【本編完結】星を継ぐ踊り子とスチールグレイの修復士~日誌に綴られた謎と、仄かな恋の旅

苺迷音

文字の大きさ
1 / 30

1

しおりを挟む
 冬の雨は、石畳を均一に叩くのが好きらしい。
 
 朝から続く細かな雨粒が、路地裏の水たまりに丸い波紋を幾重にも描いていた。

 レンの工房は、表通りから一本外れた細い路地のつきあたりにある。ところどころ欠け落ちた煉瓦の壁と、分厚い木の扉。
 扉の上には歯車と開いた本を模した小さな看板がぶら下がり『古書・精密機器修復士・レン』と手書きの文字が雨に滲んでいた。

 扉の内側は、いつも通り薄暗い。天井から吊るされたガス灯が、細長い炎を揺らしている。壁際には高低さまざまな棚が並び、その上には分解途中の懐中時計、歯車の欠けたオルゴール、表紙の取れた古書、レンズの割れた双眼鏡などが所狭しと積み上がっていた。

 奥の作業台に座る青年が一人。
 
 レンはルーペ越しに、指先ほどの小さなゼンマイを睨んでいた。

「……あと、半回転」

 呟きとともに、極細のピンセットが動く。
 弾かれたように、ゼンマイがぴたりとはまり込んだ。レンはルーペを額の上にずらし、小さく息を吐く。

 机の上には、分解された懐中時計の部品がきれいに並べられている。彼は一つ一つを確認しながら、元の位置に戻していった。最後のネジを締め終えると、そっと蓋を閉じる。耳を寄せれば、細かく規則正しい音が聞こえた。

 カチ、カチ、カチ

「よし」

 レンの口元に、ほんの僅かな満足げな笑みが浮かんだ。彼は額に掛けていた作業用のルーペを外し、邪魔な前髪をかき上げる。

 現れたのは、工房の薄暗がりによく馴染む、色素の薄い青年だった。  

 薄いアッシュグレイ色の髪は、長くもなく短くもない、耳を隠すほどの長さで柔らかく波打っている。煙のようにふわりとした癖っ毛が顔にかかっているが、その隙間から覗く瞳は、磨き上げた鋼鉄のようなスチールグレイをしていた。  
 白いシャツの袖を肘まで捲り上げた腕は、程よい筋肉はついているが男性にしては細い。だが、その長く節くれだった指先こそが、死んだ機械に命を吹き込む奇跡のような手を持つ者であることを、この街の住人は知っていた。

 壊れていたものが、元の形と役割を取り戻す。その瞬間だけは、レンの胸の奥に静かな熱が灯る。が、その小さな達成感も、扉を叩く音に遮られた。

 軽いが遠慮のないノック音。
 
 レンは時計を布で包み、棚の決まった位置に置いてから、立ち上がって扉へ向かった。

「開いてるよ」

 声をかけると、外の雨音と一緒に冷たい空気が流れ込んでくる。
 同時に、鮮やかな色が路地裏の灰色を押しのけるように工房の中へ踏み込んできた。

 地味な紺色のフード付きの外套に、雨を弾く黒のスカーフ。旅の埃を帯びた質素な身なりでありながら、動くたびに布の陰からほのかな金色が覗く。
 
 フードを下ろした瞬間、光を受けた髪と瞳の色に、レンは思わず瞬きをした。金色の髪が、ガス灯の光を受けて柔らかく光る。濡れた前髪が頬に張りつき、その下の瞳は吸い込まれるような碧色をしていた。

「初めまして。あの……ここは……本や、壊れたものを直してくださるお店、ですよね?」

 彼女は雨を気にする素振りもなく、にこりと笑った。
 
 その笑みは、舞台役者が良く貼り付ける感情の無いもののようでありながら、裏に疲れを隠したように見えた。

「ああ、合ってるよ。古書と機械の修復を請け負っている、レンだ。修理なら、見せてくれ」

 レンが簡潔に答えると、彼女は安心したように小さく息を吐いた。

「よかった。噂はあてになりそうね。私はアリアっていうの。よろしくね。それで……今日は、これを見ていただきたくて」

 アリアと名乗った女性は、胸元に抱いていた包みをそっと机の上に置いた。

 厚手の布を解くと、中から古びた革表紙の本が姿を現す。

 深い紺色だったはずの表紙は、今はところどころ色が剥げ、角は擦り切れて丸くなっている。留め具は壊れ、革紐で仮止めされていた。

「日誌、か?」

 レンが問うと、アリアは一瞬だけ視線を泳がせ、それから小さく頷いた。

「ええ。……父の日誌らしいんだけど。十年ほど一緒に旅していたら、とうとうこんな有様になっちゃって」

 革表紙の縁に指先を滑らせながら、アリアの声は少しだけ柔らかくなった。

「中を見ても?」

「もちろん。むしろ、見ていただかないと始まらないわ」

 レンは椅子を引き、アリアにも向かいの席を勧めた。彼女が腰を下ろすのを待ち、慎重に革紐をほどく。

 表紙を留める金具に指をかける。経年劣化の為か、最初のひと押しだけ妙に引っかかりがある。力加減を探りながら押し上げると、金具が軋み音を立てて動き、本が開いた。

 最初の数ページは、湿気で波打ちながらも、文字ははっきり読めた。整った筆致で、日付と簡単な出来事、観測した星の位置が記されている。何ページかには、何かの計算式もあった。が、何を導き出すためのものなのかがわからない。紙質は悪くない。だが、ところどころに茶色い斑点。インクが滲んでいる箇所もある。

「確かに……十数年は経っているな。保存状態は、あまり良くない」

「元々、状態はよくなかったの。私の手に来た時には既にくたびれていたわ。そのあとこんな状態になっちゃって……。いつか修復をと思っていたんだけれども、この街に来て、あなたの噂を聞いたのよ」

 アリアは遠くを見るように天井を仰ぎ、すぐに視線を日誌へ戻す。

 レンはページを捲っていった。文字の並びに規則性があるようにも見えたが、今は深く考えない。まずは傷み具合の確認だ。

 百ページを過ぎたあたりから、紙の端に細かな欠けが増えてきた。インクの色も、別のものに変わっている。
 
 そして、百二十ページ目で、文字は途切れていた。

 そこには、ほかのページとは明らかに違う筆圧で書かれた短い一文と、大きな染みがひとつ。

『どうか生きてくれ』

 その下に、赤黒い染みが斜めに広がっている。
 
 レンは染みの縁にルーペを当て、慎重に覗き込んだ。

「……インクじゃない。葡萄酒、か?」

「わからない。もしかしたら、父が飲んでいたのかもしれないわね」

「この先は……」

 レンが尋ねると、アリアは一瞬ためらってから、小さく首を振った。

「そこから先は、文字はないの。……いえ、正確には文字は無い、かしら」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

子育てが落ち着いた20年目の結婚記念日……「離縁よ!離縁!」私は屋敷を飛び出しました。

さくしゃ
恋愛
アーリントン王国の片隅にあるバーンズ男爵領では、6人の子育てが落ち着いた領主夫人のエミリアと領主のヴァーンズは20回目の結婚記念日を迎えていた。 忙しい子育てと政務にすれ違いの生活を送っていた二人は、久しぶりに二人だけで食事をすることに。 「はぁ……盛り上がりすぎて7人目なんて言われたらどうしよう……いいえ!いっそのことあと5人くらい!」 気合いを入れるエミリアは侍女の案内でヴァーンズが待つ食堂へ。しかし、 「信じられない!離縁よ!離縁!」 深夜2時、エミリアは怒りを露わに屋敷を飛び出していった。自室に「実家へ帰らせていただきます!」という書き置きを残して。 結婚20年目にして離婚の危機……果たしてその結末は!?

妻を蔑ろにしていた結果。

下菊みこと
恋愛
愚かな夫が自業自得で後悔するだけ。妻は結果に満足しています。 主人公は愛人を囲っていた。愛人曰く妻は彼女に嫌がらせをしているらしい。そんな性悪な妻が、屋敷の最上階から身投げしようとしていると報告されて急いで妻のもとへ行く。 小説家になろう様でも投稿しています。

侯爵夫人のハズですが、完全に無視されています

猫枕
恋愛
伯爵令嬢のシンディーは学園を卒業と同時にキャッシュ侯爵家に嫁がされた。 しかし婚姻から4年、旦那様に会ったのは一度きり、大きなお屋敷の端っこにある離れに住むように言われ、勝手な外出も禁じられている。 本宅にはシンディーの偽物が奥様と呼ばれて暮らしているらしい。 盛大な結婚式が行われたというがシンディーは出席していないし、今年3才になる息子がいるというが、もちろん産んだ覚えもない。

『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』

夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」 教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。 ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。 王命による“形式結婚”。 夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。 だから、はい、離婚。勝手に。 白い結婚だったので、勝手に離婚しました。 何か問題あります?

側妃の愛

まるねこ
恋愛
ここは女神を信仰する国。極まれに女神が祝福を与え、癒しの力が使える者が現れるからだ。 王太子妃となる予定の令嬢は力が弱いが癒しの力が使えた。突然強い癒しの力を持つ女性が異世界より現れた。 力が強い女性は聖女と呼ばれ、王太子妃になり、彼女を支えるために令嬢は側妃となった。 Copyright©︎2025-まるねこ

完結 愛人と名乗る女がいる

音爽(ネソウ)
恋愛
ある日、夫の恋人を名乗る女がやってきて……

完結 そんなにその方が大切ならば身を引きます、さようなら。

音爽(ネソウ)
恋愛
相思相愛で結ばれたクリステルとジョルジュ。 だが、新婚初夜は泥酔してお預けに、その後も余所余所しい態度で一向に寝室に現れない。不審に思った彼女は眠れない日々を送る。 そして、ある晩に玄関ドアが開く音に気が付いた。使われていない離れに彼は通っていたのだ。 そこには匿われていた美少年が棲んでいて……

処理中です...