くたばれオッペンハイマー

ぼを

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第十章 未来の亡霊

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 一九四五年四月、駒込。

 理化学研究所の中庭には、春の花がまだ咲ききれずに散っていた。
 空襲の間隔は短く、建物の壁には弾片の痕が残る。
 だが、その夜の会議室は静かだった。
 厚いカーテンが外光を遮り、一本の電球だけが、机の上に置かれた地図を照らしている。

 参加者は三人――
 仁科芳雄、豊橋少佐、そして佐倉美鈴。
 机の上には、極秘扱いの書類と、黒鉛の破片がひとつ置かれていた。
 「これが、“火の種”だ」
 仁科が言った。
 「この破片の中には、世界を変える力が潜んでいる。だが、問題は“誰が”変えるかだ」

 豊橋は黙って煙草を指の間で転がした。
 「陸軍は、“もし完成すれば”の想定を始めています」
 「想定?」
 「はい。“投下”の想定です」
 その言葉に、美鈴が顔を上げた。
 「どこに、ですか」
 「敵国本土……ではなく、“示威”だと聞いています。太平洋上の無人島、あるいは上海沖」
 仁科は眉を寄せた。
 「“示威”で止まるならいい。だが、戦争というものは、“止まらない”性質を持っている」
 「……はい」
 「科学が神の火を生むとしても、それを神のように扱う人間はいない」

 沈黙が流れた。
 外では空襲警報のサイレンが遠くに聞こえ、夜風が窓を鳴らした。
 美鈴が、ゆっくりと口を開いた。
 「先生。もし日本が先に、“完成”させたら――世界はどうなりますか」
 仁科は机の上の地図を指でなぞり、ゆっくりと答えた。
 「アメリカは、報復する。必ずだ。原爆を持たぬ国が、原爆を使ったなら、次の瞬間に“持つ”国は、その意味を消すために世界を焼く」
 「……つまり、“勝てない”」
 「勝利という言葉は、もうこの時代には合わない。――ただ、早く滅ぶか、遅く滅ぶかの違いだ」

 豊橋が煙を吐きながら言った。
 「だが、完成すれば、“交渉”の切り札にはなる。終戦を早めるかもしれない」
 「それが陸軍の理屈か」
 「はい」
 「そしてそれは、科学の敵だ」
 仁科の声には、珍しく怒気があった。
 「科学は人を救うためにある。だが、人はいつも“使う”ために科学を欲しがる。――科学が罪を犯すのではない、人が“科学を使う罪”を犯すのだ」

 美鈴は、ノートに一行書いた。
 《科学は、人が自分の罪を拡大するためにあるのかもしれない》
 それを見て、仁科は微かに笑った。
 「君は、正しい。“知る”ことは、必ず“背負う”ことになる」



 翌日、海軍省内の地下室。
 豊橋は、上官の中将から密命を受けていた。
 「理研の成果を、軍令部が直接管理下に置く」
 「……それは、先生方の意思に反します」
「構わん。技術は国家のものだ」
 「国家が滅びれば、技術も滅びます」
 「滅びる前に使えばいい」
 中将の目は濁っていた。
 豊橋は無言で敬礼し、退出した。
 廊下に出ると、背中に汗が伝った。
 戦争は、もう科学の外側にあった。



 夜。
 理研の屋上。
 遠くに炎上する街の赤が見える。
 美鈴がノートを抱えて立っていた。
 「少佐。……もし日本が先に完成させたら、どうなりますか」
 豊橋は答えなかった。
 代わりに、空を指差した。
 「星が、減る」
 「え?」
 「人が空を見上げる回数が減るんだ」
 「どうして」
 「空に、恐怖を見るようになるからさ」
 「……」
 美鈴は言葉を失った。
 豊橋は微笑んだ。
 「君がその火を見たら、ちゃんと書き留めろ。誰かが、後で読むために」

 そのとき、遠くで地鳴りのような音がした。
 空襲ではない。もっと低く、地の奥から響くような――
 「南のほうか……」
 「また?」
 「いや、今度は違う」
 彼らの知らぬところで、アメリカの砂漠でも“光”が生まれようとしていた。
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