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《番外編》腕の中の愛しい存在
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朝陽の差し込む広い寝台の上。俺――ハイルレオンは今、隣で目覚めたばかりの愛しい存在に、ぽかぽかと胸を叩かれていた。
「一緒に眠りたいって、そういう意味じゃなかったのに……」
真っ赤になった顔を俯け、恥ずかしさと居た堪れなさに目を潤ませたソーマが、また俺の胸をぽかぽかと叩く。
だが、すべて終わってしまった今は、それももう後の祭りだ。
事の発端は、俺が毎日休まず仕事をし続けたことにあった。
ソーマと結婚し、オズワルド侯爵としてこの屋敷に移り住み、今日で早一ヶ月。
以前同様ノルヴェス騎士団に勤めながら、帰宅して後は侯爵としての実務も日々こなしていた。
さらには、愛しい妻と共に暮らすためこの屋敷に移り住んだことで、騎士団の砦に毎日数時間かけて通うことになり、自由になる時間は以前よりだいぶ少なくなっていた。
そんな中、なかなか満足に睡眠を取ることができない俺の身体を案じ、「一緒に眠りませんか?」と言ったソーマの言葉を、俺は自分の都合の良い方に解釈した。
つまり、一緒に寝たい――俺と一夜を共にしたいのだと。
実際には彼女は、自分と同じ時間に就寝し、ちゃんと睡眠を取って欲しいという意味で言ったらしいのだが、その時の俺はそこまで頭が回らなかった。
というより、普段甘えてくることの殆どない彼女に誘われていると思った瞬間、理性が飛んだ。
そして、なぜ抱き上げて連れて行かれるのだろうと、きょとんとした様子の彼女をそのまま腕に抱いて寝室へ連れて行き、寝台に下ろすと同時に口付けで言葉を奪い――結局、朝まで腕の中から出さなかった。
そんな成り行きゆえ、ソーマは衣服をなにも身に着けていなかった。部屋に入ってすぐ俺に脱がされた水色のワンピースは、今も床に無造作に散らばったままだ。
裸を見られるのが恥ずかしいらしく、ソーマは起きると同時にぐるぐるとシーツを身体巻き付けていたが、そこから覗く白い肩が目の毒だ。
「ソーマ。――悪かった」
叩いているとは言っても、彼女の力はささやかで、可愛らしいものだ。
それも、恥ずかしさで潤んだ目元で睨まれ、ぽかぽかと優しく叩かれていると、逆に胸が甘く疼くくらいだ。ソーマは、可愛らしさだけで俺を百回くらい殺せる。そう真面目に思う。
「お願いだから、機嫌を直してくれ」
「だって結局ハイル、昨晩もちゃんと眠っていません……」
俺とそういう行為をしたことを後悔しているのではなく、どうやら行為をした結果、俺が睡眠を取れなかったことを口惜しく思っているらしい。それにほっとする。
彼女に本気で拒まれたら、どうしていいかわからなくなる自信はあった。
俺が触れたいと思うのは、目の前の彼女だけだったから。
それに、ソーマを一晩中抱いたことで十二分に英気は養われているのだが、逆に彼女は俺が疲れたと思っているらしい。
手を伸ばしたソーマが俺の頭をぎゅっと胸に抱きこみ、案じるように言う。
「少しでいいから、今から眠ってください。落ち着くようにこうしていますから」
「ソーマ、その……」
これでは逆に落ち着かない。それどころか、色々と理性がまずい。
彼女の小ぶりだが形の良い膨らみが頬に当たり、俺はぎこちなく動きを止める。
男としては誘われているとしか思えないような状況だが、これが彼女の恐ろしい所だ。
信じられないが、本気でこうすると俺が落ち着くと思っているらしい。
それはそもそも、ソーマに触れると落ち着くと何度も言い続けた俺が原因なのだが、時と場所と触れている部位というものがある。
だが、ここで襲いかかっては、彼女に本気で呆れられかねない。
その内に、ソーマからすやすやとした寝息が聞こえて来る。
どうやら昨晩の行為で疲れたのは、彼女の方だったらしい。
「この状況で眠るのか……」
広い室内に、俺の愕然とした呟きが響いて聞こえた。
※
「――ということがあったんだ」
「そんな話を聞かされた私は、一体どうすれば」
数日後、仕事後にダラスの酒場で落ち合ったセスに、その時の様子をかいつまんで語ると淡々と声が返ってきた。
いつもながらの平坦とした声音だが、どこか呆れたような眼差しでもある。
確かに、夫婦の事情を話されても、反応に困ることだろう。
だが、ウォーレンに話せば、孫を見るような目で微笑ましげに見られ、居心地悪くなるだろうことは目に見えていたし、ジャックは色恋には純情な所があるので、顔を赤くして狼狽えるだけだろう。アレンに話せば、俺たちの間で盛大な決闘が勃発するのは目に見えていた。あいつは論外だ。
騎士団の同僚に話しても大方冷やかされるだけなので、自然こういったことを話しやすいのは、セスになる。淡々と思ったことを返してくるので、考えを整理しやすい。
今も、セスは隣で俺の言った話を簡単にまとめていく。
「つまり、愛しい妻が隣にいると、睡眠不足にも関わらず夜通し腕に抱いてしまうと。そしてその妻に心配され、可愛らしく怒られると。……隊長。一言で言えば、それはただの惚気です」
「――違う。どうすればいいか悩んでいるんだ」
「あくまで違うと言い張りますか」
セスが淡々と突っ込む。
所属する騎士団は違えど、同じ年に入団した同期でもあるこの男は、二人きりになると、途端に遠慮がなくなる。だが、それが却ってやりやすくもある。
セスが、やれやれと嘆息するように口にした。
「きちんと睡眠を取りたい、だが妻が可愛いあまりそれも難しいというのなら――」
「なら?」
「また以前のように、彼女に男装なりしてもらえば良いのでは? 貴方のことですから、彼女と寝室を別にするのは無理な話なのでしょうから」
「それはもちろん論外だが……男装か」
「ええ。貴方がたは、初め男同士の友人だったのですから。その頃と同じ格好をすれば、さすがに健全な雰囲気で就寝することができるのではないかと」
「なるほど……」
確かに一理あると思い、俺は静かに頷く。
友人だった頃、俺とソーマは適度な距離を持って互いに接していた。その時の様子を思い出せば、不埒な思いを抱くこともないだろうと思えた。
そして、翌日。俺は屋敷に帰ると、さっそくソーマに、夜寝る時に学者の服を着てほしいと頼んでみた。
「学者の服ですか? はい、それは今もちゃんとありますが……」
案の定、不思議そうな顔をしたソーマに、俺はさすがに脈絡が無さすぎたかと思い、さらに言葉を続ける。
「あの服はソーマによく似合っていたから、たまに見てみたくなるんだ。もし、嫌で無ければだが」
「そ、そうでしたか……いえ、それなら勿論喜んで。今着替えますね」
どうやら、男装が似合うと言われたことが嬉しかったらしい。
ぱぁっと顔を輝かせたソーマは、棚からその服を取り出すと、部屋の隅で後ろ向きになっていそいそと着替え出す。
やがて、頭にターバンを巻き、すべて着終えたソーマがくるりと振り返った。
「ハイル、できました」
どうかな、男らしく見えているかな? という感じのそわそわした嬉しそうな表情だ。
――可愛い。駄目だ、もうなにを着ても可愛く見える。
色気もなにもない格好なのに、腕に抱き締めて出したくなくなる。
その思いのままに、歩み寄ってぎゅっとその細い身体を抱き締めると、ソーマが戸惑った声を出した。
「ハイル……?」
見れば、恥ずかしそうに、戸惑った様子で俺を見上げている。
「ソーマ……」
そこで、俺は彼女のもう一つの名をふと思い出す。
彼女と夫婦になり、やがてその中で知ることになった名前を。
「……チエ」
「……!!」
囁いた途端、ソーマの顔がぼんっと音を立てて真っ赤になる。
動揺にうろうろと目を彷徨わせた彼女は、掠れた声で尋ねてくる。
「な、なんで……? ハイル、普段その呼び方、しないのに……」
「ソーマはチエでもあるが、俺にとってはソーマだからだ。それに、この呼び方をすると、ソーマがいつもよりさらに可愛い顔を見せる。……それを誰にも見せたくない」
「可愛くなんて……」
「可愛い」
囁いた俺は、恥ずかしそうに俯いた彼女の唇を、頤を持ち上げてそっと塞ぐ。
やがてソーマが、おずおずと俺の胸元の服を掴んだ。それは、俺の行為を受け入れる時の、彼女の了承の合図。それに嬉しくなり、俺はからかうように彼女の耳元で小さく囁く。
「今日は一緒に眠ってもいいのか?」
「……ハイル、いじわるです。わかっている癖に」
潤んだ瞳で恥ずかしそうに睨む彼女に、たまらない気持ちになって俺はまた唇を重ねる。さっきよりも深く、彼女の吐息を――彼女のすべてを奪うように。
そして俺は、長い口づけにぐったりした彼女の身体を寝台の上に横たえ、学者服の釦を外していった。大切な宝物の包みを紐解くように。
※
「――ということがあったんだ」
「だから、なぜそれを私に話そうと思い至ったのか」
数日後。以前同様、ダラスの酒場で落ち合ったセスに話すと、やはりというか淡々とした突っ込みを返された。
隣から胡乱な目を寄越す男に、俺は葡萄酒を口に運びながら真面目に返す。
「お前には相談に乗ってもらったから、顛末を話しておくべきだと思った」
「その生真面目さは、別の時に大いに発揮してください。そして、助言したことがまったく功を奏していません」
「ああ。……可愛いソーマを見せてくれて、お前には感謝している」
「とうとう開き直られました」
セスに淡々と突っ込まれるが、事実なのだから仕方がない。
ソーマを前にして、それ以外のことに意識を向けるのは無理なのだと、再確認しただけだ。
やがて、やれやれといった様子ながら、肩を下げてセスが口にした。
「……まあ、なにはともあれ、貴方がたに跡継ぎができるのもそう遠くない未来のようで、少々安心しました」
そしてすっと席を立ったセスは、振り返って口にする。
「隊長。一言忠告しておきますが、十月十日ですので」
「なに?」
「その時が来たら、それだけの期間彼女に触れてはいけないのだということを、どうぞお忘れなく」
一瞬、無表情の中、藍色の瞳が面白そうに煌めいて見えたのは、見間違いだろうか。
そしてセスはそのまま、音も無くすっと店を出て行った。
すでにソーマに関する相談の前に、互いの近況などは話し終えていたので、俺も呼び止めたりはしなかった。そうでなくとも、気まぐれな男だ。自分の好きな時に、好きな所へふらりと出掛けていく。
それにしても――
「十月十日、か……」
新しい命を育むのにそれだけの期間がかかることは知識として知っているが、その時を迎えたソーマが――そして自分がどうなるのかが予想もつかず、ぽつりと呟く。
だが、それもまだ遠い先のことだろう。早くに授かれるならばもちろん嬉しいが、これは縁のようなものだから。
そう思い、俺は賑やかな喧騒が響く酒場の中、葡萄酒をまた一人静かに口に運ぶ。
だが、その一か月後。
セスの言った通り、俺はそれからしばらくソーマに触れられない辛さと、それを越える大きな喜びを味わうことになる。
そして、やがて時を経て、腕の中にまたひとつ愛しい存在の重みを感じることになるのだが――それはまた別の話だ。
「一緒に眠りたいって、そういう意味じゃなかったのに……」
真っ赤になった顔を俯け、恥ずかしさと居た堪れなさに目を潤ませたソーマが、また俺の胸をぽかぽかと叩く。
だが、すべて終わってしまった今は、それももう後の祭りだ。
事の発端は、俺が毎日休まず仕事をし続けたことにあった。
ソーマと結婚し、オズワルド侯爵としてこの屋敷に移り住み、今日で早一ヶ月。
以前同様ノルヴェス騎士団に勤めながら、帰宅して後は侯爵としての実務も日々こなしていた。
さらには、愛しい妻と共に暮らすためこの屋敷に移り住んだことで、騎士団の砦に毎日数時間かけて通うことになり、自由になる時間は以前よりだいぶ少なくなっていた。
そんな中、なかなか満足に睡眠を取ることができない俺の身体を案じ、「一緒に眠りませんか?」と言ったソーマの言葉を、俺は自分の都合の良い方に解釈した。
つまり、一緒に寝たい――俺と一夜を共にしたいのだと。
実際には彼女は、自分と同じ時間に就寝し、ちゃんと睡眠を取って欲しいという意味で言ったらしいのだが、その時の俺はそこまで頭が回らなかった。
というより、普段甘えてくることの殆どない彼女に誘われていると思った瞬間、理性が飛んだ。
そして、なぜ抱き上げて連れて行かれるのだろうと、きょとんとした様子の彼女をそのまま腕に抱いて寝室へ連れて行き、寝台に下ろすと同時に口付けで言葉を奪い――結局、朝まで腕の中から出さなかった。
そんな成り行きゆえ、ソーマは衣服をなにも身に着けていなかった。部屋に入ってすぐ俺に脱がされた水色のワンピースは、今も床に無造作に散らばったままだ。
裸を見られるのが恥ずかしいらしく、ソーマは起きると同時にぐるぐるとシーツを身体巻き付けていたが、そこから覗く白い肩が目の毒だ。
「ソーマ。――悪かった」
叩いているとは言っても、彼女の力はささやかで、可愛らしいものだ。
それも、恥ずかしさで潤んだ目元で睨まれ、ぽかぽかと優しく叩かれていると、逆に胸が甘く疼くくらいだ。ソーマは、可愛らしさだけで俺を百回くらい殺せる。そう真面目に思う。
「お願いだから、機嫌を直してくれ」
「だって結局ハイル、昨晩もちゃんと眠っていません……」
俺とそういう行為をしたことを後悔しているのではなく、どうやら行為をした結果、俺が睡眠を取れなかったことを口惜しく思っているらしい。それにほっとする。
彼女に本気で拒まれたら、どうしていいかわからなくなる自信はあった。
俺が触れたいと思うのは、目の前の彼女だけだったから。
それに、ソーマを一晩中抱いたことで十二分に英気は養われているのだが、逆に彼女は俺が疲れたと思っているらしい。
手を伸ばしたソーマが俺の頭をぎゅっと胸に抱きこみ、案じるように言う。
「少しでいいから、今から眠ってください。落ち着くようにこうしていますから」
「ソーマ、その……」
これでは逆に落ち着かない。それどころか、色々と理性がまずい。
彼女の小ぶりだが形の良い膨らみが頬に当たり、俺はぎこちなく動きを止める。
男としては誘われているとしか思えないような状況だが、これが彼女の恐ろしい所だ。
信じられないが、本気でこうすると俺が落ち着くと思っているらしい。
それはそもそも、ソーマに触れると落ち着くと何度も言い続けた俺が原因なのだが、時と場所と触れている部位というものがある。
だが、ここで襲いかかっては、彼女に本気で呆れられかねない。
その内に、ソーマからすやすやとした寝息が聞こえて来る。
どうやら昨晩の行為で疲れたのは、彼女の方だったらしい。
「この状況で眠るのか……」
広い室内に、俺の愕然とした呟きが響いて聞こえた。
※
「――ということがあったんだ」
「そんな話を聞かされた私は、一体どうすれば」
数日後、仕事後にダラスの酒場で落ち合ったセスに、その時の様子をかいつまんで語ると淡々と声が返ってきた。
いつもながらの平坦とした声音だが、どこか呆れたような眼差しでもある。
確かに、夫婦の事情を話されても、反応に困ることだろう。
だが、ウォーレンに話せば、孫を見るような目で微笑ましげに見られ、居心地悪くなるだろうことは目に見えていたし、ジャックは色恋には純情な所があるので、顔を赤くして狼狽えるだけだろう。アレンに話せば、俺たちの間で盛大な決闘が勃発するのは目に見えていた。あいつは論外だ。
騎士団の同僚に話しても大方冷やかされるだけなので、自然こういったことを話しやすいのは、セスになる。淡々と思ったことを返してくるので、考えを整理しやすい。
今も、セスは隣で俺の言った話を簡単にまとめていく。
「つまり、愛しい妻が隣にいると、睡眠不足にも関わらず夜通し腕に抱いてしまうと。そしてその妻に心配され、可愛らしく怒られると。……隊長。一言で言えば、それはただの惚気です」
「――違う。どうすればいいか悩んでいるんだ」
「あくまで違うと言い張りますか」
セスが淡々と突っ込む。
所属する騎士団は違えど、同じ年に入団した同期でもあるこの男は、二人きりになると、途端に遠慮がなくなる。だが、それが却ってやりやすくもある。
セスが、やれやれと嘆息するように口にした。
「きちんと睡眠を取りたい、だが妻が可愛いあまりそれも難しいというのなら――」
「なら?」
「また以前のように、彼女に男装なりしてもらえば良いのでは? 貴方のことですから、彼女と寝室を別にするのは無理な話なのでしょうから」
「それはもちろん論外だが……男装か」
「ええ。貴方がたは、初め男同士の友人だったのですから。その頃と同じ格好をすれば、さすがに健全な雰囲気で就寝することができるのではないかと」
「なるほど……」
確かに一理あると思い、俺は静かに頷く。
友人だった頃、俺とソーマは適度な距離を持って互いに接していた。その時の様子を思い出せば、不埒な思いを抱くこともないだろうと思えた。
そして、翌日。俺は屋敷に帰ると、さっそくソーマに、夜寝る時に学者の服を着てほしいと頼んでみた。
「学者の服ですか? はい、それは今もちゃんとありますが……」
案の定、不思議そうな顔をしたソーマに、俺はさすがに脈絡が無さすぎたかと思い、さらに言葉を続ける。
「あの服はソーマによく似合っていたから、たまに見てみたくなるんだ。もし、嫌で無ければだが」
「そ、そうでしたか……いえ、それなら勿論喜んで。今着替えますね」
どうやら、男装が似合うと言われたことが嬉しかったらしい。
ぱぁっと顔を輝かせたソーマは、棚からその服を取り出すと、部屋の隅で後ろ向きになっていそいそと着替え出す。
やがて、頭にターバンを巻き、すべて着終えたソーマがくるりと振り返った。
「ハイル、できました」
どうかな、男らしく見えているかな? という感じのそわそわした嬉しそうな表情だ。
――可愛い。駄目だ、もうなにを着ても可愛く見える。
色気もなにもない格好なのに、腕に抱き締めて出したくなくなる。
その思いのままに、歩み寄ってぎゅっとその細い身体を抱き締めると、ソーマが戸惑った声を出した。
「ハイル……?」
見れば、恥ずかしそうに、戸惑った様子で俺を見上げている。
「ソーマ……」
そこで、俺は彼女のもう一つの名をふと思い出す。
彼女と夫婦になり、やがてその中で知ることになった名前を。
「……チエ」
「……!!」
囁いた途端、ソーマの顔がぼんっと音を立てて真っ赤になる。
動揺にうろうろと目を彷徨わせた彼女は、掠れた声で尋ねてくる。
「な、なんで……? ハイル、普段その呼び方、しないのに……」
「ソーマはチエでもあるが、俺にとってはソーマだからだ。それに、この呼び方をすると、ソーマがいつもよりさらに可愛い顔を見せる。……それを誰にも見せたくない」
「可愛くなんて……」
「可愛い」
囁いた俺は、恥ずかしそうに俯いた彼女の唇を、頤を持ち上げてそっと塞ぐ。
やがてソーマが、おずおずと俺の胸元の服を掴んだ。それは、俺の行為を受け入れる時の、彼女の了承の合図。それに嬉しくなり、俺はからかうように彼女の耳元で小さく囁く。
「今日は一緒に眠ってもいいのか?」
「……ハイル、いじわるです。わかっている癖に」
潤んだ瞳で恥ずかしそうに睨む彼女に、たまらない気持ちになって俺はまた唇を重ねる。さっきよりも深く、彼女の吐息を――彼女のすべてを奪うように。
そして俺は、長い口づけにぐったりした彼女の身体を寝台の上に横たえ、学者服の釦を外していった。大切な宝物の包みを紐解くように。
※
「――ということがあったんだ」
「だから、なぜそれを私に話そうと思い至ったのか」
数日後。以前同様、ダラスの酒場で落ち合ったセスに話すと、やはりというか淡々とした突っ込みを返された。
隣から胡乱な目を寄越す男に、俺は葡萄酒を口に運びながら真面目に返す。
「お前には相談に乗ってもらったから、顛末を話しておくべきだと思った」
「その生真面目さは、別の時に大いに発揮してください。そして、助言したことがまったく功を奏していません」
「ああ。……可愛いソーマを見せてくれて、お前には感謝している」
「とうとう開き直られました」
セスに淡々と突っ込まれるが、事実なのだから仕方がない。
ソーマを前にして、それ以外のことに意識を向けるのは無理なのだと、再確認しただけだ。
やがて、やれやれといった様子ながら、肩を下げてセスが口にした。
「……まあ、なにはともあれ、貴方がたに跡継ぎができるのもそう遠くない未来のようで、少々安心しました」
そしてすっと席を立ったセスは、振り返って口にする。
「隊長。一言忠告しておきますが、十月十日ですので」
「なに?」
「その時が来たら、それだけの期間彼女に触れてはいけないのだということを、どうぞお忘れなく」
一瞬、無表情の中、藍色の瞳が面白そうに煌めいて見えたのは、見間違いだろうか。
そしてセスはそのまま、音も無くすっと店を出て行った。
すでにソーマに関する相談の前に、互いの近況などは話し終えていたので、俺も呼び止めたりはしなかった。そうでなくとも、気まぐれな男だ。自分の好きな時に、好きな所へふらりと出掛けていく。
それにしても――
「十月十日、か……」
新しい命を育むのにそれだけの期間がかかることは知識として知っているが、その時を迎えたソーマが――そして自分がどうなるのかが予想もつかず、ぽつりと呟く。
だが、それもまだ遠い先のことだろう。早くに授かれるならばもちろん嬉しいが、これは縁のようなものだから。
そう思い、俺は賑やかな喧騒が響く酒場の中、葡萄酒をまた一人静かに口に運ぶ。
だが、その一か月後。
セスの言った通り、俺はそれからしばらくソーマに触れられない辛さと、それを越える大きな喜びを味わうことになる。
そして、やがて時を経て、腕の中にまたひとつ愛しい存在の重みを感じることになるのだが――それはまた別の話だ。
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※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
文庫を全巻購入して読みました。
面白かったので続きがあるかなと検索してこちらを見つけました。
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楽しい作品ありがとうございました。
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勝手に考えるだけでも 胸がほんわりします。
楽しい作品に出会えて感謝します。
ありがとうございました。( * ॑꒳ ॑* )♥
マンガからこっちにとんだら完結してた!!
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マンガ面白いのに見逃した!