偽りの愛 ー 真実かどうかなんて、なぜわかるのでしょうか

苺 迷音

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72 沈黙の檻 ーChapter ヴァルター

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 公爵邸に戻ったヴァルターを、執事長が恭しく出迎えた。

「ミレーユは?」

「奥様でしたら、ナーサリーにおられます」

 執事長の返事を聞き、片手を挙げて執事長に従わなくていいと制す。ヴァルターはそのまま一人で、ナーサリーへと足を向けた。
 廊下を歩きながら、懐の瓶を握りしめる。

 『これをお前がセレイナに盛ったのか? 答えろ』

 そう、頭の中で言葉を組み立てるが、足取りは重い。ナーサリーの扉の前に立つとヴァルターは、一度深く嘆息した。

 重い拳を上げ軽く扉を叩くと、ミレーユの穏やかな声が返ってきた。

「どうぞ」

 扉を開けると、乳母がアレクセイを抱き、ゆっくりと揺らしていた。その傍らに立つミレーユが、愛おしそうに我が子の頬を指先で撫でている。燭台の柔らかな光の輪の中で、母子の姿は祭壇に飾られた聖画のように穏やかだった。

「あら、ヴァルター、戻ったのね。おかえりなさい」

 振り返ったミレーユの顔には、たおやかな微笑みが浮かんでいる。

「アレクセイがなかなか寝付かなかったの。あなたの帰りを待っていたのかしら」

 乳母がゆっくりと揺れる腕の中で、アレクセイが小さな寝息を立て始めていた。小さな手が、乳母の胸元をきゅっと握っている。無垢な顔で眠りにつく、何も知らない我が子。

 ヴァルターは懐に手を入れ、瓶を再び握る。が、それをどうしようというのだ?

 ミレーユに突きつけて、真実を話せと言うのか?

 そう思う。が、指が動かない。

 これを突きつけたら、ミレーユは必ずこう問い返すだろう。

『それをどこで手に入れたの?』と。

 娼館で手に入れ、銀髪の娼婦を『セレイナ』と呼んで抱いていた。菫の香油を贈り、その髪に顔を埋めていた。

 そう答えられるのか。
 この完璧な妻の前で、自分の醜い執着を晒せるのか?

 それに、ミレーユが渡したという証拠もない。もっと言えば、ミレーユはそもそも関係がないかもしれない。なのに、こちらの不貞だけが白日の下に晒される。

 最悪の場合、ミレーユが娼婦にこの避妊薬を渡し、セレイナに盛ったものと合致すれば、それは動かぬ証拠となる。

 ヴァルターは、静かに懐から手を抜いた。瓶はそのまま、懐の中に残ったままで、そこから出すことはできなかった。

「……ヴァルター?」

 ミレーユが首を傾げる。こちらを心配そうに見るその目は、穏やかでどこまでも柔らかい。

「どうかしたの? 顔色が優れないようだけれど」

「いや……何でもない。アレクセイの顔を見に来ただけだ」

 自分でも驚くほど、声が掠れていた。

 ミレーユは乳母に目配せをした。乳母は頷き、アレクセイを静かにミレーユの腕へと移す。受け取ったミレーユは、我が子を胸に抱きながらヴァルターの方へ歩み寄ってきた。

「見て、ヴァルター。この子、あなたに似てきたと思わない?」

 ミレーユがアレクセイの顔をヴァルターの方へ向けた。小さな顔。閉じられた瞼。かすかに動く唇。確かに、自分に似ているように見える。

「ああ……そうだな」

 声が震えそうになるのを堪え、ヴァルターはアレクセイの頬にそっと指を伸ばした。柔らかく、ほんのりと温かい。

 ヴァルターの中で、決して揺るがないのは、この小さな命を守らなければならないこと。

 ミレーユはそんなヴァルターを見つめ、小さく微笑んだ。

「この子のためにも、あなたには元気でいてもらわないと困るわ」

「そうだな……」

 ヴァルターは同じ言葉ばかりを繰り返す。わかっている。自らも完璧な夫であり父でなければならないと。だが、今はその仮面をうまく被ることが出来ない。

 ミレーユはアレクセイを抱いたまま、ゆっくりとヴァルターの傍を通り過ぎた。すれ違う瞬間、彼女の鼻が微かに動き、その完璧な微笑みが一瞬だけ深まったように見えた。

 そしてミレーユはアレクセイを、揺り籠の中にそっと寝かせると、傍らに置いてある椅子へ腰を掛ける。寝かせたアレクセイに、掛け布を被せると愛おしそうに、その髪をゆっくりと撫でる。

「お疲れのようですわね、ヴァルター」

 ミレーユはヴァルターの方を見ないまま、言葉を継ぐ。

「少し……嗅ぎ慣れない、パウダリーな甘い花の香りがするわ」

 ヴァルターの背筋が強張った。

 菫の香り。娼館で『セレイナ』と呼ぶ女に贈った香油の香り。服に移っていたのか。いつもならば、ミレーユに会う前に着替えを済ませていたのに。今日はそれさえも、頭には浮かぶことすらなかった。

 ミレーユはこちらを振り返らない。背を向けたまま、アレクセイの豊かな髪を指先で撫でている。

「どこかで拾ってきたのかしら? 評議会の場か、街でかもしれないわね。あなたも、色々な方々と交流しなければならないから、気疲れしたでしょう?」

 優しく、労わるような言葉。責めもしないし、何も問い詰めてこない。不実な夫を見逃してやる慈悲深い妻の姿。

 だが、その背中が語っているように見える。
 
『私は知っている』と。あなたが何をしているか『私は全てお見通しだ』と。

 ミレーユはゆっくりと振り返り、にっこりとヴァルターに微笑みを向けた。

「今日はゆっくり休んでね。明日も勤めがあるのでしょう?」

 ヴァルターは何も答えられなかった。言葉が出ない。
 妻の前では、自分は何も言えない。言う資格がない。

「ああ、ありがとう。君も無理をしすぎないようにしてくれ」

 そう言うと、いつもそうするように彼女の傍まで行くと、椅子に座る彼女の後ろから髪に口づけを落とす。

 そうしてから、逃げるように部屋を出た。



 自室に戻ったヴァルターは、扉を閉めると同時に、その場に背を預けて崩れ落ちた。

 懐から赤鈍色の瓶を取り出し、震える手で見つめる。

 セレイナを壊したかもしれない毒。その証拠かもしれないモノを握りながら、自分は何もできなかった。問い詰めることも、告発することも、誰かに渡すことも。

 そもそも、なぜ娼婦に避妊薬が渡ったのか。
 もしかしたらミレーユは関係ないのでは?

 一瞬、そう思った。

 だが、どう考えてもおかしすぎる。自分の周りで同じような現象が二度も起こるなど、偶然にしては出来すぎている。

 エリオスも言っていたではないか。事実を積み上げれば、自ずと答えが出ると。

 そして今、ヴァルターの中で受け入れ難いその答えは、既に出ていた。

 それだけではない。もっと恐ろしいことに、ヴァルターは気づいてしまっていた。
 
 娼婦の言葉が、脳裏に蘇る。

『この前、川に落ちて亡くなった雑役のおじさんがおりましたでしょう?』
 
 川に落ちて、亡くなった。
 
 事故だと、誰もが思っている。娼館の者たちも、街の人間も、誰も疑ってはいないのだろう。
 
 だが。
 
 避妊薬を娼婦に渡した男が、死んでいる。『とあるお偉い貴族様から頂いた』と言っていた男が、もうこの世にいない。
 
 それも偶然か?
 
 本当に、ただの事故か?

 ヴァルターの背筋を、冷たいものが這い上がってゆく。
 
 もしミレーユが関わっているのなら。もし彼女が、自分の罪を隠すために、証人を消すような女だとしたら。

 考えたくはないのに、一度浮かんだ疑念は消えない。ミレーユの優雅な微笑みの裏に、どんな顔が隠れているのか。
 
 結局、ミレーユを断罪しようとすれば、自分の醜さが露呈する。証人となる男は既に死んでいる。公爵家を守るためには、この瓶を握り潰して沈黙するしかない。

 それは、ミレーユの罪を隠蔽する共犯者になるということだ。

 ヴァルターは瓶を握りしめ、目を閉じた。

 あの夕暮れの街で見たセレイナの姿が、瞼の裏に浮かぶ。健やかに微笑み、エリオスと並んで歩いていた彼女。あの輝きを、この瓶が奪ったのかもしれない。そしてそれを盛ったのが、自分の妻だとしたら。

 そう思っても、それを口にすることはできない。問い詰めてもならない。
 なにより、そんなこと出来る資格もない。

 娼館で偽物のセレイナを抱きながら、本物の名を呼んでいた男に。妻がいながら、過去の女に縋り続けていた男に。

 ヴァルターに残されているのは、この毒を抱えたまま、沈黙して生きていくしかない道。

 この邸は檻だ。
 自分で作り上げた、出口のない檻。

 ヴァルターは瓶を懐に戻し、両手で顔を覆った。

 もう何を信じればいいのか、わからなかった。
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