隷”に近づいているだけだ」
 ストーンは立ち尽くした。
 「日本の理研に、同じ科学者がいるとしたら、彼も今、同じことを考えているでしょうか」
 「違う。彼は“時間を稼げた者”だ。君は、“追われる者”だ」
 オッペンハイマーは煙草に火を点けた。
 「だが、歴史はいつも“追われる者”を記録する」
 煙の中で、彼の顔が霞んだ。
 「ストーン、君は帰れ。砂漠の風が君を殺す前に」

 ストーンは外へ出た。
 夕陽が沈み、空が紫に染まっていた。
 車に乗り込む前、彼はふと空を見上げた。
 東の空。まだ暗くはないが、どこか遠くで雲が立ち上がっているように見えた。
 その雲が、彼の心に形を残した。
 ――もし日本が先に光を見たら。
 誰が、神を名乗るのだろう。
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