緋の残像 伝説の殺人鬼が恋人の心の奥で蘇る

ちみあくた

文字の大きさ
85 / 105

宴の前に 1

しおりを挟む


(30)

 強かった風が収まり、小窓から差し込む夕日が臨の読んでいる本に格子型の影を落とした。

 壁の掛け時計を見ると、もう午後五時過ぎだ。

 守人が言った「今夜のイベント」は何時行われるのか、詳しい予定を臨は教えてもらっていない。

 はっきりしない分、恐怖ばかり募った。
 
 守人が側にいる間は、むりやり強気を駆り立てて陽気に振舞ったけれど、一人になるとやはりダメ。本を読んでいても、中身が頭に入ってこない。

 臨の生き延びる道があるとしたら、守人本来の人格を呼び覚ますか、二つの人格を統合した上、彼を味方にして脱出を図る事だけだろう。

 限られた時間の中で、その為の心理的な刺激を臨は守人へ仕掛けたつもりでいる。そして、ある程度の手応えはあった。





 通常、臨床心理士のカウンセリングは一週間に一度だけで、他の接触は極力避けるのが原則。

 それは患者の、カウンセラーへの必要以上の依存を回避する為である。

 同時に距離を保つ事で患者がカウンセラーの意図を推し量る様に誘導し、自分が相手にどう見られているか再考させ、より健全な自己認識へ繋げる狙いもある。

 臨がここへ来てからの細やかな会話と短いインターバルは、守人の、彼女への強い依存をむしろ促すものだ。臨床心理のタブーを敢えて冒す事で、より強い干渉力を得ようとしたのだが、その成果は有ったのか、否か?

 本当の所、自信は全く無い。

 思えば、郊外のラブホテル付近で消息を絶った時と、五十嵐のマンションに突如現れた時とでは、守人の性格に別人の如き変化が生じていた。

 解離性同一性障害が顕在化したのだとしても、その差は極端であり、『赤い影』に拉致された後、何者かの手で、何らかの高度な心理誘導を施された可能性が大きい。

 急激過ぎる変化なら、その分、人格の回帰も起きやすく、そこに臨の活路もある筈なのだが……





 陸奥大学での会話を彷彿する穏やかな時を過ごした昼食の後、守人は施錠された洋館の外へ臨を連れ出してくれた。

 ずっと家の中で息が詰まると訴えた臨への気遣いだそうだが、ベランダの方から庭へ踏み出す守人の表情は緊張で強張り、何か恐れているように見えた。

 しばらく歩き回ってわかったのは、本当に周囲には何も無く、山中で完全に孤立した建物だと言う事。頑丈な扉や窓に嵌った格子からして、単に社会と距離を取ると言うより隔離のニュアンスを感じる。

 庭等を一通り歩き、それで戻るかと思っていたら、守人は臨の手を引き、そのまま洋館を囲む森へ足を踏み入れた。

 もしかして逃がしてくれるの?

 一瞬、臨はそう期待したし、実際に守人は監視カメラを避ける様にして進んでいく。

 人質の見張りとしては有り得ない行動だ。しかも施設からある程度遠ざかった所で、守人は走り出す。

 手を引かれるまま、臨も走る。

 コレってちょっとロマンチックかも、なんて二人きりの逃避行に胸が熱くなるのも束の間だった。

 緩やかな傾斜が何処までも続き、先の見通しが非常に悪い。それにかなりの高地であるらしく、臨はすぐ息が切れて、自ずと足が止まってしまう。

「ちょっと休ませて……」

 守人は舌打ちし、臨が木陰で呼吸を整える間、周囲に注意深く目を配る。

 何を警戒しているのか、すぐに分かった。
 
 森の奥で幾つか黒い塊が蠢いているのが見え、その一つが近づいてきて、唸りながら歯を剥き出す。
 
 野犬だ。

 それもシベリアン・ハスキーの成犬で、怯える臨の目には子牛ほどの大きさに感じられる。背後の数匹も距離を詰めて来ていた。こちらは種類も大きさも様々、激しい敵意を示す点だけが共通している。

 都会の野良犬など比べ物にならない獰猛さだ。施設の戸締りが頑丈な割に、外の警備が手薄な理由はこいつらにあったらしい。

「もう、わかったろ?」

 臨の耳元で囁き、再び彼女の手を引いて、守人は洋館へ逃げ帰った。途中、何度か攻撃を受けたが、その度に錆びたメスを奮い、臨を庇ってくれている。

 何とか屋敷へ辿り着き、玄関の扉を開いて中へ逃げ込んだ後、臨は床にへたり込んだ。

「わかったよな……悪あがきは無駄なのさ」

 もう一度、臨の耳元へ囁き、守人はテーブルの赤い仮面を小脇に抱えて屋敷を出て行く。

 逃走を諦めさせる目的で外を見せたのかな?

 臨にはそう思えたが、山林で舌打ちした時、辛そうだった守人の背中から自身の未練を断ち切りたい、との密かな願いも見え隠れする。

 できるものなら二人で逃げたい、と守人は内心思っていたのでは?





 それにしてもあの大きな犬。

 山中とは言え、あんな群れが自由に彷徨うなんて普通は無いよね。

 元々ペットだとしても、すっかり荒んで野生化していた。

 人の手を離れてから長い時間が経たないと有り得ない事だろうし、もし有り得るとしたら、その場所は……





 臨が考えをまとめようとした時、玄関の扉が開き、守人がサロンへ入ってくる。

 服装はいつもの『赤い影』を模したものでは無い。無地のTシャツ、ストレートのデニムパンツと至ってカジュアルだ。

「あの人が、君を呼んでる」

「特別なイベント、いよいよ始まるって訳?」

「今更、言うまでもないだろ」

 守人の声が掠れている。

 恐怖と言うより内心の動揺が感じられた。先程と比べても、一層『僕』への揺り戻しが進んだ感じだ。
 
「もう意味の無い抵抗をしないで欲しい。頼むから、僕を困らせないでくれ」

 自分を『僕』と呼ぶ守人の声はか細く、痛々しいほどだ。

 臨を拉致した夜、『私』として誇示した傲慢な自信、攻撃性は鳴りを潜めている。

 臨は逆らわず、洋館の表へ停められている白いセダンの助手席へ乗り込んだ。守人がハンドルを握り、洋館の車回しから敷地を抜けて、山道へ出て行く。

「この車で逃げれば、犬にも遭わなかったのに」

 臨の呟きを守人は無視した。

 苛立ちを噛み殺す彼の表情からすると、おそらく昼の時点で、この車は無かったのだろう。『イベント』の為、施設へ来た何者かが乗ってきたのかも知れない。

「ね、今からでも遅くない。今度こそ、このまま逃げよ」

 守人が沈黙を保つ間、車は細い山道から二車線の舗装路へ乗り入れ、ほどなく山間の集落へ入った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

秘書と社長の秘密

廣瀬純七
大衆娯楽
社内の調査のため、社長・高橋健一はこっそり秘書・木村由紀と不思議なアプリで入れ替わることに。 突然“社長役”を任された由紀と、自由に動ける立場を手に入れた高橋。 ふたりの秘密の入れ替わり作戦は、どの様な結末になるのか?

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

処理中です...