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「白…」
幼い頃、照りつける夏の日、太陽に顔を向けて瞼を閉じるのが好きだった。目に映るのは暗闇ではなく、暖かなオレンジ。陽の光が皮膚を透かして虹彩に降り注ぐ。風の感触。葉擦れの音。時折、木漏れ日が瞼の裏に鮮やかなコントラストを作る。
でも、目を開けた時、あたしの唇から零れた色は、白だった。そして、実際に目の前に広がる世界は…ただの白一色だった。
これは…天井? …寝ていたんだろうか。床に直接?
あたしは、ゆっくりと上体を起こした。頭が混乱している。ここは…どこだろう。駄目…思い出せない。直前の記憶が…ない。
はっきりしない意識のまま、あたりを周りを見渡した。そこは、一面の白だった。白…でも、地平線が見える様な途方も無い空間ではない。ここは、四角い…部屋? 部屋だ。壁も天井も床も、一面が真白で焦点が定まり難いけれど…部屋だ。そして…何もない。部屋を構成する6つの白い平面以外、何もない…あたしを除いては…。音もない。あたしの肩より少し長い髪の毛が、頭を動かす度に服に当たって、衣擦れの音が幽かに聞こえるだけ。
あたしは床に手をついて、立ち上がった。立ち上がれた。特に筋肉の衰えを感じる事はない。そんなに長い間、眠っていた訳ではなさそう。手で触れた床は…素材は何だろう? 金属やコンクリートというよりは、アクリルなどの樹脂に近い肌触りと温度。とても丈夫そうな素材。
着ている服は…少し毛羽立ったリンネルの白いワンピース。全くの無地。まるで囚人服みたいでもあるし、病院の検診衣みたいにも見える。そして、裸足。指輪やアクセサリー類はしていない。鏡が無いから解らないけれど、多分化粧なんかもしていない。爪は、そんなに伸びてもいない。体全体を触ってみても…目立って怪我をしているところや、痛みを感じる場所はない。腕を見ても、何か注射をされた痕だとか、そういう類のものは見当たらない。唯一、首の後ろにバンドエイドが貼ってあるのが解ったくらい。体全体を両手で触れると、乳房や腰、臀部や太腿といった体のラインに沿って、白い服に陰が生じる。
陰…? ということは、光源がある筈。
あたしは天井を見渡した。目が眩む程の、白。蛍光灯やLEDが設置されているようには見えない。埋め込まれているのか…天井全体が均一に光っている様にも見える。
部屋の真中に立てば、自分の影の方向で光源の位置が解る筈…駄目、解らない。影は殆ど発生していない。つまり、本当に天井が均一に光っているんだ。
落ち着かなければ…。何故こんなところに自分がいるのかとか、どういう経緯があったのか、を考えるのは次のステップ。まずは、状況を冷静に判断する為の情報収集をしなければ…。
あたしは部屋の四つ角のうちの一つの隅に立ち、壁に手を当てながら、床や天井、壁を注視しながらゆっくりと一周した。時折、壁を、曲げた指の関節で叩き、壁の厚さや向こう側の状況を確かようとしたが、無意味だった。音は響かず、吸い込まれていくだけ。そして、すぐに元の角に戻ってしまった。
一辺が約4mの立方体。
この試行で解った情報はこれだけだった。つまり、あたしの歩幅で約6歩。これが壁と壁の間の距離。天井の高さは目測だけれど、恐らく同じ長さだろうし、誤差があったとして重大な要素ではなさそう。そして、全体、本当に壁と天井と床以外、何もない。
あたしは大きく溜息をつくと、部屋の中心に座り込んだ。
訳が解らない。解らない限界を超えているけれど、考えなくては…。情報は、この部屋と、あたしの体と、あたしの記憶の中にしかない。この材料だけを使って、論理的に今の状況を説明できる仮説を考えなければ…。
まず、直前の記憶は一切ない。目を覚ましたら、この空間に居た。例えば、会社勤めをしているとか、大学に通っているとかして、代り映えのない毎日を、明日以降も同じような毎日が続くんだろうという蓋然性の日々を過ごしている裡に、気づいたらここに居た、という類の感覚はない。そもそも…。そもそも、あたしは普段、何をして過ごしていたんだろう。あれ…? 思い出せない。あたしは…働いていたんだっけ? 住んでいたところは…おかしい…そんな…。
「…思い出せないなんて…」
思わず声を漏らしてしまった。そして、ああ、あたしって、そうか、こんな声をしていたんだな、と、混乱する頭の片隅で思った。
思い出せない。普段の生活や人間関係の事だけじゃない。あたし自身について、何も思い出せない。つまり、あたしは、あたしが何者で、何歳で、なんという名前なのかすら、思い出せないでいる。そんな…そんなことって!
あたしは、わざと首を強く左右に振った。とりあえず、今パニックを起こしては駄目。状況がこのまま変わらなければ、今後そんな悲観に暮れる時間はいくらでもある筈だから、まずは忘れなければ。忘れなければ…。
そう、これも重要な情報のひとつの筈。あたしは、あたしが何者かが解らない。つまり…強い精神的衝動などの理由で記憶を脱失してしまったか、何か薬品を投与されて記憶を奪われたか…。この場所が明らかに日常ではないことを考えれば…少なくともあたしの記憶の感覚からすると、ここが日常の世界でない事は自明…だから、前者は否定できそう。という事は、あたしは何者かの手によって記憶を奪われ、ここに連れてこられた。この、何もない、出口すらない、白い四角い空間に。そして問題は「中に入れる事と、出られる事は同義ではない」という事。つまり、入口があることと、出口がある事は同じではない。「入れても出られない仕掛け」などいくらでも存在している。だから、あたしがこの空間から出る方法が存在しているかは、現時点では解らない。
「第三者に依って閉じ込められた」仮説が正しいとすると、次は、「何故、何の目的で閉じ込められたのか」。
考え得るパターンはそんなに多くない。思いつく範囲で
仮説1:何かの実験としてこの空間に入れられた
仮説2:何かの懲罰としてこの空間に入れられた
仮説1が正しいとすると、今度は「自分自身はその実験に関係する人間なのか、それとも無造作に一般人からなんらかの条件で以て選定されたのか」という疑問が出てくる。でもこれは、記憶を奪われているから、どちらか結論づける事ができない。だから考える事にはあまり意味はなさそう。
仮説2が正しいとすると、あたしがなんらかの罪を犯した事が前提になる。でも、通常であれば留置所や拘置所、刑務所に入れられる筈。事実は、そうではない特殊な空間。とすると、これは私刑という事になる。私刑でこのような懲罰を行えるとなると、余程大きな秘密組織を想定しなければならない。仮説1の方が論理的根拠に分がありそう。
実験だとしたら結果を求めるだろうし、懲罰だとしたら更生を求めるだろう。どちらの仮説が正しいとしても、命を取られる危険性はないだろうか…。いえ、それは解らない。少なくとも時間は流れているし、あたしが人間である以上は生理現象…例えば、空腹とか排便とか…がこれから出てくるだろうから、そうなると何らか充てがわれる物があるだろう。何らか充てがわれるという事は、あたしを生かす事に意味がある、という事だから、命を取られるとしても、すぐではない筈…。
まずは、仮説1が正しい事を念頭において行動しよう。今すぐにできる事は、何もない。何か、与えられる物があるかを待つ事が、今できる最良の選択肢なのは間違いなさそう。
「…えっ…?」
思わず顔を上げた。周辺視野に、明らかに「白ではない何か」が入って来た気がしたから。そして、その白くない物体が見えた方向に頭を向けた。
あたしは思わず息を飲んだ。ああ、こういう時って、本当に息を飲むんだな、と冷静に判断する自分がいた。
あたしから見て右側の壁。床から120cmくらいの高さの所に、赤い小さな物体があるのが見えた。あたしはその物体から視線を逸すことなく、立ち上がると、ゆっくりと近づいた。
虫…? レディーバグの類? だとしたら大きすぎる。人の血を限界まで吸ったダニは、1cmくらいの赤い丸になると聞いた事はあったけれど…鮮やかすぎる。
「これは…」あたしは、その赤色の前で立ち止まった。「…ボタン?」
ボタンだった。真っ赤なボタン。スイッチというよりも、ボタンと呼称するのが相応しい。ボタンのクオリア、あるいはイデアとでもいうべき、ボタン。
あたしは、あたりを見渡した。この眼前のボタン以外、何もない。誰も居ない。という事は、最初からこの位置に、このボタンはあったという事だろうか…。でも、不可解。さっき、あたしは壁に手を触れながら一周した。この高さにあるボタンであれば、気づかない筈がない。それとも、動転していて見過ごしたのだろうか…。いいえ、それは有り得ない。床から120cm。如何にも「押して下さい」という高さに設置された、この赤色のボタンに気づかない筈がない。つまり、知らぬ間にボタンが出現した。となると、これは、あたしがこの部屋に閉じ込められてから、最初に起きた変化という事になる。変化…。変化が起こるという事は、第三者の意図があるという事。あたしに、このボタンを押させようとしている…。
あたしは、右手の人差し指を差し出すと、ゆっくりとボタンに近づけた…。
押すべきか…。押さざるべきか…。
あたしは時間をかけて考えた末に、震える右手を握りしめ、腕を下ろした。
ボタンを押すことはいつでもできる。今は、やめておこう。ボタン以外に、何か変化が生じる可能性もある。このボタンは、あたしが唯一この空間で能動的に働きかける事ができる信号。押すのは、最期と思ったタイミングでも遅くはない筈…。
あたしは大きく溜息をついた。精神を正常に保つのが、本当に大変。ともすれば、発狂していてもおかしくない状況。とにかく、まずは命の危険があるのかないのか、そこだけでもはっきりすれば、出られる出られないは別として、精神的余裕が生まれるのに…。
あたしは、また部屋の中央に戻ろうと踵を返した。そしてまた、息を飲んだ。息を飲んで、咳き込んでしまった。
駄目だ…ここで生じる現象の全てにおいて、一々驚いていては駄目なのだ。囚われてしまったら帰りの道を見失う。できる事は多くはないのだから…。情報収集、状況の把握、そして仮説立案、検証、行動。理性を失うのは後からでもできる。今は精神を集中させて、最大パフォーマンスで臨まなければ…。
あたしは、部屋の中央に突如として現れた物体…それは、床から天井までを貫く、一本の棒…に、視線を上下に動かしながらゆっくりと近づいた。そう、棒、ポール。確実にさっきまでは存在しなかった物。あたしがボタンに気を取られている裡に、どうやら設置された物。ポール自体は、そんなに太くない。両手で囲めてしまうくらいの太さ。色は、壁や床と全く同じ白。ただ、色のついた部分が2箇所。1つ目は、ポールの根本から1mくらいの高さに設えられた、1本の横棒に備わっている把手のブラック。この横棒は60cmくらいの長さで、ポールから垂直に、床と平行に1本だけ突き出ている。そして、その横棒には2箇所、黒い樹脂製の把手のような物が付いている。まるで、両手でそれを掴んで、押すか引くかしろ、と指示されているみたい…。そして2つ目は、その横棒の、ポールの付け根あたりに埋め込まれた、カウンター。街頭調査で通行人数を測る時に、カチカチと押し続ける、あのカウンターと同様の、アナログカウンターが埋め込まれている。桁数は5桁。現在は「00000」になっている。このカウンターの、枠と文字の色がブラック。
部屋の中央に鎮座されるのは、少なからず不快だった。こういう時、人が一番落ち着ける場所は、四隅のいずれか、または部屋の中央のどちらかしかない。あたしは無意識に部屋の中央を安息の場所として定めていた。それはきっと、この空間の壁面に警戒心があるから…。
あたしは、その横に突き出した棒の把手に手をあてた。誂えたように、手の指の収まりが良い。アフォーダンス。おそらく、100人中100人が、何も説明や指示がなくとも、この棒の把手を手で掴み、ポールの周りに沿って押す事ができるだろう。親切設計。
恐る恐る、押してみる。思ったよりも滑らかに、でも若干の抵抗を以て、床から天井まである長いポールが回りだす。音はしない…しないけれど、ポールを回すと、天井付近と床付近の部分がブルーに光る。回すまで気づかなかったけれど、ポール自体にLEDか何かが埋め込まれているみたい。回すと光る…。敢えて光らせている…。そして、思ったとおり。横棒の根本付近のカウンターは、1週回すごとに1つずつ増えていく。これは…増えていく。何の為に?
そのまま10周くらい回してみて、カウンターが予測通りに動くのを確認してから、回すのをやめた。LEDは回している間、継続的に点灯しているから、何かの信号を表すなどのヒントがある訳ではなさそう。とすると、カウンターが重要な情報源になりそうだけれども、最大10万周を想定すると、鼻白んでしまう。10万周…。早足で1周5秒として、50万秒。つまり、約139時間。休まずに回し続けても、6日程度かかる計算になってしまう。もし、挑戦するとしても、生命維持に必要な食料や飲料が提供される蓋然性が確認できてからの方がよさそう。
「それにしても、喉が乾いたな…」
独り言を言ってしまった。人間、孤独な時間が長かったり、長くなることが想定される状況に陥ると、独り言が増えるというけれど、本当かもしれない。誰かに聞いて欲しいのかもしれないし、自分自身の物理的存在を確かめる為のマスタベーション的な行動なのかもしれない。でも、今はどちらでもいい事。確かに、喉が乾いた…。
途端、赤いボタンと反対側の壁の一部が、突如スライドした。この現象を…この瞬間を、あたしは目視する事ができた。つまり、目の前で、新しい現象が生起するのを捉える事ができた。床からの高さは1mくらいだろうか。そこを起点として、スライドしたのは、幅50cm、高さ50cmくらいの正方形。奥行きがあり、どうやらそれも50cm程度。つまり、壁に立方体の穴が現れた。そして、その穴には、恐らく透明の500ml程度のPETボトルが置かれていた。何故、ポールの位置から、その穴の内部の様子まで判別できたかというと、その立方体の内部にも明かりが設置されているようで、この部屋同様、白に発光しているように見えたからだ。そして、PETボトルが透明である事を「恐らく」と思ったのは、その中に入っている物体が透明ではなく、白濁していたからだ。
あたしは、早足でその立方体に近づき、躊躇なくボトルを取り上げた。同時に壁が元通りになるかと思ったが、それはなかった。穴は空いたまま。
あたしは、PETボトル全体を隈なく確認した。製造番号や消費期限などが、プリントまたはエンボスされていないかと思ったから。しかし、一切の文字情報は見つからなかった。ボトル自体も凹凸などの意匠がなく、キャップも汎用品の様に見えて、違和感があった…。多分、このボトルは完全に特注品。キャップのφを見てメーカーを推測するとか、できないように設計されている。まあ、汎用品だったとしても、あたしにはそれを判別する知識なんてないけど…。
キャップを捻ると、カチ、という音がして開いた。未開封品ということが解る。あたしは、その白濁の液体に鼻を近づけてみた。なにか乳製品系の飲料かと思ったけれど、無臭。もしくは、飲料ではなく、薬品だろうか…。あたしは小指をボトルの中に挿し込むと、先端を液体に浸し、口に含んでみた。無味…。まるで、ただの水。水…。水だろうか? だとすると、なぜ、わざわざ着色がしてあるんだろう…。やはり、何かの薬品が入れられている?
でも、選択肢なんかない。あたしは、これを飲む。飲まなければ、生命を維持できないから…。
あたしは、PETボトルに唇を寄せると、その白濁の液体をゆっくりと飲み込んだ。大量に口に含んでも、やはり無味無臭だ。つまり、恐らくあたしがここに閉じ込められる前に日常的に飲んでいたミネラルウォーターと同様。残念ながら味覚にも嗅覚にも自信はない。だから、この水の硬度を推し量ったり、カルキの匂いを嗅ぎ分けたり、といった事はできない。もっとも、そういう可能性も考慮して、なんらかの細工がこの水にはされていると考えた方がよさそうだけれど…。
喉を潤してから、あたしは壁にもたれ掛かり、大きく息をついた。
この液体が出てきたタイミングは、あたしが「喉が乾いた」と呟いた時。という事は、聞かれている? 常にあたしの行動は、何者かによって監視されている…? 駄目。これだけでは、仮説1も仮説2も、どちらも棄却できない。1回のサンプルだけでは断定はできないけれど、偶然にしては出来すぎている。でなければ、事前にあたしの身体的特徴を隈なく調べて、どのくらいの運動量や時間を経ると喉が乾くのか、おおよその見当をつけていた可能性もあるかな…。まずは、聞かれているのかどうか、を調べてみる必要がありそう。聞かれている事が解れば、一方通行かもしれないけれど第三者に意思を伝える事ができる。
「聞かれているから変化が起こった」という仮説の確からしさを高めるには、「聞かれていないのに変化が起こった」という仮説を棄却すればいい。つまり、あたしはこれから暫くの間、一切何も声を出さないし、素振りも見せない。にもかかわらず、例えば食事が用意されたりとか、そういう変化があれば、「聞かれているから変化した」訳ではないことになる。
例えば、喉が潤ったあたしは今、とてもトイレに行きたいと思っている。このくらいの生理現象の連続性は容易に予測が可能なはず。例えば、あたしがこの水を何ml以上飲むと、何分以内に排尿したくなる、といった具体に。さあ…どう? あたしは壁にもたれたまま、トイレに行きたいなんて素振りは一切みせない。もしくは体温や血流の流れを測定している? これは新しい仮説だけれど、これを考えるのは、まず「聞かれているか、そうでないのか」を検証した後。それに、そうだとして、あたしがこのまま何も行動に起こさないとして、例えば簡易トイレのような物が用意されたりする?
あたしは、ふぅ、と息を吐いた。
「そうだった。PETボトルが用意されているんだった」
敢えて声に出してから、あたしはボトルのキャップを外し、中身を全て飲みきった。バカバカしい。
でも、もしあたしが下らない実験に付き合わされているとして、この実験を設計したのは、恐らく短小の男性だろう。こんな口の小さなボトルに、どうやって漏らさずに排便しろというの。それに、尿じゃなくて大便の方がしたくなったら、どうすればいいっていうの?
早足に壁の立方体の穴の所まで歩くと、あたしは空のPETボトルを放り込んだ。
途端、勢いよく壁がスライドし、PETボトルは飲み込まれてしまった。つまり、穴は元通りの壁になってしまった。
そして、それと同時にもう一つの壁…これはボタンの壁を12時、PETボトルの壁を6時とした場合、3時の方向の壁…の一部が直方体にスライドし、部屋の中心に向かってせり出して来た。
PETボトルを戻したから、次の現象が起こった…?
あたしは次々に生じる変化に混乱しながら、壁から出てきた直方体に近寄った。直方体の大きさは、幅が20cm、高さが床から30cm、そして奥行きが50cmくらい…。上から除くと、彫り込まれた様な凹がある。これはつまり…。
「…トイレなんだ…」
水は流れていない。でも、清掃が行き届いているのか、未使用なのか、汚れがなく清潔だ。紙は…直方体の壁際にロールが埋め込まれている。専用設計…よくできている。
釈然としない気持ちではあったけれど、あたしはその直方体…つまり、トイレに跨り、下着を降ろそうとワンピースのスカートをたくし上げた。そして、その瞬間。
「えっ…! うそっ…!」
思わず声が出た…声が出たが、それは無理もなかった…!
「そんな…こんな事って…」
無理もない! 誰だって、あたしを責める事はできない筈。そもそも下着なんて穿いていなかった、なんて事は、問題じゃない。そんな事は、このあたしの今の驚きに比類すれば瑣末な事。だって、だって…!
「あたしは…」絞り出す様な声だった。「あたしは、男性だったの…?」
つまり、そこには想定すらしていない物があった。それは、つまり…あたしの股間に鎮座していたのは…他ならない、陰茎…ペニスだった!
あたしは排尿の事など忘れて、慌てて恥部を触って確認した。
陰茎がある。毛は全て剃られている。陰嚢は…ある! ヴァギナは…ない。アナルは…アナルはある。えっ? えっ?
次にあたしは、自分の胸に手を当てた。乳房は…巨乳ではないけれど、乳房はある。男性であればこのサイズにまで育たない筈。いや、どうなんだろう…。
あたしは急いでリンネルの服を脱ぎ捨て、裸になった。そして急いで体全体を確認した。
確かに、乳房はあるし、乳首もある。恐らく男性では乳首はこのサイズにはならない。でも、それと同じくらい確かに、陰茎と陰嚢がある…。これは一体…どういう事? アンドロギュノス…?
「解らない…」あたしは両手で顔を覆うと呟いた。ああ、声は女性だ。「あたしは一体何者なのか…」
ヴァギナがないことを考えると、女性ホルモンを継続的に投与された男性、という可能性が高そう。乳房が人工物でなければ、骨格が完全に女性のサイズだから、比較的幼少期から投与されていたのだろうか…でも、それであれば陰嚢は切除してしまう筈。なんなの? なんなの一体。この矛盾だらけの躰は…!
駄目、さすがにパニック。落ち着けない。ただでさえあたしのアイデンティティなんてこの空間では無に等しいのに、こんな複雑な事情を持ち込まれてしまっては、太刀打ちができない…。いえ、でも冷静を取り戻さなければ…。あたしの性別がどちらかなんて、それがなに? この状況では性別なんて全くの無意味。今、この空間で価値があるのは、あたしには確からしい意識があり、論理的に物事を考える事ができるという、その事だけ。その事だけ…。
…あたしは少しだけ顔を覆って泣いてから、その陰茎で以て排尿を行った。別に想定外の感覚でもなかったし、どうでもよかった。
尿を出し終えて、ロールから紙を千切った。千切った所で、特段念入りに拭く場所も無いことに気がついた。という事はこの紙はこのままトイレに入れれば良いのか。凹みには既に尿は残っていなかった。あたしは紙を丸めて、そこに投げ捨てた。そして、その途端、先程と同じように、直方体は壁にスライドして吸い込まれていった。
成程…。さっきのPETボトルといい、与えられたものを元の場所に戻さない限りは、次の変化は起きない仕組みになっているんだ。理由は簡単に予測できる。複数の物体を組み合わせて、なんらか小細工ができないように警戒しているんだ…。
幼い頃、照りつける夏の日、太陽に顔を向けて瞼を閉じるのが好きだった。目に映るのは暗闇ではなく、暖かなオレンジ。陽の光が皮膚を透かして虹彩に降り注ぐ。風の感触。葉擦れの音。時折、木漏れ日が瞼の裏に鮮やかなコントラストを作る。
でも、目を開けた時、あたしの唇から零れた色は、白だった。そして、実際に目の前に広がる世界は…ただの白一色だった。
これは…天井? …寝ていたんだろうか。床に直接?
あたしは、ゆっくりと上体を起こした。頭が混乱している。ここは…どこだろう。駄目…思い出せない。直前の記憶が…ない。
はっきりしない意識のまま、あたりを周りを見渡した。そこは、一面の白だった。白…でも、地平線が見える様な途方も無い空間ではない。ここは、四角い…部屋? 部屋だ。壁も天井も床も、一面が真白で焦点が定まり難いけれど…部屋だ。そして…何もない。部屋を構成する6つの白い平面以外、何もない…あたしを除いては…。音もない。あたしの肩より少し長い髪の毛が、頭を動かす度に服に当たって、衣擦れの音が幽かに聞こえるだけ。
あたしは床に手をついて、立ち上がった。立ち上がれた。特に筋肉の衰えを感じる事はない。そんなに長い間、眠っていた訳ではなさそう。手で触れた床は…素材は何だろう? 金属やコンクリートというよりは、アクリルなどの樹脂に近い肌触りと温度。とても丈夫そうな素材。
着ている服は…少し毛羽立ったリンネルの白いワンピース。全くの無地。まるで囚人服みたいでもあるし、病院の検診衣みたいにも見える。そして、裸足。指輪やアクセサリー類はしていない。鏡が無いから解らないけれど、多分化粧なんかもしていない。爪は、そんなに伸びてもいない。体全体を触ってみても…目立って怪我をしているところや、痛みを感じる場所はない。腕を見ても、何か注射をされた痕だとか、そういう類のものは見当たらない。唯一、首の後ろにバンドエイドが貼ってあるのが解ったくらい。体全体を両手で触れると、乳房や腰、臀部や太腿といった体のラインに沿って、白い服に陰が生じる。
陰…? ということは、光源がある筈。
あたしは天井を見渡した。目が眩む程の、白。蛍光灯やLEDが設置されているようには見えない。埋め込まれているのか…天井全体が均一に光っている様にも見える。
部屋の真中に立てば、自分の影の方向で光源の位置が解る筈…駄目、解らない。影は殆ど発生していない。つまり、本当に天井が均一に光っているんだ。
落ち着かなければ…。何故こんなところに自分がいるのかとか、どういう経緯があったのか、を考えるのは次のステップ。まずは、状況を冷静に判断する為の情報収集をしなければ…。
あたしは部屋の四つ角のうちの一つの隅に立ち、壁に手を当てながら、床や天井、壁を注視しながらゆっくりと一周した。時折、壁を、曲げた指の関節で叩き、壁の厚さや向こう側の状況を確かようとしたが、無意味だった。音は響かず、吸い込まれていくだけ。そして、すぐに元の角に戻ってしまった。
一辺が約4mの立方体。
この試行で解った情報はこれだけだった。つまり、あたしの歩幅で約6歩。これが壁と壁の間の距離。天井の高さは目測だけれど、恐らく同じ長さだろうし、誤差があったとして重大な要素ではなさそう。そして、全体、本当に壁と天井と床以外、何もない。
あたしは大きく溜息をつくと、部屋の中心に座り込んだ。
訳が解らない。解らない限界を超えているけれど、考えなくては…。情報は、この部屋と、あたしの体と、あたしの記憶の中にしかない。この材料だけを使って、論理的に今の状況を説明できる仮説を考えなければ…。
まず、直前の記憶は一切ない。目を覚ましたら、この空間に居た。例えば、会社勤めをしているとか、大学に通っているとかして、代り映えのない毎日を、明日以降も同じような毎日が続くんだろうという蓋然性の日々を過ごしている裡に、気づいたらここに居た、という類の感覚はない。そもそも…。そもそも、あたしは普段、何をして過ごしていたんだろう。あれ…? 思い出せない。あたしは…働いていたんだっけ? 住んでいたところは…おかしい…そんな…。
「…思い出せないなんて…」
思わず声を漏らしてしまった。そして、ああ、あたしって、そうか、こんな声をしていたんだな、と、混乱する頭の片隅で思った。
思い出せない。普段の生活や人間関係の事だけじゃない。あたし自身について、何も思い出せない。つまり、あたしは、あたしが何者で、何歳で、なんという名前なのかすら、思い出せないでいる。そんな…そんなことって!
あたしは、わざと首を強く左右に振った。とりあえず、今パニックを起こしては駄目。状況がこのまま変わらなければ、今後そんな悲観に暮れる時間はいくらでもある筈だから、まずは忘れなければ。忘れなければ…。
そう、これも重要な情報のひとつの筈。あたしは、あたしが何者かが解らない。つまり…強い精神的衝動などの理由で記憶を脱失してしまったか、何か薬品を投与されて記憶を奪われたか…。この場所が明らかに日常ではないことを考えれば…少なくともあたしの記憶の感覚からすると、ここが日常の世界でない事は自明…だから、前者は否定できそう。という事は、あたしは何者かの手によって記憶を奪われ、ここに連れてこられた。この、何もない、出口すらない、白い四角い空間に。そして問題は「中に入れる事と、出られる事は同義ではない」という事。つまり、入口があることと、出口がある事は同じではない。「入れても出られない仕掛け」などいくらでも存在している。だから、あたしがこの空間から出る方法が存在しているかは、現時点では解らない。
「第三者に依って閉じ込められた」仮説が正しいとすると、次は、「何故、何の目的で閉じ込められたのか」。
考え得るパターンはそんなに多くない。思いつく範囲で
仮説1:何かの実験としてこの空間に入れられた
仮説2:何かの懲罰としてこの空間に入れられた
仮説1が正しいとすると、今度は「自分自身はその実験に関係する人間なのか、それとも無造作に一般人からなんらかの条件で以て選定されたのか」という疑問が出てくる。でもこれは、記憶を奪われているから、どちらか結論づける事ができない。だから考える事にはあまり意味はなさそう。
仮説2が正しいとすると、あたしがなんらかの罪を犯した事が前提になる。でも、通常であれば留置所や拘置所、刑務所に入れられる筈。事実は、そうではない特殊な空間。とすると、これは私刑という事になる。私刑でこのような懲罰を行えるとなると、余程大きな秘密組織を想定しなければならない。仮説1の方が論理的根拠に分がありそう。
実験だとしたら結果を求めるだろうし、懲罰だとしたら更生を求めるだろう。どちらの仮説が正しいとしても、命を取られる危険性はないだろうか…。いえ、それは解らない。少なくとも時間は流れているし、あたしが人間である以上は生理現象…例えば、空腹とか排便とか…がこれから出てくるだろうから、そうなると何らか充てがわれる物があるだろう。何らか充てがわれるという事は、あたしを生かす事に意味がある、という事だから、命を取られるとしても、すぐではない筈…。
まずは、仮説1が正しい事を念頭において行動しよう。今すぐにできる事は、何もない。何か、与えられる物があるかを待つ事が、今できる最良の選択肢なのは間違いなさそう。
「…えっ…?」
思わず顔を上げた。周辺視野に、明らかに「白ではない何か」が入って来た気がしたから。そして、その白くない物体が見えた方向に頭を向けた。
あたしは思わず息を飲んだ。ああ、こういう時って、本当に息を飲むんだな、と冷静に判断する自分がいた。
あたしから見て右側の壁。床から120cmくらいの高さの所に、赤い小さな物体があるのが見えた。あたしはその物体から視線を逸すことなく、立ち上がると、ゆっくりと近づいた。
虫…? レディーバグの類? だとしたら大きすぎる。人の血を限界まで吸ったダニは、1cmくらいの赤い丸になると聞いた事はあったけれど…鮮やかすぎる。
「これは…」あたしは、その赤色の前で立ち止まった。「…ボタン?」
ボタンだった。真っ赤なボタン。スイッチというよりも、ボタンと呼称するのが相応しい。ボタンのクオリア、あるいはイデアとでもいうべき、ボタン。
あたしは、あたりを見渡した。この眼前のボタン以外、何もない。誰も居ない。という事は、最初からこの位置に、このボタンはあったという事だろうか…。でも、不可解。さっき、あたしは壁に手を触れながら一周した。この高さにあるボタンであれば、気づかない筈がない。それとも、動転していて見過ごしたのだろうか…。いいえ、それは有り得ない。床から120cm。如何にも「押して下さい」という高さに設置された、この赤色のボタンに気づかない筈がない。つまり、知らぬ間にボタンが出現した。となると、これは、あたしがこの部屋に閉じ込められてから、最初に起きた変化という事になる。変化…。変化が起こるという事は、第三者の意図があるという事。あたしに、このボタンを押させようとしている…。
あたしは、右手の人差し指を差し出すと、ゆっくりとボタンに近づけた…。
押すべきか…。押さざるべきか…。
あたしは時間をかけて考えた末に、震える右手を握りしめ、腕を下ろした。
ボタンを押すことはいつでもできる。今は、やめておこう。ボタン以外に、何か変化が生じる可能性もある。このボタンは、あたしが唯一この空間で能動的に働きかける事ができる信号。押すのは、最期と思ったタイミングでも遅くはない筈…。
あたしは大きく溜息をついた。精神を正常に保つのが、本当に大変。ともすれば、発狂していてもおかしくない状況。とにかく、まずは命の危険があるのかないのか、そこだけでもはっきりすれば、出られる出られないは別として、精神的余裕が生まれるのに…。
あたしは、また部屋の中央に戻ろうと踵を返した。そしてまた、息を飲んだ。息を飲んで、咳き込んでしまった。
駄目だ…ここで生じる現象の全てにおいて、一々驚いていては駄目なのだ。囚われてしまったら帰りの道を見失う。できる事は多くはないのだから…。情報収集、状況の把握、そして仮説立案、検証、行動。理性を失うのは後からでもできる。今は精神を集中させて、最大パフォーマンスで臨まなければ…。
あたしは、部屋の中央に突如として現れた物体…それは、床から天井までを貫く、一本の棒…に、視線を上下に動かしながらゆっくりと近づいた。そう、棒、ポール。確実にさっきまでは存在しなかった物。あたしがボタンに気を取られている裡に、どうやら設置された物。ポール自体は、そんなに太くない。両手で囲めてしまうくらいの太さ。色は、壁や床と全く同じ白。ただ、色のついた部分が2箇所。1つ目は、ポールの根本から1mくらいの高さに設えられた、1本の横棒に備わっている把手のブラック。この横棒は60cmくらいの長さで、ポールから垂直に、床と平行に1本だけ突き出ている。そして、その横棒には2箇所、黒い樹脂製の把手のような物が付いている。まるで、両手でそれを掴んで、押すか引くかしろ、と指示されているみたい…。そして2つ目は、その横棒の、ポールの付け根あたりに埋め込まれた、カウンター。街頭調査で通行人数を測る時に、カチカチと押し続ける、あのカウンターと同様の、アナログカウンターが埋め込まれている。桁数は5桁。現在は「00000」になっている。このカウンターの、枠と文字の色がブラック。
部屋の中央に鎮座されるのは、少なからず不快だった。こういう時、人が一番落ち着ける場所は、四隅のいずれか、または部屋の中央のどちらかしかない。あたしは無意識に部屋の中央を安息の場所として定めていた。それはきっと、この空間の壁面に警戒心があるから…。
あたしは、その横に突き出した棒の把手に手をあてた。誂えたように、手の指の収まりが良い。アフォーダンス。おそらく、100人中100人が、何も説明や指示がなくとも、この棒の把手を手で掴み、ポールの周りに沿って押す事ができるだろう。親切設計。
恐る恐る、押してみる。思ったよりも滑らかに、でも若干の抵抗を以て、床から天井まである長いポールが回りだす。音はしない…しないけれど、ポールを回すと、天井付近と床付近の部分がブルーに光る。回すまで気づかなかったけれど、ポール自体にLEDか何かが埋め込まれているみたい。回すと光る…。敢えて光らせている…。そして、思ったとおり。横棒の根本付近のカウンターは、1週回すごとに1つずつ増えていく。これは…増えていく。何の為に?
そのまま10周くらい回してみて、カウンターが予測通りに動くのを確認してから、回すのをやめた。LEDは回している間、継続的に点灯しているから、何かの信号を表すなどのヒントがある訳ではなさそう。とすると、カウンターが重要な情報源になりそうだけれども、最大10万周を想定すると、鼻白んでしまう。10万周…。早足で1周5秒として、50万秒。つまり、約139時間。休まずに回し続けても、6日程度かかる計算になってしまう。もし、挑戦するとしても、生命維持に必要な食料や飲料が提供される蓋然性が確認できてからの方がよさそう。
「それにしても、喉が乾いたな…」
独り言を言ってしまった。人間、孤独な時間が長かったり、長くなることが想定される状況に陥ると、独り言が増えるというけれど、本当かもしれない。誰かに聞いて欲しいのかもしれないし、自分自身の物理的存在を確かめる為のマスタベーション的な行動なのかもしれない。でも、今はどちらでもいい事。確かに、喉が乾いた…。
途端、赤いボタンと反対側の壁の一部が、突如スライドした。この現象を…この瞬間を、あたしは目視する事ができた。つまり、目の前で、新しい現象が生起するのを捉える事ができた。床からの高さは1mくらいだろうか。そこを起点として、スライドしたのは、幅50cm、高さ50cmくらいの正方形。奥行きがあり、どうやらそれも50cm程度。つまり、壁に立方体の穴が現れた。そして、その穴には、恐らく透明の500ml程度のPETボトルが置かれていた。何故、ポールの位置から、その穴の内部の様子まで判別できたかというと、その立方体の内部にも明かりが設置されているようで、この部屋同様、白に発光しているように見えたからだ。そして、PETボトルが透明である事を「恐らく」と思ったのは、その中に入っている物体が透明ではなく、白濁していたからだ。
あたしは、早足でその立方体に近づき、躊躇なくボトルを取り上げた。同時に壁が元通りになるかと思ったが、それはなかった。穴は空いたまま。
あたしは、PETボトル全体を隈なく確認した。製造番号や消費期限などが、プリントまたはエンボスされていないかと思ったから。しかし、一切の文字情報は見つからなかった。ボトル自体も凹凸などの意匠がなく、キャップも汎用品の様に見えて、違和感があった…。多分、このボトルは完全に特注品。キャップのφを見てメーカーを推測するとか、できないように設計されている。まあ、汎用品だったとしても、あたしにはそれを判別する知識なんてないけど…。
キャップを捻ると、カチ、という音がして開いた。未開封品ということが解る。あたしは、その白濁の液体に鼻を近づけてみた。なにか乳製品系の飲料かと思ったけれど、無臭。もしくは、飲料ではなく、薬品だろうか…。あたしは小指をボトルの中に挿し込むと、先端を液体に浸し、口に含んでみた。無味…。まるで、ただの水。水…。水だろうか? だとすると、なぜ、わざわざ着色がしてあるんだろう…。やはり、何かの薬品が入れられている?
でも、選択肢なんかない。あたしは、これを飲む。飲まなければ、生命を維持できないから…。
あたしは、PETボトルに唇を寄せると、その白濁の液体をゆっくりと飲み込んだ。大量に口に含んでも、やはり無味無臭だ。つまり、恐らくあたしがここに閉じ込められる前に日常的に飲んでいたミネラルウォーターと同様。残念ながら味覚にも嗅覚にも自信はない。だから、この水の硬度を推し量ったり、カルキの匂いを嗅ぎ分けたり、といった事はできない。もっとも、そういう可能性も考慮して、なんらかの細工がこの水にはされていると考えた方がよさそうだけれど…。
喉を潤してから、あたしは壁にもたれ掛かり、大きく息をついた。
この液体が出てきたタイミングは、あたしが「喉が乾いた」と呟いた時。という事は、聞かれている? 常にあたしの行動は、何者かによって監視されている…? 駄目。これだけでは、仮説1も仮説2も、どちらも棄却できない。1回のサンプルだけでは断定はできないけれど、偶然にしては出来すぎている。でなければ、事前にあたしの身体的特徴を隈なく調べて、どのくらいの運動量や時間を経ると喉が乾くのか、おおよその見当をつけていた可能性もあるかな…。まずは、聞かれているのかどうか、を調べてみる必要がありそう。聞かれている事が解れば、一方通行かもしれないけれど第三者に意思を伝える事ができる。
「聞かれているから変化が起こった」という仮説の確からしさを高めるには、「聞かれていないのに変化が起こった」という仮説を棄却すればいい。つまり、あたしはこれから暫くの間、一切何も声を出さないし、素振りも見せない。にもかかわらず、例えば食事が用意されたりとか、そういう変化があれば、「聞かれているから変化した」訳ではないことになる。
例えば、喉が潤ったあたしは今、とてもトイレに行きたいと思っている。このくらいの生理現象の連続性は容易に予測が可能なはず。例えば、あたしがこの水を何ml以上飲むと、何分以内に排尿したくなる、といった具体に。さあ…どう? あたしは壁にもたれたまま、トイレに行きたいなんて素振りは一切みせない。もしくは体温や血流の流れを測定している? これは新しい仮説だけれど、これを考えるのは、まず「聞かれているか、そうでないのか」を検証した後。それに、そうだとして、あたしがこのまま何も行動に起こさないとして、例えば簡易トイレのような物が用意されたりする?
あたしは、ふぅ、と息を吐いた。
「そうだった。PETボトルが用意されているんだった」
敢えて声に出してから、あたしはボトルのキャップを外し、中身を全て飲みきった。バカバカしい。
でも、もしあたしが下らない実験に付き合わされているとして、この実験を設計したのは、恐らく短小の男性だろう。こんな口の小さなボトルに、どうやって漏らさずに排便しろというの。それに、尿じゃなくて大便の方がしたくなったら、どうすればいいっていうの?
早足に壁の立方体の穴の所まで歩くと、あたしは空のPETボトルを放り込んだ。
途端、勢いよく壁がスライドし、PETボトルは飲み込まれてしまった。つまり、穴は元通りの壁になってしまった。
そして、それと同時にもう一つの壁…これはボタンの壁を12時、PETボトルの壁を6時とした場合、3時の方向の壁…の一部が直方体にスライドし、部屋の中心に向かってせり出して来た。
PETボトルを戻したから、次の現象が起こった…?
あたしは次々に生じる変化に混乱しながら、壁から出てきた直方体に近寄った。直方体の大きさは、幅が20cm、高さが床から30cm、そして奥行きが50cmくらい…。上から除くと、彫り込まれた様な凹がある。これはつまり…。
「…トイレなんだ…」
水は流れていない。でも、清掃が行き届いているのか、未使用なのか、汚れがなく清潔だ。紙は…直方体の壁際にロールが埋め込まれている。専用設計…よくできている。
釈然としない気持ちではあったけれど、あたしはその直方体…つまり、トイレに跨り、下着を降ろそうとワンピースのスカートをたくし上げた。そして、その瞬間。
「えっ…! うそっ…!」
思わず声が出た…声が出たが、それは無理もなかった…!
「そんな…こんな事って…」
無理もない! 誰だって、あたしを責める事はできない筈。そもそも下着なんて穿いていなかった、なんて事は、問題じゃない。そんな事は、このあたしの今の驚きに比類すれば瑣末な事。だって、だって…!
「あたしは…」絞り出す様な声だった。「あたしは、男性だったの…?」
つまり、そこには想定すらしていない物があった。それは、つまり…あたしの股間に鎮座していたのは…他ならない、陰茎…ペニスだった!
あたしは排尿の事など忘れて、慌てて恥部を触って確認した。
陰茎がある。毛は全て剃られている。陰嚢は…ある! ヴァギナは…ない。アナルは…アナルはある。えっ? えっ?
次にあたしは、自分の胸に手を当てた。乳房は…巨乳ではないけれど、乳房はある。男性であればこのサイズにまで育たない筈。いや、どうなんだろう…。
あたしは急いでリンネルの服を脱ぎ捨て、裸になった。そして急いで体全体を確認した。
確かに、乳房はあるし、乳首もある。恐らく男性では乳首はこのサイズにはならない。でも、それと同じくらい確かに、陰茎と陰嚢がある…。これは一体…どういう事? アンドロギュノス…?
「解らない…」あたしは両手で顔を覆うと呟いた。ああ、声は女性だ。「あたしは一体何者なのか…」
ヴァギナがないことを考えると、女性ホルモンを継続的に投与された男性、という可能性が高そう。乳房が人工物でなければ、骨格が完全に女性のサイズだから、比較的幼少期から投与されていたのだろうか…でも、それであれば陰嚢は切除してしまう筈。なんなの? なんなの一体。この矛盾だらけの躰は…!
駄目、さすがにパニック。落ち着けない。ただでさえあたしのアイデンティティなんてこの空間では無に等しいのに、こんな複雑な事情を持ち込まれてしまっては、太刀打ちができない…。いえ、でも冷静を取り戻さなければ…。あたしの性別がどちらかなんて、それがなに? この状況では性別なんて全くの無意味。今、この空間で価値があるのは、あたしには確からしい意識があり、論理的に物事を考える事ができるという、その事だけ。その事だけ…。
…あたしは少しだけ顔を覆って泣いてから、その陰茎で以て排尿を行った。別に想定外の感覚でもなかったし、どうでもよかった。
尿を出し終えて、ロールから紙を千切った。千切った所で、特段念入りに拭く場所も無いことに気がついた。という事はこの紙はこのままトイレに入れれば良いのか。凹みには既に尿は残っていなかった。あたしは紙を丸めて、そこに投げ捨てた。そして、その途端、先程と同じように、直方体は壁にスライドして吸い込まれていった。
成程…。さっきのPETボトルといい、与えられたものを元の場所に戻さない限りは、次の変化は起きない仕組みになっているんだ。理由は簡単に予測できる。複数の物体を組み合わせて、なんらか小細工ができないように警戒しているんだ…。
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