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1巻
1-3
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『が、あっ……!? 死ぬ……我が死ぬ……!? そんな、馬鹿なことが……馬鹿なぁ……!?』
そんな叫びを残しながら、魔物の声は途絶えた。
真っ二つにされながらも僅かに動こうとしていた身体も、最早微動だにしない。
そしてそんなものに挟まれながら、ロイは振り向いた。
「さて……終わったみたいだし、アモールの花を採って、帰ろうか」
何事もなかったかのように微笑む少年に、セリアは咄嗟に言葉を返せなかった。
この少年は、一体何者なのか――そんなことを思いながら、セリアはただ呆然と、ロイの姿を眺め続けるのであった。
◆◆◆
その日の昼過ぎ、冒険者ギルドの建物に一人の少年が入ってきた。
その瞬間、数人の視線が集中し、ギルドに流れる空気の質が僅かに変わった。
少年に注目した一人でもある冒険者のフルールが、グレン達の隣でポツリと呟き、驚愕を滲ませる。
「……本当に無事に帰ってきたっすね」
グレン達はそら見たことかと、ただ肩をすくめて返すのみ。
フルールは何も言えずに、その少年――ロイの姿をジッと見つめた。
だがそんな視線に気付いていないのか、ロイは周囲を気にもせず、まっすぐに受付へと向かっていく。
一緒に出て行った少女の姿が見えないが、彼女は冒険者ではなくて、ただの依頼者である。ギルドに足を運ぶ理由はない。
さて、ロイが向かった先にいるのは、今朝応対した女性だ。
ロイがこの場に現れたということが何を意味するかを理解していないわけがないだろうに、女性の顔に動揺の一つも見当たらないのはさすがである。
いつも通りの笑みを浮かべたまま、彼女は口を開く。
「いらっしゃいませ、ロイさん。どうされましたか? あなたが今回お受けなさった依頼は、ギルドを介していませんから、結果を報告する義務はありませんけれど……」
「ああ、いえ、その件ではなくてですね……いえ、まったく無関係ってわけでもないんですが、ちょっと鑑定をお願い出来ないかと思いまして」
「鑑定、ですか?」
冒険者がギルドに鑑定を依頼するのは、日常的な光景の一つである。
依頼の途中で珍しそうなものを見つけたり、拾ったりすることは、割とよくあるからだ。
高価な品は滅多に出ないが、鑑定に必要な料金は安いため、もし価値があれば儲けもの、といった感覚で頼む者も多い。
他にも、珍しい魔物を倒した時などにも利用されるが、こちらは大分稀である。
そもそも、そんな魔物に遭遇する機会など、ほぼ存在しないからだ。
あるとすれば、Aランクの冒険者が未踏の地に行った時くらいで、Aランク冒険者のフルールもまだ経験したことはない。
だから普通に考えればこの場合の鑑定とは前者を意味するのだが……受付の女性はまるで何かを予感しているかのように、僅かに表情を硬くした。
「……分かりました。どちらを鑑定なさりたいのでしょうか?」
「これなんですが――」
そう言ってロイが腰に括り付けられた袋から取り出したのは、一見すると〝よく分からない何か〟としか表現しようがないものであった。
色は白に近く、太さはロイの腕とほぼ同じくらいで、長さも同様。
先端が鋭く尖っているので、一瞬武器か何かのようにも思えたが――
「……あれってまさか、爪っすか?」
「だろうな。一瞬牙かとも思ったが、牙にしちゃ形状がおかしい。ともかく、あれが爪だとすっと……持ち主はどれだけでけえやつなんだ……」
「あれを見るだけでも、相当に強い魔物だろうと予測できるわねー」
そんな会話をフルール達が交わしている間に、受付の女性もそれが何なのか気付いたようだ。
相変わらず笑みを浮かべたままだが、口元は僅かに引きつっている。
「これは、爪、でしょうか? これほどの大きさのものは私も初めて目にしましたけれど……」
「そうなんですか? 確かに図体は無駄に大きかったですが……」
「無駄に大きい、ですか……もしよろしければ、どんな魔物だったのかをお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「別にいいですが……見た目自体は普通でしたよ? 虎みたいな感じでしたね」
「虎のような魔物ですか……なるほど、確かにそれだけでは珍しいとは言えませんね」
「ええ、それで大きさは……そうですね。全高で二十メートルくらいだったでしょうか」
「なるほど、二十メートル……二十メートル?」
女性は同じ言葉を繰り返しながら、思わず、といった様子でロイを二度見していた。
どんな時でも笑みを絶やさないこの女性があそこまであからさまに動揺を見せるなど、相当珍しい。
受付でのやり取りを見て、フルール達が苦笑する。
「まあ、ああなるのは分かるっすけど……」
「あの爪の大きさからすりゃ、そのくらいはあんだろうって推測は出来るがな……」
「あの娘も予想は出来ていたと思うけど、実際にその大きさを言われたら、平静ではいられなかったんでしょうねー」
それでも、すぐに取り繕った笑みを浮かべたのはさすがプロといったところか。
とはいえ、動揺は明らかで、傍目にも目が泳いでいた。それでも彼女は、何とかさらなる情報を得ようと会話を続ける。
「ええと……他には何かありませんでしょうか?」
「他、と言われましても、割とあっさり倒せちゃったので、相手の攻撃方法とかもろくに分かりませんでした。……何かあったかなぁ」
「二十メートルの魔物を……あっさりと……?」
いよいよ受付の女性の笑みが顔から剥がれつつあるが、仕方があるまい。
ギルドの受付職員は冒険者のようには戦えないが、色々な情報を知っている。だからこそ、少年がどれだけ非常識なことを言っているのか、余計に分かるのだろう。
だが、それすらどうでもよくなるような言葉を、ロイが呟く。
「うーん、他には何か……ああそういえば、西方の支配者とか言ってたけど……。いや、どうせただの自称だろうしなぁ。魔物の特徴を説明するのに役には立たないか」
「えっ!? ちょ、ちょっと待ってください。西方の支配者って……いえ、それよりも……まさか、その魔物は〝喋った〟んですか? 人の言葉を?」
「え? あ、はい。僕は魔物の言葉なんて分かりませんしね」
平然とそう口にしたロイの言葉を聞き、ついに女性の顔から笑みが消えた。
彼女の反応は当然のものであった。むしろ叫ばなかっただけマシとすら言える。
女性は隣にいた同僚と顔を見合わせ、真顔で頷き合う。
支部長あたりに報告するつもりか、そのまま同僚の女性は席を立ち、奥へと向かった。
既に受付職員だけで判断出来るレベルではない。
「……その可能性は高いって思っていたっすけど……実際に聞くと、中々の衝撃を受けるっすね」
受付でのやり取りを見て呆れ笑いを浮かべるフルールに、グレンが頷く。
「まあな。つーか、さっき言ったこと、訂正するぜ」
「え?」
「やっぱ驚かねえなんてことはねえわ」
「ああ……まあ、そっすね」
西方の支配者の名は、フルールにも聞き覚えがあった。
魔の大森林を支配しているとされているモノだが、その実在は疑われてもいた。
何しろ、誰もその姿を目にしたことがないからだ。声だけは聞いたという者がいて、その時に〝西方の支配者〟を名乗っていたという話から、そういった噂が流れてはいたのだが――
「……実在したんすね、西方の支配者」
「あら、素直に信じるのねー? 彼が嘘を言っているかもしれないわよー?」
「いや、さすがにあんなの見ちゃったら信じる以外ないじゃないっすか」
あの爪には、はっきりとした力の残滓があった。それも、持ち主がどれほど強大だったか分かるほどに強烈なものが。
さらに、喋ったというのもポイントの一つだ。
確かに、魔物の中には知能が高いものもいるが、人語を操る存在として明確に知られているのは一体――魔王だけであった。
そして噂によれば、西方の支配者はその魔王と同格だとされている。
「っと、買取り所の方に移動するっぽいっすね」
フルールはロイ達の動きを目で追いながら会話を続ける。
「まあ、持ち帰った素材があの爪だけっていうことはないでしょうからねー」
「ギルドとしちゃ、他の素材を逃がしたくはねえはずだ。かといって、あの場で広げられても困るだろうしな」
「とはいえ、あっちも早速大変なことになってるみたいだけどー?」
見ると、買取り所に先回りしていた支部長が、次々と出される品を見て慌てふためいていた。
「あ、ついに完全に真顔になったっす。驚きが振り切れたっすかね?」
買取り所でも駄目だと判断されたのか、ロイはそのままギルドの奥へと連れて行かれた。
おそらくは応接室にでも行ったのだろう。
フルール達のパーティーも、依頼を受ける時には必ず行く場所だ。
要するに、ロイも〝そういう〟扱いになった、ということである。
まあ、そんなの、あの爪を出した時点で分かるだろうに……と、そこまで考えたところで、ふとフルールはある事実に思い当たった。
「……そういえば、あの人『魔法の鞄』持ってるんすね」
爪のインパクトのせいで自然に流していたが、彼が次々と出す素材達は、腰に括りつけている袋に入る大きさと量ではない。
ならば、あの袋はまず間違いなく魔法の鞄と呼ばれている魔導具だ。
見た目の数十倍の物を入れることが出来る便利なもので、大体Cランク以上の冒険者には必須とされる。しかし、相応の値段がするため、逆に言えば、それより下のランクでは手が出せない。
駆け出しのFランクだというのならば、手に入れようとすら思わないだろう。
そんな品を持っているということは、誰かが入れ知恵した可能性が高い。
「……グレンさんが教えたんすか?」
「……何でそう思うんだ?」
「なんか、あの人がここにきた時から知ってるっぽいこと言ってたっすからね」
グレンは何も応えなかったが、否定もしなかった。
とはいえ、もしそうだとしても、フルールに驚きはない。グレンはこう見えて面倒見が良いところがあるのを知っているからだ。
彼が駆け出し冒険者のロイに、それとなく何か助言していても不思議はない。
……そんなことを考えるフルールに、何故かグレンがにやりと笑いかけた。
「な、なんすか……?」
「いやなに、これからはテメエも大変だろうと思ってな」
「確かにそうねー」
グレンとアニエスが意地悪な笑みを浮かべる。
「……どういう意味っすか、それ?」
「何でだかは知らねえが、アイツはどうも自分の力ってのを理解してないらしくてな」
「ええ。いいところEランク程度の力しかないと思ってるらしいのよねー」
「……何すかそれ? 一体何がどうなったらそんなことになるんすか?」
西方の支配者がどれだけの力を持っていたのかはフルールにも分からない。だが少なくとも、マッドベアーよりも弱いわけはないだろう。
そんな相手にあっさり勝ったらしいというのに、どうしてEランク程度の力しかないなどと思えるのか。
「さあな。ま、何か事情があるんだろうが、冒険者やってる以上は当たり前だ。で、どんな事情があろうが、アイツがそう思ってるってのは事実だ」
「そして……私達のランクはー?」
「そりゃ、Aっすけど……って、まさか……?」
そこでフルールは、グレンがあの少年に対してどんな態度を取っていたか思い出した。
グレンは確かに普段から粗暴な言動が多いが、何の理由もなく他人を見下すような人物ではない。
そして、彼のロイへの接し方は、一般的なAランクの冒険者がFランクの冒険者に取る態度としては決しておかしなものではなかった。
つまり……あえてそういう態度を取っていたとしたら……
「……もしかして、あちしにもあんな態度取れってことっすか?」
思わず頬を引きつらせるフルール。
「オレ達Aランクには相応の態度が求められるってのは、いつものことだろ?」
「それは周囲の目を気にしろって意味であって、横柄な態度を取れって話じゃないと思うんすけど……」
「求められている態度という意味では、大差ないでしょうー?」
「絶対違うと思うっす……」
ランクはともかく、間違いなく自分を上回る力を持つ人物に対して、偉そうに振る舞うなど、フルールには出来る気がしなかった。
「ていうか……結局あの人は何者なんすか?」
「ふふ……もしかしたら、噂の勇者様かもしれないわよー?」
「冗談になってないっすよ……」
勇者がどんな人物であるかは、一般にはまるで知られていない。容姿や年齢はおろか、名前すら分かってはいないのだ。
ただ物凄い力を持っていて、魔王を倒して世界を平和に導いたということのみが伝わっている。
そしてあの少年は、魔王に匹敵するかもしれない存在を倒したらしい。
勇者だと言われて、否定する理由はなかった。
「ま、勇者はどっかからふらっと現れたって話だし、アイツもつい一週間前にふらっとここに現れやがったんだ。本当にそうなのかもしれねえぜ?」
「だから冗談になってないっすって……」
そんなことを言いながら、彼らは遠ざかるロイの背中を見つめる。
彼が何者であれ、あの調子では、何事もなく平穏な日々を過ごすということはあるまい。
そしてその影響が自分達にも降り注いでくる可能性は高そうである。
果たしてこの先どんな運命が待ち受けているのか。
それを想像して、フルールは思わず溜息を吐き出すのであった。
第二章 薬の真実
青く晴れ渡った空を眺めながら、男はこみ上げてきた欠伸を噛み殺した。
心地のよい陽気に、遠くから届く僅かな喧騒。
平和で、のどかで……その男の望みとは程遠いところにあるはずの光景であった。
「ちっ……暇すぎんだろ、ったく。人類の最前線とも呼ばれるような場所で、俺は一体何してんだかな……」
ぼやいても現状が変わるわけではない。
背後にある家の扉に寄りかかりながら何となくその場を見回すものの、人の流れは皆無である。
とはいえ、場所を考えれば当然とも言える。
基本的には常に熱病に浮かされたかのような喧騒の中にあるルーメンではあるが、その中心となっているのは街の大通りだ。
西門と東門を一直線に繋ぐ道と、これと直角に交わる、北門と南門を繋ぐ道。街の中央を走っているその二つの大通りが、ここで最も賑わいのある場所だ。
そして、そこから離れるごとに、喧騒は少しずつ遠ざかっていく。
路地裏を一本中に入るくらいならばまだしも、奥まった場所にまで行けば、さすがに静かになる。
その代わりとばかりに、後ろ暗い連中が集まるようになったりはするが。
あとは、冒険者達が利用する宿が密集している住宅街に関しても、例外的に喧騒からは遠い。
いくら荒くれ者達でも、休んでいるそばで騒がれたらさすがに腹を立てるというものだ。
そして、男がいるこの場所は、住宅街かつ路地裏の奥まった場所にあった。
「ルーメンとは思えないくらいに静まり返ってやがる。本当に退屈にも程がある場所だぜ、ここは」
静寂と平穏を望む者にとっては良い場所なのかもしれないが、そもそもそんなものを望む人物がこの街に来るかという話でもある。少なくとも、男は御免であった。
「つっても、依頼を受けちまってる以上は勝手に抜け出すわけにもいかねえしな。ったく、面倒な話だ」
依頼を受けた当初は、物珍しさからこういうのも面白いと思ったし、楽で良いと思ってもいたのだが、そんな感情は三日もすれば尽きた。今はどうにか暇潰しになるようなことを探している有様で、このまま手に持つ槍ごと朽ちていくのではないかと想像し、男は溜息を吐き出した。
「シャレにならないぜ。これじゃ腕が鈍る一方だし、一度魔の大森林にでも行かせてもらうかね? どうせ、まだ何かが起こるようなことはねえだろうしな。……とはいえ、それには俺の代わりを見つけてくる必要があるのか。本当に面倒な話だぜ……。いっそ、そこら辺から魔物でも飛び出してきてくれれば面白いんだがな」
しかし、生憎そんなことは起こりえない。
ここは辺境の地にして人類の最前線、魔境とも呼ばれるルーメンだ。簡単に街に魔物の侵入を許すはずがない。
「ま、もし魔物が出たところで、臨時収入だとばかりにあっという間に狩られるだけだろうしな。……いや、この辺りならそうとも限らねえが、人も少ない分大した混乱にはならねえかもな」
それはそれでつまらないと、襲ってきた眠気に再び欠伸を噛み殺す。
その時、男の優れた聴覚が、足音を捉えた。
しかも、その者は歩いているわけではなく、走っているようだ。荒い息も聞こえ、大分急いでいるらしい。
何か面白いことでもあったのかと、男は音が聞こえる方へと視線を向け……目を細めた。
遠目に見えたその人影に、見覚えがあったからだ。
誰かに追われている様子などなく、その人物――桃色の髪を持つ少女は、男の姿を捉えるとパッと顔を輝かせる。
そのまま速度を緩めずに、男から数歩分離れたところまで来てようやく足を止めた。
彼女は呼吸を整える間も惜しいとばかりに口を開く。
「あ、あのっ! お、お医者様はいらっしゃいますか!?」
この少女が今朝もここを訪れ、後ろの家にいる医者に何を言われたのかは、男も知っている。
それがこうして再び来たということは……アレが用意出来たとでもいうのだろうか。一瞬そう考えて、男はまさかと頭を振る。
「あー、まあ、いるっちゃあいるが……どうした? 嬢ちゃんは確か、今朝も来たよな?」
「あ、は、はいっ。その……その時にお医者様に必要だって言われたものを、何とか用意することが出来たんですが……」
「……へえ?」
ここで彼女が嘘を吐く理由はない。ということは、本当に用意出来たのか。
――絶対不可能だと思っていたのだが……用意出来たというのならば、それはそれで〝あり〟だ。
男は自然と口元が緩みそうになるのを何とか堪え、気の毒そうな顔を作って口を開く。
「そうか……そりゃよかったな。だが生憎今は忙しくてな。手が放せねえんだとよ」
「えっ……そうなんですか?」
「ああ。明日の朝になればさすがに大丈夫だと思うんだがな……」
「そう、ですか……分かりました。では、明日の朝に、また来ます」
「おう。一応後で嬢ちゃんが来たことは伝えといてやるからよ」
「はい、ありがとうございます。……それでは」
希望に満ちた顔から一転、落胆を露わにする少女は、男に背を向けるとそのままとぼとぼと歩き出した。
男は少女を見送り続け……その姿が見えなくなった瞬間、背後の扉を振り返る。
「はっ……暇で仕方ねえって思ってたが……どうやらようやく暇じゃなくなりそうだな」
男は扉へと手を伸ばしながら、唇の端を吊り上げる。
眠気はもうすっかり飛んでいた。
上機嫌な男は狭くて散らかった室内に、無造作に足を踏み入れる。
誰の姿もなかったが、彼は構わずそのまま奥の部屋へと入っていく。
そこには、四十代から五十代といったところの、初老の男の姿があった。
訪問者に気付いた初老の男が軽く目を見張る中、表にいた冒険者の男は気楽な調子で声をかけた。
「おう、邪魔するぜ」
「おや……どうしたのですかな? あなたがここに来るのは随分珍しいですが、何かありましたかな?」
この初老の男が、先ほどの少女が言っていた〝医者〟である。
だが、別に忙しそうではない。
手元の様子などから考えるに調合か何かをしていたようだが、少なくとも手を放せないほど忙しいということはなさそうだ。
しかしそれも当然だ。冒険者の男は嘘をついて少女を追い返したのだから。
彼は楽しげに口元を歪め、首を傾げる医者に告げる。
「ああ、あったぜ。飛び切りのがな。……さっき、今朝の嬢ちゃんが来たぜ」
「――っ!?」
それを聞き、医者は驚愕の表情を浮かべて立ち上がった。
勢いよく立ち上がったため、手元にあった容器やら何やらがその場にぶちまけられたが、彼がそれを気にしている様子はない。
「それは……もしやっ!?」
「あの嬢ちゃんはこう言ってたぜ。必要だって言われたもんを、何とか用意することが出来た、ってな」
その瞬間、医者の顔が歓喜で彩られる。
待ちに待った瞬間が訪れたとでも言わんばかりの様子で、彼は満面の笑みを浮かべる。
「そうですか……そうですか! まさか本当に用意出来るとは思いませんでしたが……しかしこれで何とかなりそうですな」
「ああ。これでようやく、俺の退屈な日々も終わるってわけだ。ま、さすがにすぐにってわけにゃいかねえだろうけど……なに、ここまできたら、あと少しくらいは誤差だろうよ」
冒険者の男の言葉に、医者は笑みを浮かべたまま頷く。
まるで何かを噛み締めるような、達成感の滲む息を吐き出した。
「ええ、そうですな……本当にようやくですな。そういえば、彼女はどうしたのですかな?」
「あん? そりゃ忙しいっつって追い返したさ。色々準備とかもいるんだろ?」
「おお、さすがですな。ええ、本当に持ってくるとは思っていませんでしたからな……」
「明日の朝なら大丈夫だっつっといたが、問題ねえよな?」
「ええ、それまでに準備も終わるでしょう」
となれば、自分もそろそろ準備を進めるべきか……冒険者の男がそんなことを考えていると、ふと医者が首を傾げた。
「それにしても、今更ですが、あなたも物好きですな。せっかくBランクにまで上り詰めたというのに」
「……なに、面白そうだと思ったから乗っただけさ。そもそも、俺は最初からやりたいことをやってただけで、そうしてるうちに勝手にランクが上がってったっつーわけだ。だいたい、それを言ったら、テメエもだろ」
「確かに。まあ、望むところは一緒なのですから、もう少し共に頑張るといたしましょうか」
医者の言葉に異論はなかったので、冒険者の男は肩をすくめて返す。
だが、出来るならば――
「……障害とかあった方が、個人的には好みなんだがな。あっさり完遂しちまっても、達成感が足りねえ」
「……? 何かおっしゃいましたかな?」
「ただの独り言だ。気にすんな」
何にせよ、とりあえずは明日だ。
さて、どうなるやらと、その先のことも含めて考えながら、冒険者の男は口元を歪めるのであった。
そんな叫びを残しながら、魔物の声は途絶えた。
真っ二つにされながらも僅かに動こうとしていた身体も、最早微動だにしない。
そしてそんなものに挟まれながら、ロイは振り向いた。
「さて……終わったみたいだし、アモールの花を採って、帰ろうか」
何事もなかったかのように微笑む少年に、セリアは咄嗟に言葉を返せなかった。
この少年は、一体何者なのか――そんなことを思いながら、セリアはただ呆然と、ロイの姿を眺め続けるのであった。
◆◆◆
その日の昼過ぎ、冒険者ギルドの建物に一人の少年が入ってきた。
その瞬間、数人の視線が集中し、ギルドに流れる空気の質が僅かに変わった。
少年に注目した一人でもある冒険者のフルールが、グレン達の隣でポツリと呟き、驚愕を滲ませる。
「……本当に無事に帰ってきたっすね」
グレン達はそら見たことかと、ただ肩をすくめて返すのみ。
フルールは何も言えずに、その少年――ロイの姿をジッと見つめた。
だがそんな視線に気付いていないのか、ロイは周囲を気にもせず、まっすぐに受付へと向かっていく。
一緒に出て行った少女の姿が見えないが、彼女は冒険者ではなくて、ただの依頼者である。ギルドに足を運ぶ理由はない。
さて、ロイが向かった先にいるのは、今朝応対した女性だ。
ロイがこの場に現れたということが何を意味するかを理解していないわけがないだろうに、女性の顔に動揺の一つも見当たらないのはさすがである。
いつも通りの笑みを浮かべたまま、彼女は口を開く。
「いらっしゃいませ、ロイさん。どうされましたか? あなたが今回お受けなさった依頼は、ギルドを介していませんから、結果を報告する義務はありませんけれど……」
「ああ、いえ、その件ではなくてですね……いえ、まったく無関係ってわけでもないんですが、ちょっと鑑定をお願い出来ないかと思いまして」
「鑑定、ですか?」
冒険者がギルドに鑑定を依頼するのは、日常的な光景の一つである。
依頼の途中で珍しそうなものを見つけたり、拾ったりすることは、割とよくあるからだ。
高価な品は滅多に出ないが、鑑定に必要な料金は安いため、もし価値があれば儲けもの、といった感覚で頼む者も多い。
他にも、珍しい魔物を倒した時などにも利用されるが、こちらは大分稀である。
そもそも、そんな魔物に遭遇する機会など、ほぼ存在しないからだ。
あるとすれば、Aランクの冒険者が未踏の地に行った時くらいで、Aランク冒険者のフルールもまだ経験したことはない。
だから普通に考えればこの場合の鑑定とは前者を意味するのだが……受付の女性はまるで何かを予感しているかのように、僅かに表情を硬くした。
「……分かりました。どちらを鑑定なさりたいのでしょうか?」
「これなんですが――」
そう言ってロイが腰に括り付けられた袋から取り出したのは、一見すると〝よく分からない何か〟としか表現しようがないものであった。
色は白に近く、太さはロイの腕とほぼ同じくらいで、長さも同様。
先端が鋭く尖っているので、一瞬武器か何かのようにも思えたが――
「……あれってまさか、爪っすか?」
「だろうな。一瞬牙かとも思ったが、牙にしちゃ形状がおかしい。ともかく、あれが爪だとすっと……持ち主はどれだけでけえやつなんだ……」
「あれを見るだけでも、相当に強い魔物だろうと予測できるわねー」
そんな会話をフルール達が交わしている間に、受付の女性もそれが何なのか気付いたようだ。
相変わらず笑みを浮かべたままだが、口元は僅かに引きつっている。
「これは、爪、でしょうか? これほどの大きさのものは私も初めて目にしましたけれど……」
「そうなんですか? 確かに図体は無駄に大きかったですが……」
「無駄に大きい、ですか……もしよろしければ、どんな魔物だったのかをお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「別にいいですが……見た目自体は普通でしたよ? 虎みたいな感じでしたね」
「虎のような魔物ですか……なるほど、確かにそれだけでは珍しいとは言えませんね」
「ええ、それで大きさは……そうですね。全高で二十メートルくらいだったでしょうか」
「なるほど、二十メートル……二十メートル?」
女性は同じ言葉を繰り返しながら、思わず、といった様子でロイを二度見していた。
どんな時でも笑みを絶やさないこの女性があそこまであからさまに動揺を見せるなど、相当珍しい。
受付でのやり取りを見て、フルール達が苦笑する。
「まあ、ああなるのは分かるっすけど……」
「あの爪の大きさからすりゃ、そのくらいはあんだろうって推測は出来るがな……」
「あの娘も予想は出来ていたと思うけど、実際にその大きさを言われたら、平静ではいられなかったんでしょうねー」
それでも、すぐに取り繕った笑みを浮かべたのはさすがプロといったところか。
とはいえ、動揺は明らかで、傍目にも目が泳いでいた。それでも彼女は、何とかさらなる情報を得ようと会話を続ける。
「ええと……他には何かありませんでしょうか?」
「他、と言われましても、割とあっさり倒せちゃったので、相手の攻撃方法とかもろくに分かりませんでした。……何かあったかなぁ」
「二十メートルの魔物を……あっさりと……?」
いよいよ受付の女性の笑みが顔から剥がれつつあるが、仕方があるまい。
ギルドの受付職員は冒険者のようには戦えないが、色々な情報を知っている。だからこそ、少年がどれだけ非常識なことを言っているのか、余計に分かるのだろう。
だが、それすらどうでもよくなるような言葉を、ロイが呟く。
「うーん、他には何か……ああそういえば、西方の支配者とか言ってたけど……。いや、どうせただの自称だろうしなぁ。魔物の特徴を説明するのに役には立たないか」
「えっ!? ちょ、ちょっと待ってください。西方の支配者って……いえ、それよりも……まさか、その魔物は〝喋った〟んですか? 人の言葉を?」
「え? あ、はい。僕は魔物の言葉なんて分かりませんしね」
平然とそう口にしたロイの言葉を聞き、ついに女性の顔から笑みが消えた。
彼女の反応は当然のものであった。むしろ叫ばなかっただけマシとすら言える。
女性は隣にいた同僚と顔を見合わせ、真顔で頷き合う。
支部長あたりに報告するつもりか、そのまま同僚の女性は席を立ち、奥へと向かった。
既に受付職員だけで判断出来るレベルではない。
「……その可能性は高いって思っていたっすけど……実際に聞くと、中々の衝撃を受けるっすね」
受付でのやり取りを見て呆れ笑いを浮かべるフルールに、グレンが頷く。
「まあな。つーか、さっき言ったこと、訂正するぜ」
「え?」
「やっぱ驚かねえなんてことはねえわ」
「ああ……まあ、そっすね」
西方の支配者の名は、フルールにも聞き覚えがあった。
魔の大森林を支配しているとされているモノだが、その実在は疑われてもいた。
何しろ、誰もその姿を目にしたことがないからだ。声だけは聞いたという者がいて、その時に〝西方の支配者〟を名乗っていたという話から、そういった噂が流れてはいたのだが――
「……実在したんすね、西方の支配者」
「あら、素直に信じるのねー? 彼が嘘を言っているかもしれないわよー?」
「いや、さすがにあんなの見ちゃったら信じる以外ないじゃないっすか」
あの爪には、はっきりとした力の残滓があった。それも、持ち主がどれほど強大だったか分かるほどに強烈なものが。
さらに、喋ったというのもポイントの一つだ。
確かに、魔物の中には知能が高いものもいるが、人語を操る存在として明確に知られているのは一体――魔王だけであった。
そして噂によれば、西方の支配者はその魔王と同格だとされている。
「っと、買取り所の方に移動するっぽいっすね」
フルールはロイ達の動きを目で追いながら会話を続ける。
「まあ、持ち帰った素材があの爪だけっていうことはないでしょうからねー」
「ギルドとしちゃ、他の素材を逃がしたくはねえはずだ。かといって、あの場で広げられても困るだろうしな」
「とはいえ、あっちも早速大変なことになってるみたいだけどー?」
見ると、買取り所に先回りしていた支部長が、次々と出される品を見て慌てふためいていた。
「あ、ついに完全に真顔になったっす。驚きが振り切れたっすかね?」
買取り所でも駄目だと判断されたのか、ロイはそのままギルドの奥へと連れて行かれた。
おそらくは応接室にでも行ったのだろう。
フルール達のパーティーも、依頼を受ける時には必ず行く場所だ。
要するに、ロイも〝そういう〟扱いになった、ということである。
まあ、そんなの、あの爪を出した時点で分かるだろうに……と、そこまで考えたところで、ふとフルールはある事実に思い当たった。
「……そういえば、あの人『魔法の鞄』持ってるんすね」
爪のインパクトのせいで自然に流していたが、彼が次々と出す素材達は、腰に括りつけている袋に入る大きさと量ではない。
ならば、あの袋はまず間違いなく魔法の鞄と呼ばれている魔導具だ。
見た目の数十倍の物を入れることが出来る便利なもので、大体Cランク以上の冒険者には必須とされる。しかし、相応の値段がするため、逆に言えば、それより下のランクでは手が出せない。
駆け出しのFランクだというのならば、手に入れようとすら思わないだろう。
そんな品を持っているということは、誰かが入れ知恵した可能性が高い。
「……グレンさんが教えたんすか?」
「……何でそう思うんだ?」
「なんか、あの人がここにきた時から知ってるっぽいこと言ってたっすからね」
グレンは何も応えなかったが、否定もしなかった。
とはいえ、もしそうだとしても、フルールに驚きはない。グレンはこう見えて面倒見が良いところがあるのを知っているからだ。
彼が駆け出し冒険者のロイに、それとなく何か助言していても不思議はない。
……そんなことを考えるフルールに、何故かグレンがにやりと笑いかけた。
「な、なんすか……?」
「いやなに、これからはテメエも大変だろうと思ってな」
「確かにそうねー」
グレンとアニエスが意地悪な笑みを浮かべる。
「……どういう意味っすか、それ?」
「何でだかは知らねえが、アイツはどうも自分の力ってのを理解してないらしくてな」
「ええ。いいところEランク程度の力しかないと思ってるらしいのよねー」
「……何すかそれ? 一体何がどうなったらそんなことになるんすか?」
西方の支配者がどれだけの力を持っていたのかはフルールにも分からない。だが少なくとも、マッドベアーよりも弱いわけはないだろう。
そんな相手にあっさり勝ったらしいというのに、どうしてEランク程度の力しかないなどと思えるのか。
「さあな。ま、何か事情があるんだろうが、冒険者やってる以上は当たり前だ。で、どんな事情があろうが、アイツがそう思ってるってのは事実だ」
「そして……私達のランクはー?」
「そりゃ、Aっすけど……って、まさか……?」
そこでフルールは、グレンがあの少年に対してどんな態度を取っていたか思い出した。
グレンは確かに普段から粗暴な言動が多いが、何の理由もなく他人を見下すような人物ではない。
そして、彼のロイへの接し方は、一般的なAランクの冒険者がFランクの冒険者に取る態度としては決しておかしなものではなかった。
つまり……あえてそういう態度を取っていたとしたら……
「……もしかして、あちしにもあんな態度取れってことっすか?」
思わず頬を引きつらせるフルール。
「オレ達Aランクには相応の態度が求められるってのは、いつものことだろ?」
「それは周囲の目を気にしろって意味であって、横柄な態度を取れって話じゃないと思うんすけど……」
「求められている態度という意味では、大差ないでしょうー?」
「絶対違うと思うっす……」
ランクはともかく、間違いなく自分を上回る力を持つ人物に対して、偉そうに振る舞うなど、フルールには出来る気がしなかった。
「ていうか……結局あの人は何者なんすか?」
「ふふ……もしかしたら、噂の勇者様かもしれないわよー?」
「冗談になってないっすよ……」
勇者がどんな人物であるかは、一般にはまるで知られていない。容姿や年齢はおろか、名前すら分かってはいないのだ。
ただ物凄い力を持っていて、魔王を倒して世界を平和に導いたということのみが伝わっている。
そしてあの少年は、魔王に匹敵するかもしれない存在を倒したらしい。
勇者だと言われて、否定する理由はなかった。
「ま、勇者はどっかからふらっと現れたって話だし、アイツもつい一週間前にふらっとここに現れやがったんだ。本当にそうなのかもしれねえぜ?」
「だから冗談になってないっすって……」
そんなことを言いながら、彼らは遠ざかるロイの背中を見つめる。
彼が何者であれ、あの調子では、何事もなく平穏な日々を過ごすということはあるまい。
そしてその影響が自分達にも降り注いでくる可能性は高そうである。
果たしてこの先どんな運命が待ち受けているのか。
それを想像して、フルールは思わず溜息を吐き出すのであった。
第二章 薬の真実
青く晴れ渡った空を眺めながら、男はこみ上げてきた欠伸を噛み殺した。
心地のよい陽気に、遠くから届く僅かな喧騒。
平和で、のどかで……その男の望みとは程遠いところにあるはずの光景であった。
「ちっ……暇すぎんだろ、ったく。人類の最前線とも呼ばれるような場所で、俺は一体何してんだかな……」
ぼやいても現状が変わるわけではない。
背後にある家の扉に寄りかかりながら何となくその場を見回すものの、人の流れは皆無である。
とはいえ、場所を考えれば当然とも言える。
基本的には常に熱病に浮かされたかのような喧騒の中にあるルーメンではあるが、その中心となっているのは街の大通りだ。
西門と東門を一直線に繋ぐ道と、これと直角に交わる、北門と南門を繋ぐ道。街の中央を走っているその二つの大通りが、ここで最も賑わいのある場所だ。
そして、そこから離れるごとに、喧騒は少しずつ遠ざかっていく。
路地裏を一本中に入るくらいならばまだしも、奥まった場所にまで行けば、さすがに静かになる。
その代わりとばかりに、後ろ暗い連中が集まるようになったりはするが。
あとは、冒険者達が利用する宿が密集している住宅街に関しても、例外的に喧騒からは遠い。
いくら荒くれ者達でも、休んでいるそばで騒がれたらさすがに腹を立てるというものだ。
そして、男がいるこの場所は、住宅街かつ路地裏の奥まった場所にあった。
「ルーメンとは思えないくらいに静まり返ってやがる。本当に退屈にも程がある場所だぜ、ここは」
静寂と平穏を望む者にとっては良い場所なのかもしれないが、そもそもそんなものを望む人物がこの街に来るかという話でもある。少なくとも、男は御免であった。
「つっても、依頼を受けちまってる以上は勝手に抜け出すわけにもいかねえしな。ったく、面倒な話だ」
依頼を受けた当初は、物珍しさからこういうのも面白いと思ったし、楽で良いと思ってもいたのだが、そんな感情は三日もすれば尽きた。今はどうにか暇潰しになるようなことを探している有様で、このまま手に持つ槍ごと朽ちていくのではないかと想像し、男は溜息を吐き出した。
「シャレにならないぜ。これじゃ腕が鈍る一方だし、一度魔の大森林にでも行かせてもらうかね? どうせ、まだ何かが起こるようなことはねえだろうしな。……とはいえ、それには俺の代わりを見つけてくる必要があるのか。本当に面倒な話だぜ……。いっそ、そこら辺から魔物でも飛び出してきてくれれば面白いんだがな」
しかし、生憎そんなことは起こりえない。
ここは辺境の地にして人類の最前線、魔境とも呼ばれるルーメンだ。簡単に街に魔物の侵入を許すはずがない。
「ま、もし魔物が出たところで、臨時収入だとばかりにあっという間に狩られるだけだろうしな。……いや、この辺りならそうとも限らねえが、人も少ない分大した混乱にはならねえかもな」
それはそれでつまらないと、襲ってきた眠気に再び欠伸を噛み殺す。
その時、男の優れた聴覚が、足音を捉えた。
しかも、その者は歩いているわけではなく、走っているようだ。荒い息も聞こえ、大分急いでいるらしい。
何か面白いことでもあったのかと、男は音が聞こえる方へと視線を向け……目を細めた。
遠目に見えたその人影に、見覚えがあったからだ。
誰かに追われている様子などなく、その人物――桃色の髪を持つ少女は、男の姿を捉えるとパッと顔を輝かせる。
そのまま速度を緩めずに、男から数歩分離れたところまで来てようやく足を止めた。
彼女は呼吸を整える間も惜しいとばかりに口を開く。
「あ、あのっ! お、お医者様はいらっしゃいますか!?」
この少女が今朝もここを訪れ、後ろの家にいる医者に何を言われたのかは、男も知っている。
それがこうして再び来たということは……アレが用意出来たとでもいうのだろうか。一瞬そう考えて、男はまさかと頭を振る。
「あー、まあ、いるっちゃあいるが……どうした? 嬢ちゃんは確か、今朝も来たよな?」
「あ、は、はいっ。その……その時にお医者様に必要だって言われたものを、何とか用意することが出来たんですが……」
「……へえ?」
ここで彼女が嘘を吐く理由はない。ということは、本当に用意出来たのか。
――絶対不可能だと思っていたのだが……用意出来たというのならば、それはそれで〝あり〟だ。
男は自然と口元が緩みそうになるのを何とか堪え、気の毒そうな顔を作って口を開く。
「そうか……そりゃよかったな。だが生憎今は忙しくてな。手が放せねえんだとよ」
「えっ……そうなんですか?」
「ああ。明日の朝になればさすがに大丈夫だと思うんだがな……」
「そう、ですか……分かりました。では、明日の朝に、また来ます」
「おう。一応後で嬢ちゃんが来たことは伝えといてやるからよ」
「はい、ありがとうございます。……それでは」
希望に満ちた顔から一転、落胆を露わにする少女は、男に背を向けるとそのままとぼとぼと歩き出した。
男は少女を見送り続け……その姿が見えなくなった瞬間、背後の扉を振り返る。
「はっ……暇で仕方ねえって思ってたが……どうやらようやく暇じゃなくなりそうだな」
男は扉へと手を伸ばしながら、唇の端を吊り上げる。
眠気はもうすっかり飛んでいた。
上機嫌な男は狭くて散らかった室内に、無造作に足を踏み入れる。
誰の姿もなかったが、彼は構わずそのまま奥の部屋へと入っていく。
そこには、四十代から五十代といったところの、初老の男の姿があった。
訪問者に気付いた初老の男が軽く目を見張る中、表にいた冒険者の男は気楽な調子で声をかけた。
「おう、邪魔するぜ」
「おや……どうしたのですかな? あなたがここに来るのは随分珍しいですが、何かありましたかな?」
この初老の男が、先ほどの少女が言っていた〝医者〟である。
だが、別に忙しそうではない。
手元の様子などから考えるに調合か何かをしていたようだが、少なくとも手を放せないほど忙しいということはなさそうだ。
しかしそれも当然だ。冒険者の男は嘘をついて少女を追い返したのだから。
彼は楽しげに口元を歪め、首を傾げる医者に告げる。
「ああ、あったぜ。飛び切りのがな。……さっき、今朝の嬢ちゃんが来たぜ」
「――っ!?」
それを聞き、医者は驚愕の表情を浮かべて立ち上がった。
勢いよく立ち上がったため、手元にあった容器やら何やらがその場にぶちまけられたが、彼がそれを気にしている様子はない。
「それは……もしやっ!?」
「あの嬢ちゃんはこう言ってたぜ。必要だって言われたもんを、何とか用意することが出来た、ってな」
その瞬間、医者の顔が歓喜で彩られる。
待ちに待った瞬間が訪れたとでも言わんばかりの様子で、彼は満面の笑みを浮かべる。
「そうですか……そうですか! まさか本当に用意出来るとは思いませんでしたが……しかしこれで何とかなりそうですな」
「ああ。これでようやく、俺の退屈な日々も終わるってわけだ。ま、さすがにすぐにってわけにゃいかねえだろうけど……なに、ここまできたら、あと少しくらいは誤差だろうよ」
冒険者の男の言葉に、医者は笑みを浮かべたまま頷く。
まるで何かを噛み締めるような、達成感の滲む息を吐き出した。
「ええ、そうですな……本当にようやくですな。そういえば、彼女はどうしたのですかな?」
「あん? そりゃ忙しいっつって追い返したさ。色々準備とかもいるんだろ?」
「おお、さすがですな。ええ、本当に持ってくるとは思っていませんでしたからな……」
「明日の朝なら大丈夫だっつっといたが、問題ねえよな?」
「ええ、それまでに準備も終わるでしょう」
となれば、自分もそろそろ準備を進めるべきか……冒険者の男がそんなことを考えていると、ふと医者が首を傾げた。
「それにしても、今更ですが、あなたも物好きですな。せっかくBランクにまで上り詰めたというのに」
「……なに、面白そうだと思ったから乗っただけさ。そもそも、俺は最初からやりたいことをやってただけで、そうしてるうちに勝手にランクが上がってったっつーわけだ。だいたい、それを言ったら、テメエもだろ」
「確かに。まあ、望むところは一緒なのですから、もう少し共に頑張るといたしましょうか」
医者の言葉に異論はなかったので、冒険者の男は肩をすくめて返す。
だが、出来るならば――
「……障害とかあった方が、個人的には好みなんだがな。あっさり完遂しちまっても、達成感が足りねえ」
「……? 何かおっしゃいましたかな?」
「ただの独り言だ。気にすんな」
何にせよ、とりあえずは明日だ。
さて、どうなるやらと、その先のことも含めて考えながら、冒険者の男は口元を歪めるのであった。
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