偽りの愛 ー 真実かどうかなんて、なぜわかるのでしょうか

苺 迷音

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83 診察 ーChapter エリオス

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 王宮へ戻ったその夜、ガレーニャは客室に籠もった。

 翌朝、彼女の目の下には濃い隈が刻まれていた。一晩中、瓶と文献を照らし合わせていたのだろう。その手には、びっしりと文字の詰まった羊皮紙が握られていた。



 エルグレン伯爵邸での晩餐から、二日後の午後三時。カフェ・プロコピウス。

 個室の空気は、着古してたっぷりと水気を吸い込んだ外套のように、重く、真夏の蒸した湿り気を帯びている。部屋の温度は高くないというのに、エリオスはどこか息苦しさを感じていた。

 隣の個室では、ヴァルターが連れてきた娼婦の診察を、ガレーニャが行っている。立ち合いとして、オクターブも同席していた。

 ヴァルターは椅子に深く腰掛け、石像のように微動だにしない。彼はこの国の公爵であり、領地の命運を背負う主である。その重圧を日常としてきた男だからこそ、足元からすべてが崩れ去ろうとしている今この時も、冷静であろうと努めているのだろう。
 膝の上に置かれた手の甲には青い血管がくっきりと浮かび、そこを打つ激しい脈動が、エリオスにまで響いてくるようだった。

 エリオスは、ヴァルターの凄まじいまでの自制心が宿っているのだろう手元から、視線を逸らしゆっくりと手元のカップへと落とした。

 出された珈琲はとうに冷めきり、液面にはわずかな油膜が浮かんでいる。それは、隣室で続いているガレーニャによる娼婦への診察が、どれほど長い時間、彼らをこの静寂に閉じ込めているかを示していた。
 黒い珈琲の水面は、揺らぎ一つない鏡となって、エリオスの冷ややかな眼差しを映し返している。

(兄上へ、どう伝えるべきか)

 エリオスはカップの縁を見つめたまま、脳内で言葉を並び替えていた。セレイナが受けた苦しみ、そしてミレーユ夫人が犯したやもしれぬ執念深い罪。それを暴くことは、さらなる過酷な未来を直視しなければならなくなる。だが、見て見ぬふりは決してしてはならない。

 エリオスは、小さく息を吐き、首を軽く回す。

 カチ、カチ、カチと、秒針の音がエリオスの耳に響く。
 この部屋に時計があったのか。

 その音を認識して、初めて時計の存在を意識した。それほどまでに静かな部屋。

 どれくらいの時間そうしていただろう。静かな緊張を破ったのは、秒針と同じようにリズミカルな扉を叩く音だった。
 それに反応したかのように、ヴァルターの肩がビクッと揺れる。エリオス自身も、カップを握る指に力が入った。

「入れ」

 エリオスが発した声は硬い。

 扉が開き、オクターブとガレーニャが入ってきた。

 ガレーニャの顔を見た瞬間、エリオスは無意識に体を前に乗り出していた。彼女の表情が、全てを物語っていた。唇が引き結ばれ、眉間に皺が寄っている。悪い知らせを伝えなければならないのだろうことは一目瞭然であった。

「娼婦は」

「手筈通り、蒸し湯屋裏の一角へ。こちらで用意した者に、案内させています」

 オクターブの報告に頷いたエリオスは、その視線をガレーニャに向けた。

「結果を聞こう」

 ガレーニャは一度、深く息を吸った。その手に握られた羊皮紙の端が、微かに震えている。

「確定とは申し上げられません」

 彼女は前置きを添えた。当時、セレイナに盛られていただろう毒の現物はないのだ。今、手元にある毒との一致。これも、可能性でしかない。だが、医師としてガレーニャは、心の奥では違えようもない真実として毒の存在を確信しているのだろう。その声の震えが既に答えだった。

「ですが、セレイナ様が摂取させられていたものと、同じ可能性は非常に高いと考えます」

 ガレーニャが羊皮紙に目を落とした。書かれた内容を読み上げるためではなく、ヴァルターの顔を見ないためなのかもしれない。

「急激な体内循環の乱れと喪失による、肌荒れ、食欲不振、体重減少、髪の艶の喪失、栄養不足による色素の沈着などが挙げられます。また、判断力の低下、生活意欲や自発性の後退も今はまだ微細ではありますが、見受けられます。このまま服用されていたら、間違いなく命に関わる結果になったでしょう」

 淡々と述べているようで、声が次第に嗄れていく。

「それが先ほどの女性の診察結果です」

 一度、言葉が切れた。ガレーニャが唇を舐めた。喉が渇いているのだろう。

「かつて、セレイナ様に起きた症状とも、驚くほど似通っております」

 ヴァルターが、両手で顔を覆っていた。指の隙間から、押し殺したような嗚咽が漏れている。肩が震え、首が仰け反った。喉の奥から絞り出されるような、言葉にならない声。

 エリオスは、何も言えなかった。目の前の男が崩れていくのを、ただ見ていた。

 ガレーニャが差し出した羊皮紙を受け取り、目を通す。薬草の名前、成分、副作用の一覧。娼婦の診察記録。セレイナの過去の症状との比較。細かな文字が、整然と並んでいる。

 一つ一つの文字が、ミレーユの罪を指し示していた。

 だが、まだ足りない。

 羊皮紙を膝の上に置き、エリオスはその青漆黒色の髪を掻き上げた。思考を整理する必要があった。

「まずは……兄に報告せねばな」

 ヴァルターが顔をエリオスに向けた。こちらを見つめる目が赤い。頬に涙の跡がある。だがそれ以上に、目の奥の虚ろさが気になった。焦点が合っていない。

「ヴァルター公。辛いかもしれんが、暫く、ミレーユ夫人に悟られぬよう過ごせるか?」

 エリオスは、ヴァルターに対して酷なことを言っている自覚はあった。毎日顔を合わせろと言っているのだ。何をしたか知りながら、食事を共にし、言葉を交わせと。

 ヴァルターの唇が動く。声が出るまで、間があった。

「……努力、いたします」

 漸く吐き出したその声は、力なく抜け殻のようだった。

 このままでは駄目だ。この男が今の状態のまま帰れば、今夜にでも妻を問い詰めるかもしれない。そうでなくてもこの有様では、策略を綿密なまでに狡猾に隠していた女だ。間違いなく何かを察するだろう。そうなれば全てが台無しになる。

「毒は一致したと言っていいだろう」

 エリオスは、膝に置いた羊皮紙を手に取り、ヴァルターに向き直った。

「だが、まだ毒の入手と投与経路がはっきりしていない。ミレーユ夫人と断定したわけではない。今なお、奥方は疑惑がある段階にすぎない」

 ヴァルターの目が、僅かに動いた。疑惑。まだ確定ではない。その言葉に、何かに縋ろうとしているのか。

 だが、それだけでは足りない。この男を立たせる言葉が要る。

 椅子から腰を上げたエリオスは、ゆっくりと歩きヴァルターの前に立つ。彼を見下ろす形になるが、意図してそうした。

「ヴァルター公」

 虚ろな目が、こちらを見上げた。

「この先、貴公にとっては望まない結果が出る可能性が高い。だが……その先を、考えてもらいたい」

 ヴァルターは答えなかった。ただじっと、エリオスのその目を見上げている。

「貴公は公爵だ」

 一語ずつ、刻むように語り掛ける。今はこの国の王子として、臣下に掛ける言葉が必要だ。
 エリオスは、自身の覚悟を含めて伝わるように、ヴァルターの矜持と責任感、そして彼の実直さに賭けた。

「領地があり、そこには領民が居る。貴公の元にも臣下がいる。そして何より、子がいる。それを放り出すわけにはいかんだろ?」

 ヴァルターの喉が動いた。何かを飲み込んだようだった。

「どんな結果が出ようと、貴公にはやるべきことがある。守るべきものがある。公爵として、父として。それを忘れるな」

 長い、長い沈黙が落ちる。

 ヴァルターの目は、少しずつ焦点が戻っていくのが見えた。虚ろだった瞳に、何かが灯る。子供の顔でも思い浮かべているのだろうか。

「……はい、エリオス殿下」

 先程までの空虚さは、その声から消えていた。まだ弱々しいが、確かに意志がある。

「ではまた、連絡する。……自分自身を、あまり追い込むな。それならば未来へ向けて動け」

 そうヴァルターに声を掛けると、彼はまだ半ば茫然としていたが、ゆらりと椅子を立ち上がり、頭を垂れた。
 エリオスはそんな彼の肩を軽くたたくと、そのまま個室を後にした。

 廊下に出ると、エリオスは深く息を吐いた。肺の奥まで空気を入れ替える。
 これからやらねばならないことが山積だった。

 ガレーニャとオクターブが、エリオスの後に続く。

 裏口へ向かいながら、エリオスは頭の中で次の段取りを考えていた。毒は一致したと言っていいだろう。だが、要と言ってもいい毒の経路をハッキリとさせなければならない。ミレーユは毒を、恐らくはリージェリア妃に渡したのだろう。そしてリージェリアは、母国から連れてきた官女を使い、それを盛った。

 だがこれも、積み重ねてきた憶測でしかなく、確証がない。

 それを突き止めなければ、追い詰めることはできない。

 ここが一番の難関だ。

 次に向かうべき場所はわかっている。さらにその次。問題はここだ。

 エリオスは歩を止めず、顔は前を向いたまま、オクターブに声を掛けた。

「レーヌ商会へ行く」

「御意」

 短いやり取り。

 レーヌ商会へは、ただの確認のため。

 その次が最大の難関になるだろうことは容易に想像がついた。
 だがもう、四の五の言っている場合ではない。

 最終手段に出るしかない。

 エリオスは、馬車に乗り込みながら、その難関へ向けて動き出すために腹を括った。
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