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カエルの歌が聴こえない

第10話

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 自分のタルパに叱られるとは…。否、実に的確なタイミングでのアドバイスだよ。

 僕は有香に、何か飲み物作るから、適当にキーボード弾いていていいよ、と声を掛けてから、キッチンに向かった。有香は、25鍵の小さなキーボードを面白がって、何やら色々と旋律を弾いては、クスクスと笑っていた。

 僕は電気ポットで湯を沸かして、コーヒーを淹れる事にした。中野の友人だったら、こういう時に気の利いた淹れ方をするんだろうけれど、僕は豆から挽いたりしないから、インスタントコーヒー。

 湯気の立ち上るカップを2つ持って部屋に戻り、有香の前にカップを置いた。僕は音を立てながら、自分のコーヒーを飲みながら、有香の隣に腰かけた。

「ボクのはないの?」
 言われて、僕はミコの方を振り返った。ミコは意地悪そうな表情で笑っていた。

 有香は、コーヒーに手を付けなかった。そういえば、この前一緒に喫茶店で筆談した時も、結局有香はコーヒーに手を付けなかったな。
「あれ?」僕が言った。「コーヒー嫌いだっけ?」
 僕が言うと、有香は、ううん、とかぶりを振りながら答えた。
「ありがとう。でも、香りだけで充分」有香が言った。「コーヒーは嫌いじゃないよ」
 じゃあ、なんで飲まないんだろう。
「それじゃあ、ボクが貰っちゃおっかな~」
 言って、ミコはどこからかストローを取り出すと、カップの中に挿して、コーヒーを飲み始めた。おいおい、ホットだぞ。
「あちちっ!」
 僕は危うく、大声で笑いそうになった。コイツ、わざとやってるな。
 僕が笑いを堪えたのを見てか、ミコは、また口を尖らせると、ちえっ、と言い、立ち上がると、トイレの方へ消えていった。おいおい、ちゃんと戻ってきてくれよ。歌ってくれるミコがいないと、歌がうまくできないんだから。
 僕の心の声を読んだのか、ミコは、トイレの扉から顔だけ出すと、べえ、と言いながら舌を出し、扉を閉めてしまった。
 あ~…。

 不図、僕は、有香の視線の方向が不自然である事に気づいた…気のせいか? ミコが立ち上がってからトイレへ行き、今、顔を出したところまで、有香の顔の向きや視線は、ミコを追っていやしなかったか? 否、そんな事がある筈ない。タルパは僕の脳が作り出した幻影だから、他人がそれを見たり感じたりする事は不可能だ。中野の友人の様に、タルパの存在を受け入れる事で、僕の様子を通して感じ取る事は出来るかもしれないけれど、視線で追うなんて事は絶対に無理だ。これはやってみれば解る。何もない中空に焦点を結ぶのとても難しい。
「どうしたの?」
 僕は、キョトンとする有香に向かって、声を掛けた。彼女は、はっ、と我に返るようにしてから、何でもないよ、と笑顔で返答した。それで僕は、それ以上気にしない様にした。
「スランプの歌だったよね?」有香が言った。僕は、その通りだよ、と返答した。「だったら、いっそ、その事を歌詞にしてみたらどうかなあ、って」
 僕は苦笑した。
「メタいってやつだね」
「だって」有香が言った。「スランプの時の自分になんて、そうそう出会えないでしょ? だったら、今の気持ちをそのまま歌詞に載せた方が建設的じゃない?」
 あ~。そういえば有香は、昔から、こんなポジティブシンキングの娘だったかも。
「そっかあ…」僕が言った。「じゃあ、今の状況を何語か書き出すから、それを繋いで歌詞にして貰える?」
 有香は笑顔を作ると、うん、と答えた。
「あと、歌の前後にセリフを入れてもいい?」
 セリフ?
「いいけど…どんなセリフ?」
「それは、歌詞が出来てからのお楽しみ」有香が、キシシと笑った。「タイトルも決めちゃっていい?」
 タイトルまで?
 僕が考えるタイトルは、いつも長ったらしくて持って回った様な内容だから、それはありがたいかもしれない。
「なんていうタイトル?」
「カエルの歌が聴こえない」有香は言って、小さく声を立てて笑った。「いいでしょ」
 僕は、わざと笑顔を作ってそれはいいね、と答えた。
「はい! はい!」トイレの方から大きな声がしたかと思うと、ミコが体を扉から出して、手を挙げて立っていた。「ボクもそのタイトルに賛成!」
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