優しい手に守られたい

水守真子

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番外編

番外編の番外編:幸せの形 後編

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 目が覚めた時、部屋はもう明るかった。可南子は弾けるように上半身を起こす。
 肌掛けがするりと太腿の上に落ちて、自分の乳房を目の当たりにする。慌てて肌掛けを胸もとまで上げながら横を見たが亮一はすでにいない。
 サイドテーブルには畳んである自分の寝間着と、その上には花束とメッセージカードが一緒に置いてあった。腕を伸ばして手に取る。

「……『いつもありがとう』」

 白い簡素なメッセージカードに亮一の達筆な字で書かれていた。飾り気が無い全てが、するりと心に入り込んだ。
 喜びに潤んだ目を何度も瞬かせる。
 抱かれた余韻がまだ残る身体は早くも温もりを欲しがって、亮一の体温を探すように寝ていたシーツの上を撫でた。ひんやりとしたシーツが、かなり前に出て行った事を知らせる。
 亮一は帰宅した土曜日に子供達に朝ご飯を作っている。その為に先に起きたのだろう。
 出来過ぎた彼氏だった亮一は、そのまま出来過ぎる父親へとシフトした。
 最近は亮一専用の鉄のフライパンで作ったオムレツが子供たちのお気に入りだ。
 普段の服に着替えて、花束を壊れ物のように抱え夫婦の寝室を出ると、子供達のはしゃいだ声が聞こえてきた。
 リビングに足を踏み入れると、ピンクのエプロンをつけ落ちてこないように髪をくくった優佳が破顔した。

「お母さん! おはようございます! あ、お花! きれい!」

 寄ってきて手を伸ばした優佳に「おはようございます」と言いながら花束を渡すと、台所に立っていた亮一がこちらを見た。
 手には重そうな黒い鉄のプライパンが握られている。

「おはよう。眠れたか」
「あ、うん。おはようございます」

 意味ありげな熱っぽい視線を向けられて、可南子は微かに頬を赤らめながら誤魔化すように耳に髪をかける。

「お花をありがとう。カードまで、ありがとう。すごく嬉しい」
「良かった。長く留守にしたからご機嫌取りだ」
「お仕事してくれるんだもの。気を使わせてごめんなさい」
「……その物わかりの良さが、心配になる」

 亮一がコンロの火を消すと、可南子の背中に手を回し素早くそっと抱き寄せた。

「ぼくも!」

 現れたのは亮一を小さくしたような修で、二人の狭い間にぐいぐいと割って入ると「上がいい」と手を上げてくる。

「しょうがないな」

 亮一は屈んで修を抱き上げると右手だけで支える。
 可南子は修のまだミルクのような匂いがする背中に顔を近づけて香りをかいだ。

「優佳もおいで」

 中に入って良いのか思案しながら立っている優佳に亮一は左腕を伸ばした。
 優佳は顔をぱっと輝かせて亮一の左腕にかじりつくように抱きついて、それから片手を可南子の腰にも腕をまわした。

「家族が揃ったね!」

 大きな瞳を嬉しそうに輝かせた優佳を見て、亮一は穏やかな顔で艶やかな黒髪をくしゃりと撫でる。

「揃ったな」
「今日は一緒に寝てくれる?」
「ああ、そうだ」

 思い出したように可南子の顔を見た亮一の唇に、ごちんと歯を当てるように修が唇をくっつけて離した。
 一瞬の事に可南子は目を丸くして、得意げな修と、虚をつかれて放心している亮一の二人を見比べ、笑いを堪えて俯く。

「……修」
「お父さんとお母さんの真似ー」

 亮一の不穏な空気を読み取ってか、修は身を捩って亮一の腕から降りた。急いでテーブルの自分の席につくと、何事も無かったかのようにコップに入っていたジュースを飲み始める。
 眉間に皺を寄せた亮一を見上げていた優佳は、腕をくいくい、と下に引く。どうした、と腰を屈めた亮一の頬に、優佳は触れるように唇をつけた。
 亮一の切れ長の目が見開かれて、力が抜けたように床に膝を付ける。

「真似。お父さんお母さん、優佳が花瓶を選んでもいい?」
「……ああ」
「いいよ」

 優佳はやったーと言って「花瓶取ってくるねー」と洗面所へと走り去っていく。
 顔を片手で顔を押さえたまま動かない亮一のそばにしゃがんで、可南子は顔を覗き込んだ。

「愛息子と愛娘からのキス……。愛されてるね、亮一さん」
「……からかってるな」
「そ、そんなことはない」

 言いながら、滅多に見ることのできない弱った亮一の姿に、膝とお腹の間に顔を隠して可南子は笑いを懸命にこらえる。

「奥さんからのキスだけがなくて、俺はとても残念だ」

 笑いが一瞬で止まった。顔を上げると、本気の亮一の顔がすぐそばにあった。
 亮一は可南子の膝の横に手をついて、息が掛かるほど顔を寄せてくる。

「今しかないぞ。優佳は洗面所、修は死角にいる」

 亮一の小声が耳にざらりとした感触を残し、肌が粟立つ。
 
「今朝はキスをしても目覚めなかった俺の奥さんは、どこにキスをしたら」

 可南子は亮一の逞しい二の腕を掴むと、次の言葉を封じるように唇を重ねた。
 亮一の舌はすぐに唇を割って入ってきた。歯列をなぞられ、ぽっと下腹部に悦の火が灯る。吐息を零すと亮一は唇を離し、最後に可南子の唇を舌でなぞった。
 うっとりと閉じていた目を開けると、愛し気に見つめてくる亮一に頭を撫でられた。

「夜、二人で過ごすぞ」

 先に立ち上がった亮一は可南子の手を掴むと立ち上がらせる。
 どういう意味、と聞こうとしたところで優佳が花瓶を持って戻ってきた。花の水切りもすると主張する優佳を連れて洗面所へ行く途中、亮一を見ると再びコンロに火をつけている所だった。オムレツ作りの続きをするのだ。
 可南子のもの言いたげな視線に気づくと亮一は「すぐに出来るぞ」と笑った。



 花瓶に活けた花を中央に飾った食卓に、優佳の声が響き渡った。

「翔お兄ちゃんが来るの?」

 優佳は大きな目をこぼれんばかりに大きく開いて、前に座っている亮一を凝視した。
 亮一が作ったオムレツをケチャップまみれにして完食したばかりの優佳は、フォークを持ったまま固まっている。

「翔お兄ちゃん、今日来るの?」
「優佳、フォークを置きなさい」

 可南子がやんわりと注意すると、ああ、とフォークを見て皿の上に置く。
 言い方を変えても同じ質問をする優佳はわかりやすい。
 亮一は眉を顰めたが、溜息と一緒にすぐにそれを解く。

「一人で瀬名家に来るそうだ。夕方、広信が車で迎えにくるらしい。それに優佳と修が同乗して、泊まりに来ないかと言ってる。夜は焼肉らしいぞ」
「にーちゃんの所、行く! ゲームしていいよね!」
「広信おじさんと翔に自分でお願いしろ」

 広信の家には大きなテレビと、ありとあらゆるゲーム機が揃っている。遊んでくれる人が全員年上の修はゲームのデビューが早かった。
 文字を覚えたのはゲームの為で、幼稚園の先生に感心される度に、可南子は曖昧な笑顔で濁す。
 優佳はちらちらと可南子の顔を窺ってきて「行きたいの?」と聞くと、大きく三度頷いた。
 それから「でも……」と亮一を上目遣いに見る。

「……お昼は遊んでくれる?」
「ああ、公園にでも行って、昼はあそこのビュッフェでもいい」
「明日の夜は一緒に寝てくれる?」
「ああ、本でも何でも読む」
「なら行く!」
「いく!」

 子供二人は声を合わせて返事をすると、朝食の残りを猛烈な勢いで食べ始めた。
 車で少し行った所にある大きな遊具のある公園も、果物やマシュマロをつけて食べることができる、上からチョコレートが流れてくるタワーがあるビュッフェも子供たちは大好きだ。
 亮一は思った以上に留守にしていた事を気にしているらしい。
 可南子は横でペースを崩さずにコーヒーを飲んでいる亮一に話しかける。

「昨日も遅かったし、疲れてるよね。無理しなくても……」
「どのみち家にいて寝てても起こされるんだ。思いきり遊んでやった方が良い」

 亮一が寝ていても寝室に入り込んで重石のように抱きつく修の姿を思い出して可南子は苦笑する。
 叱りはするが怒ることも無く、結局亮一が根負けして修を抱えて起きてくるので、公園に連れ出した方が確かにいいのかもしれない。

「亮一さん。いつもありがとう」

 可南子は柔らかく亮一の横顔に微笑んだ。元の顔の険しさは相変わらずだが、纏う雰囲気は子供ができてからどんどん丸くなった。
 亮一は可南子の右手に自分の左手でぽんぽん、と優しく触れる。
 それからすぐに可南子は、公園に行く持ち物の準備、結衣への連絡や持たせるお菓子、お泊りの準備、あれこれ頭の中で考え始める。親の用意が遅いと「早く早く」の大合唱が始まるのだから、たまったものではない。

「ごちそうさまでした!」

 子供二人は食べたものをシンクに持っていくと、猛然と階段を駆け上がり、外に行くための用意をしようとする。
 修は四歳だが着るものを自分で選ぶ。ただ、ありえないコーディネイトをしてくるので、出掛けるのならそれは避けたいと可南子は立ち上がった。

「修の所、行ってくるね」
「かな」

 椅子から立ち上がると亮一に手首をぎゅっと掴まれた。
 何か用事かと思い「どうしたの」と聞くと、にっと亮一が笑った。

「夜、二人だから、よろしく」

 朝に亮一に余裕があるように見えたのは、夜があるからだったらしい。
 首元まで、可南子の肌にじわじわと赤みが差す。

「夜の事を考えながら、一日中過ごせよ」

 手の甲を親指で擦られて、キスから続く期待が奥をきゅっと締め付けた。
 
「……子供たち、本当に、広信さんに誘われた?」

 わざと睨むと、亮一はにやり、と笑って可南子から手を離した。

「片付けは俺がするから、すまないが出掛ける準備は頼む。持っていくお茶をわかすくらいなら平行してできるからするよ」
「誤魔化したよね」

 すでに朝食を平らげていた亮一は立ち上がりざま、可南子の額に口づけをした。
 未だにしてくれる甘いキスは、いつでも恋人気分に戻してくれる。
 子供を二人も産んで、歳も取ったのに、亮一の態度は変わらない。
 嬉しさと甘酸っぱさは、いい年なのに、と自分を諫めても頬を赤く染めていく。

「ほら、修がエキセントリックな格好を選ぶぞ」
「ああ!」

 額を押さえながら、可南子は慌ててリビングから廊下に視線をやる。
 その場を去る前に亮一の腕を掴んで下に引いた。体勢を崩した亮一の頬に軽くキスをする。優佳がした場所と同じになったのは偶然だ。

「私が一番、亮一さんの事大好きだからね」

 亮一の反応は恥ずかしくて見ることはできなかった。
 そのまま修の後を追い、リビングから出ていく。
 今日も一日楽しくなりそう、と可南子は満面の笑みを浮かべた。
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