偽りの愛 ー 真実かどうかなんて、なぜわかるのでしょうか

苺 迷音

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88 国境の宿 ーChapter エリオス

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 一日たりとも無駄には出来ない。

 エリオスは出立の準備を整えながら、そう自分に言い聞かせていた。
 一刻も早くナルヴァへ赴き、証言を得る。そして、確かな証拠を持ち帰り、セレイナの安全を確保する。そのためには、時間を無駄にするわけにいかない。

 ガレーニャが伯爵邸へ戻る前に、エリオスは彼女に二通の手紙を託した。
 一通は伯爵宛て。数日から長ければ数週間、王都を離れること。その間、念には念を入れた警護を頼みたいという内容だ。
 もう一通はセレイナ宛て。内容は簡素なものだったが、セレイナへの気遣いに溢れたものになっていた。

「確かにお届けいたします」

 ガレーニャは手紙を受け取り、深く頭を下げた。

「頼む」

 エリオスがそう声掛けをしたそのあと、横に居たオクターブとガレーニャは、握手を交わしあう。
 そして再びガレーニャは、エリオスへ一礼をし、馬車へ乗り込んだ。

 伯爵邸へ向かうガレーニャを乗せた馬車を見届けた後、エリオスは踵を返した。

「我々も出立する。一秒たりとも無駄にできん」

「御意」

 ここからが本当の正念場。

 今までのように、雲を掴むようなことではない。誰を捕まえ、何を聞くのか。全て明確だ。
 そして、今後は一度のミスも許されない。もし過ちを犯せば、それは大きな問題に発展するだろう危険を孕んでいるのだ。

 エリオスとオクターブは、気を引き締めつつ、次の目的へと歩を進めた。





 王都からグレイストン公爵領までは、馬車で一日ほどの行程だった。
 
 ガレーニャを見送った後、すぐにヴァルターと合流した一行は、そのまま出立した。

 ヴァルターは道中、ほとんど口を開かなかった。馬車の窓の外を眺めているようで、実際には何も見ていない。そういう目をしていた。時折、深いため息が漏れる。何かを考えているのか、何も考えられないのか、判断がつかない。

 エリオスもあえて話しかけなかった。今のヴァルターに必要なのは、言葉ではなく時間だろう。
 冷静になり、物事を俯瞰視できるようになるまで、どれくらいの時間が必要なのかはわからない。だがそれが、彼の心を癒す時間にもなり得るだろう。

 日が傾き宵が始まる頃。馬車は公爵領に入った。
 領都の街並みが見え始め、やがて領の中央部にある公爵邸の門が姿を現す。

 公爵邸では、前公爵夫妻が出迎えた。形式的な歓待を受け、晩餐を共にする。そういった社交も仕事のうち。そうは思うが、エリオスの心は既に先へ向いていた。

「ヴァルター公。明日の早朝、俺達はこのまま国境近くへ向かう。貴公はここに残ってくれ」

「承知いたしました」

「王都とこちらの仲介を頼む。何かあれば、すぐに知らせてほしい」

 ヴァルターは深く頭を下げた。

「お任せください。殿下も、どうかお気をつけて」



 公爵邸を発ち、より国境に近い街へ向かう。

 途中、エリオスとオクターブは馬車を降り、平民が着るような染めの粗い薄い麻の旅装に着替えた。真夏の日差しを避けるため、フードを目深に被る。

「殿下、その格好ですと、まるで行商人ですね」

「それでいい。目立っては困る」

 この国境付近に直接来ることは滅多にない。エリオスの顔を知る者はほとんどいないはずだが、用心するに越したことはない。身なりから高位貴族だと悟られれば、視線を集める。余計な注目ほど厄介なものはないのだ。

 出立前に放っておいた密偵たちには、リージェリアの侍女と官女、四人の動向を洗い出すよう指示を出してある。報告はまだ届いていない。

 その日の夕刻に、目的の街に着いた。国境に近いこの街は、鉱山で働く人々が多く暮らしている。日に焼けた肌と、土埃にまみれた作業着。昼の仕事を終えた鉱夫たちが、三々五々と酒場へ向かっていく。
 彼らにとって、一日の終わりに飲む酒は大切なものであり、働く活力のひとつとなっているのだろう。

 エリオスとオクターブは一軒の宿屋に入った。

「部屋を二つ頼む」

 宿の主人は二人をちらりと見たが、金貨を受け取ると何も聞かずに鍵を差し出した。こういう場所では、客の素性を詮索しないのが暗黙の了解だ。詮索したところで、いいことなど何もないのだから。

「部屋は二階に上がって、左に進んだ奥部屋二つ。食事はここの奥の酒場で出せる。今夜の牛肉の煮込みは悪くないよ」

「わかった」

 言われた部屋へ荷物を置き、エリオスとオクターブは階下の酒場へ降りた。

 薄暗い店内には、鉱夫や商人たちがまばらに座っている。汗と土埃の匂いに混じって、煮込み料理の香りが漂っていた。決して上品な香りではないが、深いコクを思わせる、どこか懐かしいようなそんな香りだった。
 エリオスは奥の席を選び、腰を下ろした。オクターブが向かいに座る。

 給仕が牛肉の煮込みとパン、それに安い葡萄酒を運んできた。エリオスはスプーンを手に取りながら、何気なく店内を見渡した。

 その視線を流した先、隣のテーブルに一人の青年が座っているのが目に入る。濃いグレーの長髪を、後ろで一つに纏め、深い青の瞳をしている男。年のころは、エリオスたちと大して変わらないように見受けられる。身なりは自分たちと同じく平民風だが、背筋の伸ばし方や手の動きなど、所作の細部に育ちの良さが滲み出ていた。隠そうとしても隠しきれないものが、人にはある。

 青年もこちらに気づいたのだろう。エリオスと目が合った。

 瞬間、青年の目に何かが過ぎった。驚き、いや、認識。だがそれはすぐに消え、取って付けたような笑顔を見せると、青年は軽く会釈をする。

 エリオスは頷きで、それに応えた。

 視線を手元に戻し、料理を口に運ぶ。宿の主人が言った通り、悪くはない味だった。だが、エリオスの意識は食事よりも、隣のテーブルに向いたままだ。

「オクターブ」

 前の席で、同じく静かに食事を取るオクターブに、エリオスは小声で呼びかける。

「隣の男のこと、見覚えがあるか?」

 オクターブも気づいていたのだろう。さりげなく青年の方を見てから、首を傾げた。

「見たことがあるような、ないような……申し訳ありません、記憶が曖昧でございます」

「モーリーみたいなことを言う」

 苦虫を噛み潰したような顔をするエリオスに、オクターブも苦笑いを浮かべた。

 男性らしい顔つきでありながら、どこか中性的で、目を惹きつける姿。既視感があるのに、繋がらない。記憶の底で、何かが手を伸ばしているのに、届かない。

 もやもやとした感覚が、エリオスの胸を占めた。

 どこで会った?

 記憶力は悪い方ではないはずだ。なのに、男の正体がわからないでいる。

 隣の青年を、このまま放っておくこともできた。寧ろ、普段ならそうしていただろう。食事を終え、部屋に戻り、明日の準備をする。それが賢明な選択だ。ここで、目立つ方が得策ではない。そう、頭ではわかっているのに、どうしても気になる。何がそんなに引っかかるのか、自分でもわからない。わからないからこそ、気になるのかもしれない。

 エリオスは出された葡萄酒の入った杯を片手に立ち上がった。オクターブが目で問いかけてくるが、手で制して青年のテーブルへ歩み寄る。

「急にすまない。もし迷惑でなければ、同席しても構わないだろうか」

 青年はエリオスの声に、顔を上げた。一瞬、その深い青の瞳が見開かれた。が。青年はすぐに立ち上がり、軽く会釈をした。

「もちろんです。どうぞ」

 対面の開いている椅子にエリオスが座ると、オクターブも続いた。三人がテーブルを囲む形になる。

 青年は落ち着いた様子で、エリオスとオクターブを見た。その視線は穏やかだが、どこか見透かすような鋭さがあった。見慣れた視線だ。商人がよく使う、相手の腹の底を探る目。

「このような場所で、お目にかかるとは思いませんでした」

 青年が囁くようにそう言った。声には含みがあり、間違いなくエリオスの正体に気づいている。だが、それを口にするつもりはないようだ。瞬時に、エリオスがお忍びだと察したのだろう。

「ちょっと所用でな。ところで、貴殿は? 商人か?」

「はい。商談の帰りです。隣国との取引がありまして」

 青年は淡々と答えた。嘘ではないだろう。だが、それだけでもない気がする。

「名を聞いても?」

 エリオスが問うと、青年は背中へ流れていた長い髪を払いのけ、薄く微笑んだ。

「大変失礼いたしました」

 青年は姿勢を正し、深く頭を下げた。

「シリル・エルグレンと申します」

 エルグレン。

 その名を聞いた瞬間、エリオスの中で一気に霧が晴れるように、全てが繋がった。
 パチリと大きな音を立て、ロジックが完成するような心地よさ。

 だからか。だから気になって仕方なかったのだ。

 目の前の青年は、セレイナの兄だ。
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