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君が深淵を覗く時 4

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 ケラケラ。

 常軌を逸した笑い声を発する小学生の自分が、守人の脳裏に浮かんでいる。

 だが、実際に笑っているのは19才の彼自身だ。

 幼き日、殺人者の手で埋め込まれ、守人の成長に伴う形で成長した種が、内側から『主人格』を食い破ろうとしている。






「理解できたか? 私は君の一部じゃない」

 哄笑が収まり、床へうずくまる守人へ『虚像』は改めて宣言した。

「仮に治療が進み、人格を統合できたとして、君にとって都合良く事が運ぶと思う?」

 バスタブの上、切断された生首の瞳に映る『虚像』は、呆然自失の『主人格』を憐れむ口調で言う。

「統合の過程で君は私に食われ、逆に私の一部になるのさ」

「嘘だ!」

「嘘じゃない。私は君が知らない内に、極めて高いレベルの教育と深い愛情を受け、より安定した人格になり得たんだよ」

 何を言っているのか、守人には理解できない。

 元の人格が停止している間、『虚像』の人格が表に出て行動していたのは事実なのだろう。それは認めざるを得ないが、『教育』と『愛情』を与えうる何者かが外から『虚像』に接触していた、というのは飛躍し過ぎだ。

 あの志賀進の事か?

 確かにあいつ、合コンの夜に「俺は前からお前を知ってる」と言っていた。あれが事実で他にも誰か絡んでいるとしたら……

「ぼけた頭で考えても無駄さ。私は望まれて誕生し、十年間、大事に育まれてきた」

 死人の瞳の奥で、『虚像』は更に挑発的な物言いをする。

「フフ、母に捨てられ、父に死なれた後は親戚をたらい回し。何処でも邪魔者扱いされた君とは違う」

 それは守人の秘めた劣等感を貫く指摘に他ならない。

 幼くして親から離れた為、家族の愛情を受けた記憶に乏しく、転校ばかりで友達もできなかったから、常に独りで過ごし、人の視線を避ける癖がついた。

「君の人生は私以上に空虚。大学を出たって脇役の負け犬。ロクな人生は待っていない」

「黙れ」

「もう気付いているだろう? 大学受験では私が手を貸した。君より遥かに知的で、度胸も良いんでね」

「黙れ」

「女性の受けも違うな。君が手を出せない、あの臨って娘も、その気になれば」

「黙れ!」

 怒鳴るのと共に手が出た。バスタブの上から『虚像』を瞳へ映す女の首が落ち、タイルの床を転がる。

 勢いで、口に咥えていたメスも守人の足元へ落ちた。

 反射的に拾って木製の容器へしまい、部屋の外へ飛び出す。
 
 元々ラブホテルだったお陰か、こういう時は人の目を避け易い。フロントで宿泊料を求められ、もう一泊する、と言って一日分を追加で払った。

 その方が逃げ出しても部屋をすぐ調べられないと思ったのだが、甘かった様だ。

 ハウスキーピング担当の従業員がちゃんといて、清掃道具入りのワゴンを押し、各部屋を回っている。
 
 素知らぬ顔で足を速め、駐車場へ歩き出したら、しばらく鳴りやんでいたスマホに着信があった。

 相手は当然、臨。

 これ以上のシカトはまずい。

「高槻君、そこ座りなさいっ!」

 電話を取った瞬間、キレにキレた臨の声が飛んでくる。

「部屋の外に出たんで、座れない」

「そういう事を言ってんじゃないの! 急に電話切るし、掛け直しても出ないから、こっちはもう……どんなに心配したか!」

 一度口ごもり、次の言葉は涙声だった。

 ひどく動揺していた守人の気持ちが、それを聞く内、少し落ち着いた。
 
「ゴメン、ちょっと取り込んでて」

「取り込みって何? 又、トラブル発生? もう大抵の事じゃあたし、びっくりしないわよ」

 い~や、そいつは甘い。

 守人は心の中で呟いて、何をどう話したものか思いを巡らせる。

 『オリジナル』の自分と『虚像』の自分が、死人の瞳へ交互に映り、言葉を交わした、なんて自分でも狂ってると思う。

 だから、比較的まともに聞こえる分だけ話そうと心掛けた。
 
「あのね、バスタブの上に人の生首が載っていたんだ」

 うっ、と言う言葉にならない臨のリアクションが、電話の向うから聞こえた。

「さっき話したヒッチハイカーだと思う。もう一人は見つからないんだけど、泊ってた部屋の浴室に一人分の首だけが……」

「高槻君、まさか」

「何があったか覚えてない。只、何故か死体がメスを咥えてて」

「君が、大学へ持ってきたアレ?」

「うん。置いとくとマズイからさ」

 今度は晶子の大声が飛んできた。

「あなた……まさか、持ってきたんじゃないでしょうね!?」

「今、ここにありますけど」





 陸奥大学の研究室では、臨と晶子が一斉に頭を抱えていた。

「あのねぇ、高槻君、あなたはバカか!?」

 晶子の声は珍しく激しい苛立ちを露わにしている。

「バカって……間違いなくメスに僕の指紋はついてます。死体の側へ置いとく訳にも」

「だからこそ持ち出したのが警察に知れたら、証拠の隠匿と見なされちゃうでしょ! 自ら犯人と名乗る様なものよ」

 守人の沈黙に臨は不安を募らせ、縋る眼差しを晶子へ投げた。

「これから、どうする気?」

「ホテルへは戻れません。清掃員が、僕の泊まっていた部屋に近づいてます」

「死体、すぐ見つかるわね」

「ええ、もう逃げるしか」

「どうせホテルには監視カメラが付いてるから、あなたの事は警察にばれる。誰が見たって最大の容疑者よね。それ所か、一連の殺人事件全てがあなたのせいにされるかもしれない」

「僕……死刑ですか」

「有罪が確定したらね。でも、私にはあなたが犯人とは思えない。この先、自首するにせよ、まず大学へ戻ってきて!」





 晶子の一喝で腹を決め、守人は駐車場へ走り込んで赤のミニワゴンを探した。

 何処に停めたか記憶は曖昧だったが、駐車場の狭さが幸いし、すぐ見つけてドアの横へ立つ。
 
 車のキーが無い事に、その時初めて気が付いた。上着とズボンのポケットを片っ端からまさぐり、重い溜息をつく。

「どうしましょ?」





 溜息をつきたいのは、電話口で相談された晶子と臨の方だ。

「キーを部屋へ置いてきたって事は無いかしら?」

 守人は即座に否定した。昨夜は着衣で寝ているし、他に荷物を持ち込んでいない。

「近くに何処か隠れられそうな場所は? 時間を稼いで貰って、私達が迎えに行っても良い」

「共犯にされちゃいますよ」

「君、無実なんでしょ? 先生に迷惑を掛けたくないし、あたし一人でそっちへ行く」

 晶子の代りに臨が答える。





 守人は駐車場の周囲を見渡した。
 
 幹線道路に面しているが、辺りに人家は疎らだ。
 
「駐車場の奥に林があります。結構広そうだし、あそこなら隠れて落ち合うのも……」

 言い終える前に耳障りな風音を聞いた。

 いや、風ではない。電子音のノイズが混ざっている。聞こえてきた方角を見ると、山林に続く駐車場の裏手に男が立っていて、口笛を吹いていた。

 今や守人が見慣れてしまった姿……真っ赤なレインコートと笑顔を象る丸い仮面が、そこに在る。

 思わず自分の頬をつねった。

 痛い。

 妄想でも悪夢でも無い。

 現実の世界にあの殺人鬼が突如出現し、走ればすぐ届きそうな位置に立っている。

 そいつは人差し指と中指の間に赤いミニセダンのキーを挟み、「これ、お前ンだろ?」と言わんばかりに揺らす。
 
 守人は喉の奥で呻いた。

「どうしたの?」

 電話の向うで、臨が一層不安げな声を出す。

「車のキー……あいつが持ってる」

「あいつ?」

「あの赤い服の人殺しがいる。本物が、本当にそこにいるんだ」

「えぇっ!?」

「国道の向う、50メートルくらい先に立っていて、取りに来いって鍵を振ってる」


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