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しおりを挟む「君達は出来る限りの事をした。幹雄兄さんの容態がどうあれ、立派なものだと俺は思うがね」
叔父の言葉は暖かかった。
でも、その目をまともに見返す勇気が出ない。
現在、父を苦しめている直接の原因は肺炎で、誤嚥性の疑いがある。意識が混濁し始めた日の前後は記録的猛暑が続き、日中の気温が40度近かった。それ以前に夏風邪の症状が出ていた事もあり、好幸は熱中症を防ぎたいと思った。
だから水差しで細目に水を飲ませたが、その際にミスを冒し、肺へ水が入る原因を作ってしまったかもしれない。
勿論、気を付けていたつもりだ。できる限り細心に、丁寧に世話をした筈なのだが、振り返ると心が揺れる。
インターネットで調べてみたら、家族の間違ったケアで誤嚥性肺炎を引き起こすケースは想像以上に多いらしい。
だとすると、親父を死なすのは俺……胸の奥で渦巻く恐怖と罪悪感に堪えきれず、叔父から目を逸らすと、扉近くでポツンと立つ母・俶子の姿が目に入った。
叔父夫婦より少し遅れて病室へ入ってきた様だが、二人が幹雄を見舞っている間も無言のままで時々、円の方を気にしている。
「なぁ、母さん、どうしたの?」
円は少し口ごもり、叔父達を気遣って好幸の耳元で言った。
「ここへ来る途中で、ちょっとね」
「何か、あったのか?」
「うん、別に……そんな大した事じゃないんだけど」
言葉を濁し、ふっと笑う。
円が無理している時、よく出る表情だ。
「好幸君、ここ食事できる所はある? 兄さんが寝ている姿を見て安心したら、少し腹が空いてきたよ」
気を利かせてくれたのか、微妙に気まずい空気を紛らわせようと達吉叔父が話しかけてきた。
「ええ、受付ロビーの方にイートインがあるから、行ってみましょうか」
「あ、私は良いわ。あなたの代りに、ここでお父さんをみています」
笑顔を作る円と無言のまま歩き出す母、そして困惑した面持ちの叔父夫妻に改めて好幸は微妙な空気を感じてしまう。
病院内に設けられた食堂を目指し、好幸は叔父夫婦と母を連れ、病棟から外来棟を結ぶ渡り廊下を歩いた。
天井は高く、風通しは良い。でも斜めに入る日差しが強烈過ぎ、額に滲む汗を好幸は何度も拭った。七月の時点で既に記録的と表現されていた暑さは、八月に入って一層厳しくなり、異常気象という言葉も聞き飽きている。
だが、病院中庭の花壇に咲く向日葵は、この強烈過ぎる太陽光を満喫している様だ。振りまく黄色の彩りは遠目にも鮮やかで、好幸や松代と語らいながら達吉は自然と携帯のカメラを向ける。
今、叔父はSNSにはまっているそうで、旅行先の写真やグルメネタを絶えず投稿していると言う。
語りだすと止まらない勢いだが、俶子は三人の後を少しだけ遅れてついてきて、一言も言葉を発しなかった。
「ねぇ、母さん、何かあったの? もしかして又、円と……」
「ありません、何にも」
憮然とした眼差しを息子へ投げ、先を急ぐものの、足がついてきていない。
俶子は最近、歩く時に殆ど足が上らず、地面ギリギリですり足になる。そんな調子で早足になれば、ほんのわずかな敷石の段差にさえつまづいてしまい、
「おっと」
声を上げる母を、横にいた松代が慌てて支えた。
「ホントに大丈夫かね」
心配そうな達吉に問われ、好幸は曖昧に首を傾げた。
本当の所、歩行時のすり足のみならず、最近の母は生活全般に及ぶ意欲や気力が衰えている。
長年、父の介護に打ち込み、ストレスを溜め込み続けたせいだろうか。
元々無口な方ではあったが、笑顔を滅多に見せなくなった。或いは高齢化に伴う鬱が出ているのかもしれない。
「実は、ここへ来る途中に宮城の家から電話が掛かって来てな。携帯電話で受けた時、横にいた俶子さんに待ち受け画面を見られちまったんだ」
達吉は真新しいスマホを起動し、液晶画面上の写真を好幸に見せた。
地方の遊園地を背景に達吉、松代、それに息子夫婦らしい男女が五才くらいの男の子を抱え上げている。
まさに高齢者の定番だが、俶子にとっては地雷そのものだ。
「俶子さん、年は幾つ、とか、一緒に遊びに行くの、とか聞いてきてね。こっちも孫自慢したい盛りだから、止まらなくて」
「その時の母、どんな顔をしていましたか?」
「いやぁ、いつも通りの俶子さんだがね。急にポツリと言ったんだ。夫に孫の顔を見せてやりたかったって」
好幸は小さく呻いた。
「それから暫く、元気な頃の幹雄兄さんがどれほど孫を欲しがってたか、孫が出来た時の夢を話し続けてね」
「その時、円は?」
「隣でニコニコしてた。いつも通りの、あの笑顔で」
好幸は又、呻いた。
それは……その笑顔は、円が一番辛い時、表に出せない気持ちを抑え込む時に浮かべる、いわば心の鎧だ。
「子供ができないお嫁さんの立場もあるから、そういう事は神様の思し召しじゃないかって俺、フォローしたのよ。でも俶子さん、円さんの方を見て、神様のせいじゃない、と言った」
「え?」
「そのまま円さんの側へ寄ってな。耳元であと一言、二言、囁いたんよ。でな、こうつ~っと」
「つ~っと?」
「円さんの、あの大きな瞳にみるみる涙が溜まって、頬を伝って落ちたんさ。俺と女房が唖然としてたら、あの人、すぐいつもの笑顔へ戻ったけど、まぁ、気まずい空気の方は残っちまった訳でな」
売店と併設されているイートイン・スタイルの食堂へ入る寸前、叔父がもう一言付け加えた。
「それにしても俺、円さんが泣くのなんて初めて見たから、えれぇ驚いたわ」
驚いたのは好幸も同じだ。夫の自分にせよ、学生時代から続く長い付き合いの中で一度も人前で泣く円を見た覚えが無い。
でも一人きりで泣く光景なら一度だけ、出くわした事がある。
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