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88 国境の宿 ーChapter エリオス
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一日たりとも無駄には出来ない。
エリオスは出立の準備を整えながら、そう自分に言い聞かせていた。
一刻も早くナルヴァへ赴き、証言を得る。そして、確かな証拠を持ち帰り、セレイナの安全を確保する。そのためには、時間を無駄にするわけにいかない。
ガレーニャが伯爵邸へ戻る前に、エリオスは彼女に二通の手紙を託した。
一通は伯爵宛て。数日から長ければ数週間、王都を離れること。その間、念には念を入れた警護を頼みたいという内容だ。
もう一通はセレイナ宛て。内容は簡素なものだったが、セレイナへの気遣いに溢れたものになっていた。
「確かにお届けいたします」
ガレーニャは手紙を受け取り、深く頭を下げた。
「頼む」
エリオスがそう声掛けをしたそのあと、横に居たオクターブとガレーニャは、握手を交わしあう。
そして再びガレーニャは、エリオスへ一礼をし、馬車へ乗り込んだ。
伯爵邸へ向かうガレーニャを乗せた馬車を見届けた後、エリオスは踵を返した。
「我々も出立する。一秒たりとも無駄にできん」
「御意」
ここからが本当の正念場。
今までのように、雲を掴むようなことではない。誰を捕まえ、何を聞くのか。全て明確だ。
そして、今後は一度のミスも許されない。もし過ちを犯せば、それは大きな問題に発展するだろう危険を孕んでいるのだ。
エリオスとオクターブは、気を引き締めつつ、次の目的へと歩を進めた。
☆
王都からグレイストン公爵領までは、馬車で一日ほどの行程だった。
ガレーニャを見送った後、すぐにヴァルターと合流した一行は、そのまま出立した。
ヴァルターは道中、ほとんど口を開かなかった。馬車の窓の外を眺めているようで、実際には何も見ていない。そういう目をしていた。時折、深いため息が漏れる。何かを考えているのか、何も考えられないのか、判断がつかない。
エリオスもあえて話しかけなかった。今のヴァルターに必要なのは、言葉ではなく時間だろう。
冷静になり、物事を俯瞰視できるようになるまで、どれくらいの時間が必要なのかはわからない。だがそれが、彼の心を癒す時間にもなり得るだろう。
日が傾き宵が始まる頃。馬車は公爵領に入った。
領都の街並みが見え始め、やがて領の中央部にある公爵邸の門が姿を現す。
公爵邸では、前公爵夫妻が出迎えた。形式的な歓待を受け、晩餐を共にする。そういった社交も仕事のうち。そうは思うが、エリオスの心は既に先へ向いていた。
「ヴァルター公。明日の早朝、俺達はこのまま国境近くへ向かう。貴公はここに残ってくれ」
「承知いたしました」
「王都とこちらの仲介を頼む。何かあれば、すぐに知らせてほしい」
ヴァルターは深く頭を下げた。
「お任せください。殿下も、どうかお気をつけて」
☆
公爵邸を発ち、より国境に近い街へ向かう。
途中、エリオスとオクターブは馬車を降り、平民が着るような染めの粗い薄い麻の旅装に着替えた。真夏の日差しを避けるため、フードを目深に被る。
「殿下、その格好ですと、まるで行商人ですね」
「それでいい。目立っては困る」
この国境付近に直接来ることは滅多にない。エリオスの顔を知る者はほとんどいないはずだが、用心するに越したことはない。身なりから高位貴族だと悟られれば、視線を集める。余計な注目ほど厄介なものはないのだ。
出立前に放っておいた密偵たちには、リージェリアの侍女と官女、四人の動向を洗い出すよう指示を出してある。報告はまだ届いていない。
その日の夕刻に、目的の街に着いた。国境に近いこの街は、鉱山で働く人々が多く暮らしている。日に焼けた肌と、土埃にまみれた作業着。昼の仕事を終えた鉱夫たちが、三々五々と酒場へ向かっていく。
彼らにとって、一日の終わりに飲む酒は大切なものであり、働く活力のひとつとなっているのだろう。
エリオスとオクターブは一軒の宿屋に入った。
「部屋を二つ頼む」
宿の主人は二人をちらりと見たが、金貨を受け取ると何も聞かずに鍵を差し出した。こういう場所では、客の素性を詮索しないのが暗黙の了解だ。詮索したところで、いいことなど何もないのだから。
「部屋は二階に上がって、左に進んだ奥部屋二つ。食事はここの奥の酒場で出せる。今夜の牛肉の煮込みは悪くないよ」
「わかった」
言われた部屋へ荷物を置き、エリオスとオクターブは階下の酒場へ降りた。
薄暗い店内には、鉱夫や商人たちがまばらに座っている。汗と土埃の匂いに混じって、煮込み料理の香りが漂っていた。決して上品な香りではないが、深いコクを思わせる、どこか懐かしいようなそんな香りだった。
エリオスは奥の席を選び、腰を下ろした。オクターブが向かいに座る。
給仕が牛肉の煮込みとパン、それに安い葡萄酒を運んできた。エリオスはスプーンを手に取りながら、何気なく店内を見渡した。
その視線を流した先、隣のテーブルに一人の青年が座っているのが目に入る。濃いグレーの長髪を、後ろで一つに纏め、深い青の瞳をしている男。年のころは、エリオスたちと大して変わらないように見受けられる。身なりは自分たちと同じく平民風だが、背筋の伸ばし方や手の動きなど、所作の細部に育ちの良さが滲み出ていた。隠そうとしても隠しきれないものが、人にはある。
青年もこちらに気づいたのだろう。エリオスと目が合った。
瞬間、青年の目に何かが過ぎった。驚き、いや、認識。だがそれはすぐに消え、取って付けたような笑顔を見せると、青年は軽く会釈をする。
エリオスは頷きで、それに応えた。
視線を手元に戻し、料理を口に運ぶ。宿の主人が言った通り、悪くはない味だった。だが、エリオスの意識は食事よりも、隣のテーブルに向いたままだ。
「オクターブ」
前の席で、同じく静かに食事を取るオクターブに、エリオスは小声で呼びかける。
「隣の男のこと、見覚えがあるか?」
オクターブも気づいていたのだろう。さりげなく青年の方を見てから、首を傾げた。
「見たことがあるような、ないような……申し訳ありません、記憶が曖昧でございます」
「モーリーみたいなことを言う」
苦虫を噛み潰したような顔をするエリオスに、オクターブも苦笑いを浮かべた。
男性らしい顔つきでありながら、どこか中性的で、目を惹きつける姿。既視感があるのに、繋がらない。記憶の底で、何かが手を伸ばしているのに、届かない。
もやもやとした感覚が、エリオスの胸を占めた。
どこで会った?
記憶力は悪い方ではないはずだ。なのに、男の正体がわからないでいる。
隣の青年を、このまま放っておくこともできた。寧ろ、普段ならそうしていただろう。食事を終え、部屋に戻り、明日の準備をする。それが賢明な選択だ。ここで、目立つ方が得策ではない。そう、頭ではわかっているのに、どうしても気になる。何がそんなに引っかかるのか、自分でもわからない。わからないからこそ、気になるのかもしれない。
エリオスは出された葡萄酒の入った杯を片手に立ち上がった。オクターブが目で問いかけてくるが、手で制して青年のテーブルへ歩み寄る。
「急にすまない。もし迷惑でなければ、同席しても構わないだろうか」
青年はエリオスの声に、顔を上げた。一瞬、その深い青の瞳が見開かれた。が。青年はすぐに立ち上がり、軽く会釈をした。
「もちろんです。どうぞ」
対面の開いている椅子にエリオスが座ると、オクターブも続いた。三人がテーブルを囲む形になる。
青年は落ち着いた様子で、エリオスとオクターブを見た。その視線は穏やかだが、どこか見透かすような鋭さがあった。見慣れた視線だ。商人がよく使う、相手の腹の底を探る目。
「このような場所で、お目にかかるとは思いませんでした」
青年が囁くようにそう言った。声には含みがあり、間違いなくエリオスの正体に気づいている。だが、それを口にするつもりはないようだ。瞬時に、エリオスがお忍びだと察したのだろう。
「ちょっと所用でな。ところで、貴殿は? 商人か?」
「はい。商談の帰りです。隣国との取引がありまして」
青年は淡々と答えた。嘘ではないだろう。だが、それだけでもない気がする。
「名を聞いても?」
エリオスが問うと、青年は背中へ流れていた長い髪を払いのけ、薄く微笑んだ。
「大変失礼いたしました」
青年は姿勢を正し、深く頭を下げた。
「シリル・エルグレンと申します」
エルグレン。
その名を聞いた瞬間、エリオスの中で一気に霧が晴れるように、全てが繋がった。
パチリと大きな音を立て、ロジックが完成するような心地よさ。
だからか。だから気になって仕方なかったのだ。
目の前の青年は、セレイナの兄だ。
エリオスは出立の準備を整えながら、そう自分に言い聞かせていた。
一刻も早くナルヴァへ赴き、証言を得る。そして、確かな証拠を持ち帰り、セレイナの安全を確保する。そのためには、時間を無駄にするわけにいかない。
ガレーニャが伯爵邸へ戻る前に、エリオスは彼女に二通の手紙を託した。
一通は伯爵宛て。数日から長ければ数週間、王都を離れること。その間、念には念を入れた警護を頼みたいという内容だ。
もう一通はセレイナ宛て。内容は簡素なものだったが、セレイナへの気遣いに溢れたものになっていた。
「確かにお届けいたします」
ガレーニャは手紙を受け取り、深く頭を下げた。
「頼む」
エリオスがそう声掛けをしたそのあと、横に居たオクターブとガレーニャは、握手を交わしあう。
そして再びガレーニャは、エリオスへ一礼をし、馬車へ乗り込んだ。
伯爵邸へ向かうガレーニャを乗せた馬車を見届けた後、エリオスは踵を返した。
「我々も出立する。一秒たりとも無駄にできん」
「御意」
ここからが本当の正念場。
今までのように、雲を掴むようなことではない。誰を捕まえ、何を聞くのか。全て明確だ。
そして、今後は一度のミスも許されない。もし過ちを犯せば、それは大きな問題に発展するだろう危険を孕んでいるのだ。
エリオスとオクターブは、気を引き締めつつ、次の目的へと歩を進めた。
☆
王都からグレイストン公爵領までは、馬車で一日ほどの行程だった。
ガレーニャを見送った後、すぐにヴァルターと合流した一行は、そのまま出立した。
ヴァルターは道中、ほとんど口を開かなかった。馬車の窓の外を眺めているようで、実際には何も見ていない。そういう目をしていた。時折、深いため息が漏れる。何かを考えているのか、何も考えられないのか、判断がつかない。
エリオスもあえて話しかけなかった。今のヴァルターに必要なのは、言葉ではなく時間だろう。
冷静になり、物事を俯瞰視できるようになるまで、どれくらいの時間が必要なのかはわからない。だがそれが、彼の心を癒す時間にもなり得るだろう。
日が傾き宵が始まる頃。馬車は公爵領に入った。
領都の街並みが見え始め、やがて領の中央部にある公爵邸の門が姿を現す。
公爵邸では、前公爵夫妻が出迎えた。形式的な歓待を受け、晩餐を共にする。そういった社交も仕事のうち。そうは思うが、エリオスの心は既に先へ向いていた。
「ヴァルター公。明日の早朝、俺達はこのまま国境近くへ向かう。貴公はここに残ってくれ」
「承知いたしました」
「王都とこちらの仲介を頼む。何かあれば、すぐに知らせてほしい」
ヴァルターは深く頭を下げた。
「お任せください。殿下も、どうかお気をつけて」
☆
公爵邸を発ち、より国境に近い街へ向かう。
途中、エリオスとオクターブは馬車を降り、平民が着るような染めの粗い薄い麻の旅装に着替えた。真夏の日差しを避けるため、フードを目深に被る。
「殿下、その格好ですと、まるで行商人ですね」
「それでいい。目立っては困る」
この国境付近に直接来ることは滅多にない。エリオスの顔を知る者はほとんどいないはずだが、用心するに越したことはない。身なりから高位貴族だと悟られれば、視線を集める。余計な注目ほど厄介なものはないのだ。
出立前に放っておいた密偵たちには、リージェリアの侍女と官女、四人の動向を洗い出すよう指示を出してある。報告はまだ届いていない。
その日の夕刻に、目的の街に着いた。国境に近いこの街は、鉱山で働く人々が多く暮らしている。日に焼けた肌と、土埃にまみれた作業着。昼の仕事を終えた鉱夫たちが、三々五々と酒場へ向かっていく。
彼らにとって、一日の終わりに飲む酒は大切なものであり、働く活力のひとつとなっているのだろう。
エリオスとオクターブは一軒の宿屋に入った。
「部屋を二つ頼む」
宿の主人は二人をちらりと見たが、金貨を受け取ると何も聞かずに鍵を差し出した。こういう場所では、客の素性を詮索しないのが暗黙の了解だ。詮索したところで、いいことなど何もないのだから。
「部屋は二階に上がって、左に進んだ奥部屋二つ。食事はここの奥の酒場で出せる。今夜の牛肉の煮込みは悪くないよ」
「わかった」
言われた部屋へ荷物を置き、エリオスとオクターブは階下の酒場へ降りた。
薄暗い店内には、鉱夫や商人たちがまばらに座っている。汗と土埃の匂いに混じって、煮込み料理の香りが漂っていた。決して上品な香りではないが、深いコクを思わせる、どこか懐かしいようなそんな香りだった。
エリオスは奥の席を選び、腰を下ろした。オクターブが向かいに座る。
給仕が牛肉の煮込みとパン、それに安い葡萄酒を運んできた。エリオスはスプーンを手に取りながら、何気なく店内を見渡した。
その視線を流した先、隣のテーブルに一人の青年が座っているのが目に入る。濃いグレーの長髪を、後ろで一つに纏め、深い青の瞳をしている男。年のころは、エリオスたちと大して変わらないように見受けられる。身なりは自分たちと同じく平民風だが、背筋の伸ばし方や手の動きなど、所作の細部に育ちの良さが滲み出ていた。隠そうとしても隠しきれないものが、人にはある。
青年もこちらに気づいたのだろう。エリオスと目が合った。
瞬間、青年の目に何かが過ぎった。驚き、いや、認識。だがそれはすぐに消え、取って付けたような笑顔を見せると、青年は軽く会釈をする。
エリオスは頷きで、それに応えた。
視線を手元に戻し、料理を口に運ぶ。宿の主人が言った通り、悪くはない味だった。だが、エリオスの意識は食事よりも、隣のテーブルに向いたままだ。
「オクターブ」
前の席で、同じく静かに食事を取るオクターブに、エリオスは小声で呼びかける。
「隣の男のこと、見覚えがあるか?」
オクターブも気づいていたのだろう。さりげなく青年の方を見てから、首を傾げた。
「見たことがあるような、ないような……申し訳ありません、記憶が曖昧でございます」
「モーリーみたいなことを言う」
苦虫を噛み潰したような顔をするエリオスに、オクターブも苦笑いを浮かべた。
男性らしい顔つきでありながら、どこか中性的で、目を惹きつける姿。既視感があるのに、繋がらない。記憶の底で、何かが手を伸ばしているのに、届かない。
もやもやとした感覚が、エリオスの胸を占めた。
どこで会った?
記憶力は悪い方ではないはずだ。なのに、男の正体がわからないでいる。
隣の青年を、このまま放っておくこともできた。寧ろ、普段ならそうしていただろう。食事を終え、部屋に戻り、明日の準備をする。それが賢明な選択だ。ここで、目立つ方が得策ではない。そう、頭ではわかっているのに、どうしても気になる。何がそんなに引っかかるのか、自分でもわからない。わからないからこそ、気になるのかもしれない。
エリオスは出された葡萄酒の入った杯を片手に立ち上がった。オクターブが目で問いかけてくるが、手で制して青年のテーブルへ歩み寄る。
「急にすまない。もし迷惑でなければ、同席しても構わないだろうか」
青年はエリオスの声に、顔を上げた。一瞬、その深い青の瞳が見開かれた。が。青年はすぐに立ち上がり、軽く会釈をした。
「もちろんです。どうぞ」
対面の開いている椅子にエリオスが座ると、オクターブも続いた。三人がテーブルを囲む形になる。
青年は落ち着いた様子で、エリオスとオクターブを見た。その視線は穏やかだが、どこか見透かすような鋭さがあった。見慣れた視線だ。商人がよく使う、相手の腹の底を探る目。
「このような場所で、お目にかかるとは思いませんでした」
青年が囁くようにそう言った。声には含みがあり、間違いなくエリオスの正体に気づいている。だが、それを口にするつもりはないようだ。瞬時に、エリオスがお忍びだと察したのだろう。
「ちょっと所用でな。ところで、貴殿は? 商人か?」
「はい。商談の帰りです。隣国との取引がありまして」
青年は淡々と答えた。嘘ではないだろう。だが、それだけでもない気がする。
「名を聞いても?」
エリオスが問うと、青年は背中へ流れていた長い髪を払いのけ、薄く微笑んだ。
「大変失礼いたしました」
青年は姿勢を正し、深く頭を下げた。
「シリル・エルグレンと申します」
エルグレン。
その名を聞いた瞬間、エリオスの中で一気に霧が晴れるように、全てが繋がった。
パチリと大きな音を立て、ロジックが完成するような心地よさ。
だからか。だから気になって仕方なかったのだ。
目の前の青年は、セレイナの兄だ。
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