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この部屋には時計がない。もちろん、窓もないから、昼夜は解らない。だから、どのくらい長い間、呆然と座り込んでいるか解らない。でも、自分の寿命に思い至らない限り、時間を均等に分割する事は、ここでは意味がない。オッカムの剃刀…。
この空間の事で混乱しているのか、あたし自身の事で混乱しているのか…解らなかった。
今、その混乱している頭で気になっている他愛もない事が2つ。
1.あたし自身の顔は、どのような容貌なのか
2.トイレが組み込まれているにも関わらず、この空間を無臭に保てている理由は何か
1は、この状況下であれば、誰だって気になって仕方がない筈。あたしは自分自身について何も覚えていない。身体的特徴だけでは、男性なのか女性なのか、若年なのか壮年なのか、はたまた老年なのかすら解らない。容貌は、あたし自身を特定し判別する、大きな要素。でも、ここでは、それが許されていない。まず、鏡が存在しない。となると、鏡の代わりが必要となる。手っ取り早いところだと水。水を地面にこぼし、その反射を確認すればいい。何故、あのPETボトルの水が着色されているのか。そう、ここでは、あたしが自分の顔を見られない様に仕組まれていると考えると辻褄が合う。つまり、この空間では、自分自身を特定できない事に大きな意味がある。
2はとても単純な発想。これからもし、食事が与えられて、大便をした場合、この密閉された空間が臭いで満たされてしまうのではないか、という下らない不安から思い至っただけ。でもきっと、関係ないんだ。臭いなんて慣れてしまえば感じなくなる。あたししかいないこの空間で、あたしの嗅覚が臭わないと判断したなら、別にどうだっていい事なんだ。
でも…温度や湿度は一定に保たれている様子が伺える…。それに、あたしの意識がはっきりしている事を鑑みると、二酸化炭素濃度が一方的に上昇している訳でもなさそう…。という事は…。
「空調設備があるんだ…」
全くの無音に感じられるこの空間…。ファンの音が聞こえる訳でもないけれど、あたしを生かし続けるのであれば、必ず換気の仕組みが存在している筈。
あたしは立ち上がると、改めて天井や壁を見渡した。小さな穴とか、とにかく見落とさないように、入念に床から天井まで視線を遣りながら、またぐるりと周回した。
あった…。
9時の方向の壁。殆ど天井の所。目を凝らさないと判別できないくらいの、小さな穴が、複数個あけられている。他の壁では同じ様相が見られない事を考えると、あそこが空気の入口、または出口だ。ただ、1箇所だけでは空気の流れは作れない。とすると、さっきのPETのボトルの穴か、トイレの穴に、換気の役割が付与されているに違いない。部屋の構造や設備の役割から考えると、恐らくトイレ。
あたしは、壁に耳を当てた。この構造だと、3時の方向に水回りの設備があり、9時の方向に空調の設備が集中した建築物だと想定できる。ファンの音や空気の通る音がもし聞こえれば、出口を求めるとすると排気口側になる。ここから抜け出すヒントがあるかもしれない。
…でも、何も聞こえて来なかった。
感覚値で30分程度。耳をあて続けたが、何も聞こえない。それだけ壁が厚い、という事だろうか。
あたしは、大きく溜息をついてから、壁にもたれかかって座り込んだ。
泣くにはまだ早い。まだできる事があるはず。それに、泣くことに意味なんかないんだ。だって、何も解決しないもの。稚い幼子のように、泣いたら誰かが助けてくれる事もないもの…。でも…泣くことで、気持ちが和らぐ事は、意味があるよね…。
あたしは、少しだけ泣いた。過去の思い出とか、記憶とか、一切ないのに、この状況下に置かれた自分自身の絶望感だけで、泣いた。涙は不思議。自分が、生きている実感がする。人間であること…それはなんと脆弱な事なんだろう。
――…トントントン…
「えっ?」
小さく声を上げてしまった。
――トトトトントントン…
何? 何なの? 何の音?
あたしは、壁に向かって、力の限り耳を押し当てた。
――トトトトントントントトト
――トトトトントントントトト
これは…。
「モールス信号…?」
規則的に繰り返されている。トトト トントントン トトト。
これはつまり…。
「SOSだ…」
あたしは涙を拭うと、右手で拳骨を作り、壁に向かって強く振り下ろした。
ドンドンドン、と、幾度も叩いた。幾度も、幾度も叩いた。そして、また壁に耳を当てた。
――…いるの?
声だ…人の声だ!
いるんだ。この壁の向こうに。人が、いるんだ…いるんだ!
「助けて!」あたしは叫んだ。「誰かいるんでしょ? あたしの声が聞こえる? お願い、助けて!」
――聞こえる! あなたの声が、聞こえるよ!
女の子の声だ。よかった…。よかった…けど、あたしが出られると期待するのは誤りかもしれない。彼女は、SOSのシグナルを叩き続けていた…。
――お願い、助けて! 閉じ込められているの
ああ…やっぱり。同じ境遇の人が、隣の部屋にいるんだ。この部屋から出る、という解決にはならなかった…でも、独りじゃないと解っただけでも嬉しい。孤独ではない、という事が、こんなにも心強い事だったなんて…。
「ごめんなさい、あたしも同じなの」あたしが言った。「閉じ込められていて、出られないの。あなたと同じ」
暫く、壁の向こうから、すすり泣く声が聞こえてきた。ごめんなさい、期待させてしまった…。あたしが貴女に期待したように…。
あたしは泣き声が止むまで、無言でいた。
――ごめんなさい。でも、独りじゃなくてよかった
そう、それはあたしも同じ。
「貴女も、白い部屋に閉じ込められているの? どのくらい前から?」
――目が覚めたら、ここに居たの。何日前かは解らない…でも、3回眠ったよ
3回…。体内時計が25時間だとして、まあ4日目といった所か。とすると、あたしよりはこの空間の事が解っている筈。
あたしは、彼女から、今までの状況を訊き出した。それはおおよそ、想定内だった。
同じく、以前の記憶がない。水やトイレの他、食料が出てきた…固形食だそうだが…部屋の中央のポールは300回程回したが特に変化はなかった、それ以外は何もなく、同じ毎日を繰り返している。成程、これは大きなヒントだ。少なくとも、あたし達をすぐに殺したりするつもりは無い事は理解ができた。
――ねえ、貴女、名前は何ていうの?
「貴女と同じ。覚えていないの」
――そう…。でも折角だから、何か名前で呼びたいな
名前…。
「2人しかいないんだもの。名前なんて、意味がないんじゃない?」
2人…。本当に2人だけだろうか? こんな部屋が無数にあって、同じ様な状況が展開されていたりしないだろうか? ただ、部屋の構造からすると、あたしが会話できるのは、恐らく彼女だけ…。
――そんな事ないよ。名前で呼び合えるだけで、気持ちを強く持てると思う
「それじゃあ、貴女の事、なんて呼べばいい?」
――そうね…。じゃあ、「ソフィー」って呼んで
ソフィー…。どういう意味だろう? 名前からすると北欧系だろうか。となると、ここは欧州? あたしも欧州の人間? そもそも、あたしが話している言葉は何語なんだろう? そうだ。コリオリの力だ。排水溝に水を流して、渦が右巻きか左巻きかを確認できれば、少なくともここが地球の北半球なのか、南半球なのかを判別できる。ああ、でも、肝心なトイレは水洗ではないんだっけ…。PETボトルの水を上手く使えば、調べられるかもしれないけれど…。
「ソフィー…。いい名前ね。解った。じゃあ、あたしの事は何て呼んでくれる?」
――あなたは…「ヒルデ」はどう?
ヒルデ…。悪くない。
「ヒルデね。気に入ったわ。よろしくね、ソフィー」
――うん、よろしく、ヒルデ
あたしに、名前が付いた。ヒルデ。勿論これは本名じゃない。でも、それは問題じゃない。本名じゃなくとも、あたし自身に、識別子がついたのが妙に嬉しく、何度もヒルデ、ヒルデ、と呟いてしまった。ソフィーが、あたしの為につけてくれた名前…。
ソフィーはあたしを女性として見ている。あたしも、ソフィーを女性として見ている。あたしは、便器に跨った時に気づいた衝撃については話題にしていない。お互いに同性と思って会話しているうちは、特に必要な情報ではないだろう…。
あたしたちは、2人とも起きている時はできるだけ会話をし、どちらかがそうでない時は、漠然とポールを回してカウンターを上げ続けた。会話は楽しかった。ずっと独りでいて、止まっていた時間が、ようやく流れ始めたような錯覚があった。話題は多くなかった。だって、お互いに過去の記憶がないのだから。だから、自分が考え至った事や、水や代り映えしない固形食の味についてなど、同じ様な話を何日も繰り返した。
いつしか、あたしはポールを毎日できるだけ回し、その回数をソフィーに報告するのが日課になっていた。変化のある話題ができたのが嬉しかったし、ソフィーの為に何か努力をしていると思うと、やり甲斐を感じた。
「カウンターね、すごく達成感があるの」あたしがソフィーに言った。「初めて1万を超えた時は感激しちゃった。単純だけれど、人の生き甲斐ってなんだろう、って思うよね」
――すごいね! さすがヒルデ。でも、本当に10万まで回すの?
「勿論。だって、今の所、この空間に直接働きかける事ができるのって、カウンターを回す事だけなんだもの」
――10万まで回したら、この部屋から出られるといいね
「もし出口が出現したりしたら、すぐに教えるね」
――うん、ありがとう。そうしたら、わたしもきっと頑張れる
この空間の事で混乱しているのか、あたし自身の事で混乱しているのか…解らなかった。
今、その混乱している頭で気になっている他愛もない事が2つ。
1.あたし自身の顔は、どのような容貌なのか
2.トイレが組み込まれているにも関わらず、この空間を無臭に保てている理由は何か
1は、この状況下であれば、誰だって気になって仕方がない筈。あたしは自分自身について何も覚えていない。身体的特徴だけでは、男性なのか女性なのか、若年なのか壮年なのか、はたまた老年なのかすら解らない。容貌は、あたし自身を特定し判別する、大きな要素。でも、ここでは、それが許されていない。まず、鏡が存在しない。となると、鏡の代わりが必要となる。手っ取り早いところだと水。水を地面にこぼし、その反射を確認すればいい。何故、あのPETボトルの水が着色されているのか。そう、ここでは、あたしが自分の顔を見られない様に仕組まれていると考えると辻褄が合う。つまり、この空間では、自分自身を特定できない事に大きな意味がある。
2はとても単純な発想。これからもし、食事が与えられて、大便をした場合、この密閉された空間が臭いで満たされてしまうのではないか、という下らない不安から思い至っただけ。でもきっと、関係ないんだ。臭いなんて慣れてしまえば感じなくなる。あたししかいないこの空間で、あたしの嗅覚が臭わないと判断したなら、別にどうだっていい事なんだ。
でも…温度や湿度は一定に保たれている様子が伺える…。それに、あたしの意識がはっきりしている事を鑑みると、二酸化炭素濃度が一方的に上昇している訳でもなさそう…。という事は…。
「空調設備があるんだ…」
全くの無音に感じられるこの空間…。ファンの音が聞こえる訳でもないけれど、あたしを生かし続けるのであれば、必ず換気の仕組みが存在している筈。
あたしは立ち上がると、改めて天井や壁を見渡した。小さな穴とか、とにかく見落とさないように、入念に床から天井まで視線を遣りながら、またぐるりと周回した。
あった…。
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あたしは、壁に耳を当てた。この構造だと、3時の方向に水回りの設備があり、9時の方向に空調の設備が集中した建築物だと想定できる。ファンの音や空気の通る音がもし聞こえれば、出口を求めるとすると排気口側になる。ここから抜け出すヒントがあるかもしれない。
…でも、何も聞こえて来なかった。
感覚値で30分程度。耳をあて続けたが、何も聞こえない。それだけ壁が厚い、という事だろうか。
あたしは、大きく溜息をついてから、壁にもたれかかって座り込んだ。
泣くにはまだ早い。まだできる事があるはず。それに、泣くことに意味なんかないんだ。だって、何も解決しないもの。稚い幼子のように、泣いたら誰かが助けてくれる事もないもの…。でも…泣くことで、気持ちが和らぐ事は、意味があるよね…。
あたしは、少しだけ泣いた。過去の思い出とか、記憶とか、一切ないのに、この状況下に置かれた自分自身の絶望感だけで、泣いた。涙は不思議。自分が、生きている実感がする。人間であること…それはなんと脆弱な事なんだろう。
――…トントントン…
「えっ?」
小さく声を上げてしまった。
――トトトトントントン…
何? 何なの? 何の音?
あたしは、壁に向かって、力の限り耳を押し当てた。
――トトトトントントントトト
――トトトトントントントトト
これは…。
「モールス信号…?」
規則的に繰り返されている。トトト トントントン トトト。
これはつまり…。
「SOSだ…」
あたしは涙を拭うと、右手で拳骨を作り、壁に向かって強く振り下ろした。
ドンドンドン、と、幾度も叩いた。幾度も、幾度も叩いた。そして、また壁に耳を当てた。
――…いるの?
声だ…人の声だ!
いるんだ。この壁の向こうに。人が、いるんだ…いるんだ!
「助けて!」あたしは叫んだ。「誰かいるんでしょ? あたしの声が聞こえる? お願い、助けて!」
――聞こえる! あなたの声が、聞こえるよ!
女の子の声だ。よかった…。よかった…けど、あたしが出られると期待するのは誤りかもしれない。彼女は、SOSのシグナルを叩き続けていた…。
――お願い、助けて! 閉じ込められているの
ああ…やっぱり。同じ境遇の人が、隣の部屋にいるんだ。この部屋から出る、という解決にはならなかった…でも、独りじゃないと解っただけでも嬉しい。孤独ではない、という事が、こんなにも心強い事だったなんて…。
「ごめんなさい、あたしも同じなの」あたしが言った。「閉じ込められていて、出られないの。あなたと同じ」
暫く、壁の向こうから、すすり泣く声が聞こえてきた。ごめんなさい、期待させてしまった…。あたしが貴女に期待したように…。
あたしは泣き声が止むまで、無言でいた。
――ごめんなさい。でも、独りじゃなくてよかった
そう、それはあたしも同じ。
「貴女も、白い部屋に閉じ込められているの? どのくらい前から?」
――目が覚めたら、ここに居たの。何日前かは解らない…でも、3回眠ったよ
3回…。体内時計が25時間だとして、まあ4日目といった所か。とすると、あたしよりはこの空間の事が解っている筈。
あたしは、彼女から、今までの状況を訊き出した。それはおおよそ、想定内だった。
同じく、以前の記憶がない。水やトイレの他、食料が出てきた…固形食だそうだが…部屋の中央のポールは300回程回したが特に変化はなかった、それ以外は何もなく、同じ毎日を繰り返している。成程、これは大きなヒントだ。少なくとも、あたし達をすぐに殺したりするつもりは無い事は理解ができた。
――ねえ、貴女、名前は何ていうの?
「貴女と同じ。覚えていないの」
――そう…。でも折角だから、何か名前で呼びたいな
名前…。
「2人しかいないんだもの。名前なんて、意味がないんじゃない?」
2人…。本当に2人だけだろうか? こんな部屋が無数にあって、同じ様な状況が展開されていたりしないだろうか? ただ、部屋の構造からすると、あたしが会話できるのは、恐らく彼女だけ…。
――そんな事ないよ。名前で呼び合えるだけで、気持ちを強く持てると思う
「それじゃあ、貴女の事、なんて呼べばいい?」
――そうね…。じゃあ、「ソフィー」って呼んで
ソフィー…。どういう意味だろう? 名前からすると北欧系だろうか。となると、ここは欧州? あたしも欧州の人間? そもそも、あたしが話している言葉は何語なんだろう? そうだ。コリオリの力だ。排水溝に水を流して、渦が右巻きか左巻きかを確認できれば、少なくともここが地球の北半球なのか、南半球なのかを判別できる。ああ、でも、肝心なトイレは水洗ではないんだっけ…。PETボトルの水を上手く使えば、調べられるかもしれないけれど…。
「ソフィー…。いい名前ね。解った。じゃあ、あたしの事は何て呼んでくれる?」
――あなたは…「ヒルデ」はどう?
ヒルデ…。悪くない。
「ヒルデね。気に入ったわ。よろしくね、ソフィー」
――うん、よろしく、ヒルデ
あたしに、名前が付いた。ヒルデ。勿論これは本名じゃない。でも、それは問題じゃない。本名じゃなくとも、あたし自身に、識別子がついたのが妙に嬉しく、何度もヒルデ、ヒルデ、と呟いてしまった。ソフィーが、あたしの為につけてくれた名前…。
ソフィーはあたしを女性として見ている。あたしも、ソフィーを女性として見ている。あたしは、便器に跨った時に気づいた衝撃については話題にしていない。お互いに同性と思って会話しているうちは、特に必要な情報ではないだろう…。
あたしたちは、2人とも起きている時はできるだけ会話をし、どちらかがそうでない時は、漠然とポールを回してカウンターを上げ続けた。会話は楽しかった。ずっと独りでいて、止まっていた時間が、ようやく流れ始めたような錯覚があった。話題は多くなかった。だって、お互いに過去の記憶がないのだから。だから、自分が考え至った事や、水や代り映えしない固形食の味についてなど、同じ様な話を何日も繰り返した。
いつしか、あたしはポールを毎日できるだけ回し、その回数をソフィーに報告するのが日課になっていた。変化のある話題ができたのが嬉しかったし、ソフィーの為に何か努力をしていると思うと、やり甲斐を感じた。
「カウンターね、すごく達成感があるの」あたしがソフィーに言った。「初めて1万を超えた時は感激しちゃった。単純だけれど、人の生き甲斐ってなんだろう、って思うよね」
――すごいね! さすがヒルデ。でも、本当に10万まで回すの?
「勿論。だって、今の所、この空間に直接働きかける事ができるのって、カウンターを回す事だけなんだもの」
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