偽りの愛 ー 真実かどうかなんて、なぜわかるのでしょうか

苺 迷音

文字の大きさ
18 / 107
現在

18 分断 -Chapter エリオス

しおりを挟む
 朝露がまだ残る、ひんやりとした早朝。外はまだ夜の名残を引きずり、薄暗さを残していた。

 エリオスのベッドに横たえられたセレイナが身じろぎした。その仕草に気づいたエリオスは、椅子から身を起こす。セレイナの瞼が震え、やがて光を眇めるように開かれた。

「……セレイナ妃」
 
 呼びかけに、彼女はゆっくりと視線を動かした。焦点はまだ曖昧で、夢の続きにいるような顔。

 エリオスはベッドサイドの机の上の盃を取り、少し水を注いだ。

 「喉が渇いているだろう。少しだけでも」
 
 彼女は小さく首を振り、唇を閉ざした。その拒むような仕草に、彼は息を呑む。飲む気力さえ、もう残っていないのか。

 長い沈黙が落ちる。蝋燭の光が揺れ、その影が彼女の頬を淡く照らした。

 エリオスは椅子に腰を戻し、ただ見つめた。彼女の表情は何の感情も映していない。それは、生きることそのものを諦めた者の顔だった。

 死を選ぼうとしたのは、なぜだ? ここにいることが苦しかったのか。
 
 彼女は、何から逃げたかった?
 
 それは、この城か? 兄か?

 その答えを確かめるために、エリオスは静かに声を掛ける。

「……いくつか、聞いてもいいか? 辛ければ答えなくていい」

 セレイナはゆっくりと頷いた。

「ここにいるのが、辛いのか?」

 頷き。

「城を離れたいのか?」

 頷き。

「……兄……セラフィムからも、離れたいのか?」

 ためらいののち、頷く。

「……離縁を、望むのか?」

 その瞬間、彼女の目尻から涙がこぼれた。

 エリオスは視線を落とし、低く息を吐いた。

「……わかった。貴方の望み、確かに受け取った」

 立ち上がり、セレイナに掛けられている毛布を軽く整える。

「まだ夜が明けたばかりだ。今日はここでゆっくり休むといい」

 エリオスはセレイナが安心できるように、ゆっくりとした口調で話した。それを受けたセレイナは、瞼を一度閉じて、再びゆっくりと開く。その仕草は目を動かすことさえ、億劫とでも言っているように見えた。
 
 目は窪み、頬はこけており、肌は酷くかさついている。皮膚の色も青白く、口元や目元には肌の乾燥の末なのか、皺が深く刻まれていた。美しかった銀髪も艶を失っている。

 これがあの、セレイナなのか?

 あれほど美しいと謳われた、気品ある姿の欠片もない。ただ、骨の際立つ輪郭と髪の銀色だけが、かろうじて彼女の面影を留めている。

 人はここまで短期間で変われるものなのだろうか。彼女を見ているだけで、胸が苦しくなる。どれほどの苦しみだったのだろうか。

 エリオスは、セレイナが再び眠りにつくのを見届けると、扉へ向かいながら、低く呼んだ。

「オクターブ。彼女を頼む」

 短い返事が返る。
 エリオスは一度も振り返らずに部屋を出た。

 外は既に明るく、日差しが回廊の柱の影を落としていた。


 
 セラフィムの執務室では、書類の束がいつもそうであるように、その日も整然と積まれていた。

 その山の一番上に、セラフィムが手を伸ばした瞬間。

 扉が勢いよく開いた。セラフィム視線が音の方へと向く。その表情には、無作法な者に対しての苛立ちが浮かんでいた。

「エリオス、何の用だ」

「お前、何をしている」

 静かな声だった。だが、その中には押し殺した怒りがあった。

「何の話だ?」

「セレイナ妃のことだ」

 エリオスは机に歩み寄る。

「塔から身を投げようとしていた。骨と皮だけの姿で、今は意識もほとんどない」

「……何だと?」

「どうやったらあんな風になる? お前の妃だろ。側妃とはいえ、妃だ。それを放っておいたのか?」

 セラフィムの顔が、傍目から見ても分かる程に、色を失くしてゆく。そして強張る口元。そこから、やっとのことで吐き出すように、彼は言葉を紡いだ。

「必要なものはすべて与えている……」

「書類の上では、そうだろうな? 宮廷医師の話では『栄養失調』だそうだ。なぜだ?」

 エリオスの声が鋭くなり、セラフィムを見る目に微かな侮蔑を滲ませた。

「以前見た彼女の面影はもうなかった。あれは人の姿じゃない。……生きる亡霊だ」

「彼女は以前、食事に不満を漏らしていたと……」

「セレイナ妃本人の口から、それを聞いたのか? お前に直接、言葉で訴えたのか?」

「いや……」

「彼女自らが食事を拒否していたとしても、それなら何故、死のうとしていたんだ?」

 セラフィムは何も言い返せなかった。

 机の上に整然と並ぶ書類の束。印が押された紙。それが、彼にとっての現実だった。

「政務も秩序も、そんな紙の上だけで保てると思うな。お前の目の前で、人が壊れていたんだ」

 セラフィムの唇が動いたが、言葉にはならず、息が漏れて行くだけ。そこに重ねるように、エリオスが強い口調で言い放った。

「俺は父上に申し出る。セレイナを保護する。お前は速やかに離縁しろ。それが彼女の望みだ」

「待て、エリオス、それは――」

「言い訳はいらん。何が起きていたのか、事実はなんなのか。それから目を逸らさず直視しろ」

 エリオスの目には迷いがなかった。

「彼女をこのままお前の傍に置けば、確実に死ぬ。次は間違いなく、間に合わない」

 沈黙が落ちた。
 蝋燭の炎がゆらめき、紙の束の影が机の上で歪んだ。

「……俺が彼女を守る」

 短く告げると、エリオスは背を向けた。
 扉を開け、何も振り返らずに出ていく。

 扉が静かに閉じられる。

 その音が、二人の世界を分断する線引きのように響いた。

 昨夜、腕の中で感じた軽さと冷たさが、まだ残っている。忘れることはできなかった。

 エリオスは歩きながら心に誓った。

 もう二度と、あのような姿にはさせない。たとえ兄であっても、彼女を渡すことは出来ない。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

壊れた心はそのままで ~騙したのは貴方?それとも私?~

志波 連
恋愛
バージル王国の公爵令嬢として、優しい両親と兄に慈しまれ美しい淑女に育ったリリア・サザーランドは、貴族女子学園を卒業してすぐに、ジェラルド・パーシモン侯爵令息と結婚した。 政略結婚ではあったものの、二人はお互いを信頼し愛を深めていった。 社交界でも仲睦まじい夫婦として有名だった二人は、マーガレットという娘も授かり、順風満帆な生活を送っていた。 ある日、学生時代の友人と旅行に行った先でリリアは夫が自分でない女性と、夫にそっくりな男の子、そして娘のマーガレットと仲よく食事をしている場面に遭遇する。 ショックを受けて立ち去るリリアと、追いすがるジェラルド。 一緒にいた子供は確かにジェラルドの子供だったが、これには深い事情があるようで……。 リリアの心をなんとか取り戻そうと友人に相談していた時、リリアがバルコニーから転落したという知らせが飛び込んだ。 ジェラルドとマーガレットは、リリアの心を取り戻す決心をする。 そして関係者が頭を寄せ合って、ある破天荒な計画を遂行するのだった。 王家までも巻き込んだその作戦とは……。 他サイトでも掲載中です。 コメントありがとうございます。 タグのコメディに反対意見が多かったので修正しました。 必ず完結させますので、よろしくお願いします。

嘘をありがとう

七辻ゆゆ
恋愛
「まあ、なんて図々しいのでしょう」 おっとりとしていたはずの妻は、辛辣に言った。 「要するにあなた、貴族でいるために政略結婚はする。けれど女とは別れられない、ということですのね?」 妻は言う。女と別れなくてもいい、仕事と嘘をついて会いに行ってもいい。けれど。 「必ず私のところに帰ってきて、子どもをつくり、よい夫、よい父として振る舞いなさい。神に嘘をついたのだから、覚悟を決めて、その嘘を突き通しなさいませ」

【完結】さよならのかわりに

たろ
恋愛
大好きな婚約者に最後のプレゼントを用意した。それは婚約解消すること。 だからわたしは悪女になります。 彼を自由にさせてあげたかった。 彼には愛する人と幸せになって欲しかった。 わたくしのことなど忘れて欲しかった。 だってわたくしはもうすぐ死ぬのだから。 さよならのかわりに……

【完結】失いかけた君にもう一度

暮田呉子
恋愛
偶然、振り払った手が婚約者の頬に当たってしまった。 叩くつもりはなかった。 しかし、謝ろうとした矢先、彼女は全てを捨てていなくなってしまった──。

ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように

柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」 笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。 夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。 幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。 王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
【3月中――完結!】 積み上がった伏線の回収目前!! 夫にも子どもにも、私は選ばれなかった。 長年の裏切りを抱え、離縁状を置いて家を出た――。 待っていたのは、凍てつく絶望。 けれど同時に、それは残酷な運命の扉が開く瞬間でもあった。 「夫は愛人と生きればいい。  今さら縋られても、裏切ったあなたを許す力など残っていない」 それでも私は誓う―― 「子どもたちの心だけは、必ず取り戻す」 歪で、完全な幸福――それとも、破滅。 “石”に翻弄された者たちの、狂おしい物語。

ご安心を、2度とその手を求める事はありません

ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・ それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望

完結 殿下、婚姻前から愛人ですか? 

ヴァンドール
恋愛
婚姻前から愛人のいる王子に嫁げと王命が降る、執務は全て私達皆んなに押し付け、王子は今日も愛人と観劇ですか? どうぞお好きに。

処理中です...