緋の残像 伝説の殺人鬼が恋人の心の奥で蘇る

ちみあくた

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夢で逢いましょう 2

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「ジーグムント・フロイト、この人については皆さん、ご存じですよね?」

 今度は場内の至る所で手が上がった。

 桟敷席のヒッピー男も両手を振り回し、周囲から白い目で見られているようだが、晶子は気にも留めない。

「彼は記憶と忘却の関係性について、1937年の著作『分析技法における構成の仕事』の中で、このような言葉を残しました」

 著作の引用を印象付ける為なのだろう。

 スクリーン上のフロイトを真似た厳めしい顔と大袈裟な腕組みのポーズを作って、茶目っ気たっぷりに晶子は言う。
 
「記憶の本質的内容は全て保存されている。完全に忘れ去られているように思われる事さえ何らかの形で何処かに存在しており、単に覆い隠され、主体が近づけないようになっているだけなのだ……ってね」

 ここでも掴みはOK。

 朗々とした声の調べは、特に張り上げずともリズミカルに場内の隅々へ響き渡っていく。

「フロイトは、この認識に基づき、抑圧されている記憶を引き出す目的で一時、催眠療法を多用しています。アンナ・Oという女性のケースなど特に良く知られていますが、どなたか、この療法につき御存じの方はおられます?」

 僅かながら、あちこちで手を上げる者がいた。

 その内の一人、六十代と思しき温厚そうな女性を晶子は指差し、駆けつけた会場係がハンドマイクを握らせる。

「え~、あたしが見たのはアレね……そうそう、恐怖映画だったと思うわ。若くて可愛い女の子が催眠術にかけられるお話。
お医者が1、2と数を数える度、椅子の上で眠る女の子の気持ちは若返って、赤ちゃんになり、天国の話を始め、とうとう生まれ変わる前の事まで思い出してしまうの」

「……前世の記憶? う~ん、私が期待していたより、か~な~り極端な例が出ちゃいましたね」

 晶子のお手上げポーズで場内に笑いが起き、人の良さそうな女性は頬を赤らめた。

「いや、一理ある! 実に貴重な御意見です。ちなみに催眠療法、中でも回復記憶療法と呼ばれる手法は、今も一部の心理療法士の間で行われているのですよ」

「来栖先生も使った事、あるんですか?」

「私が? 催眠術を!? そうねぇ、まぁ、それなりに」

 晶子は苦笑してお茶を濁し、発言した女性に礼を言って、元通り着席させる。

「ところが1990年代の初め、催眠療法を受けた事で却って本来の記憶を混乱させる危険性が指摘されました。
アメリカの認知心理学者ジョン・キーストロムが『作られた記憶症候群』と呼ぶ症状の特徴は、医師から与えられる暗示が患者の抑圧された記憶を引き出す代わり、有りもしない体験の疑似記憶をゼロから創り上げてしまう危険性にあります。
例えば、実際は受けていない幼児期の虐待を催眠時の暗示で『思い出し』、その偽の記憶をすっかり信じ込んだ結果、無実の父親を虐待で告訴して家庭崩壊へ繋がったケースが存在します」

 海外で実際に起きた訴訟の新聞記事がスクリーンへ投影され、激しい憎悪を父へ向ける息子の写真がアップになって、場内で大きなざわめきが起きた。

 間も無く桟敷席の、あのヒッピー男から若干離れた席に座ったカップルの内、女子学生の方が躊躇いがちに片手を上げる。

「私達、今、心理療法士を目指して勉強中なんですけど、作られた記憶って何かその……ちょっと怖い気がします」

「う~ん、割と良くある話なんですよ」

「でも、それって催眠術を使った時だけ……特殊な状況で、強い暗示を受けた時だけに起きる現象じゃないんですか?」

 晶子は首を横に振り、

「気付くか、気付かないかに関わらず、作られた記憶は我々を取り巻く環境の至る所に存在していると思います」

「と言いますと?」

「起きてしまった出来事を良い方向へ解釈する。この手のポジティブな気持ちの合理化にせよ、ある意味、恣意的な記憶の改竄。
あなただって厭な思い出を都合よく美化しちゃう事くらい有るでしょ? ホラ、そこの彼氏に浮気された、とか」

「俺、そんなの一度も!?」

「……ほぉ、彼女さん、すぐ反応しませんでしたね。もしかしたら二人の記憶の中で、既に其々の都合で歪められ、共有できない記憶の欠片があるのかも?」

 隣合うカップルは、思わず無言で顔を見合わせた。

「ふふっ、御免なさい。無粋すぎるツッコミ、寂しいアラフォーのささやかな僻みだと思って、許してね」

 晶子のウインクに彼氏はまだ目を白黒させていたが、女子学生の方は笑って頷く。

「さて、では次に日々の生活の中で、体験と記憶が食い違う事例を具体的に検証してみましょう」

 スクリーンの画像が切替わり、事前に晶子がピックアップしておいた症例のデータが現れる。

 一つ一つ、心地よいテンポで解説していく准教授の弁舌へ場内の聴衆は惹きこまれていくが、件のヒッピー男はモゾモゾと落ち着かず、特別講義の内容にすっかり飽きてしまったらしい。

 何の為にここへ来たのやら?

 体をひねってステージの方に背中を向けたかと思えば、ホールの二階、三階席を眺め、携帯電話のカメラで撮影する不埒な行為を繰り返す。





 不埒な態度の奴なら、その携帯カメラの向く先、左翼の二階席にもいた。

 高槻守人が熟睡している。

 受講内容をメモしていたらしく、膝の上で開きっ放しのノートからシャープペンシルが落ち、床の段差の一番下に転がっていた。

 時々ヒクヒク鼻が動き、眉を寄せるのは、レム睡眠に入り込んで夢を見ている証。

 どうやら、あまり良い夢では無い様だ。額に汗が滲み、首を大きく左右に振ったりしている。
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