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冬の雨は、石畳を均一に叩くのが好きらしい。
朝から続く細かな雨粒が、路地裏の水たまりに丸い波紋を幾重にも描いていた。
レンの工房は、表通りから一本外れた細い路地のつきあたりにある。ところどころ欠け落ちた煉瓦の壁と、分厚い木の扉。
扉の上には歯車と開いた本を模した小さな看板がぶら下がり『古書・精密機器修復士・レン』と手書きの文字が雨に滲んでいた。
扉の内側は、いつも通り薄暗い。天井から吊るされたガス灯が、細長い炎を揺らしている。壁際には高低さまざまな棚が並び、その上には分解途中の懐中時計、歯車の欠けたオルゴール、表紙の取れた古書、レンズの割れた双眼鏡などが所狭しと積み上がっていた。
奥の作業台に座る青年が一人。
レンはルーペ越しに、指先ほどの小さなゼンマイを睨んでいた。
「……あと、半回転」
呟きとともに、極細のピンセットが動く。
弾かれたように、ゼンマイがぴたりとはまり込んだ。レンはルーペを額の上にずらし、小さく息を吐く。
机の上には、分解された懐中時計の部品がきれいに並べられている。彼は一つ一つを確認しながら、元の位置に戻していった。最後のネジを締め終えると、そっと蓋を閉じる。耳を寄せれば、細かく規則正しい音が聞こえた。
カチ、カチ、カチ
「よし」
レンの口元に、ほんの僅かな満足げな笑みが浮かんだ。彼は額に掛けていた作業用のルーペを外し、邪魔な前髪をかき上げる。
現れたのは、工房の薄暗がりによく馴染む、色素の薄い青年だった。
薄いアッシュグレイ色の髪は、長くもなく短くもない、耳を隠すほどの長さで柔らかく波打っている。煙のようにふわりとした癖っ毛が顔にかかっているが、その隙間から覗く瞳は、磨き上げた鋼鉄のようなスチールグレイをしていた。
白いシャツの袖を肘まで捲り上げた腕は、程よい筋肉はついているが男性にしては細い。だが、その長く節くれだった指先こそが、死んだ機械に命を吹き込む奇跡のような手を持つ者であることを、この街の住人は知っていた。
壊れていたものが、元の形と役割を取り戻す。その瞬間だけは、レンの胸の奥に静かな熱が灯る。が、その小さな達成感も、扉を叩く音に遮られた。
軽いが遠慮のないノック音。
レンは時計を布で包み、棚の決まった位置に置いてから、立ち上がって扉へ向かった。
「開いてるよ」
声をかけると、外の雨音と一緒に冷たい空気が流れ込んでくる。
同時に、鮮やかな色が路地裏の灰色を押しのけるように工房の中へ踏み込んできた。
地味な紺色のフード付きの外套に、雨を弾く黒のスカーフ。旅の埃を帯びた質素な身なりでありながら、動くたびに布の陰からほのかな金色が覗く。
フードを下ろした瞬間、光を受けた髪と瞳の色に、レンは思わず瞬きをした。金色の髪が、ガス灯の光を受けて柔らかく光る。濡れた前髪が頬に張りつき、その下の瞳は吸い込まれるような碧色をしていた。
「初めまして。あの……ここは……本や、壊れたものを直してくださるお店、ですよね?」
彼女は雨を気にする素振りもなく、にこりと笑った。
その笑みは、舞台役者が良く貼り付ける感情の無いもののようでありながら、裏に疲れを隠したように見えた。
「ああ、合ってるよ。古書と機械の修復を請け負っている、レンだ。修理なら、見せてくれ」
レンが簡潔に答えると、彼女は安心したように小さく息を吐いた。
「よかった。噂はあてになりそうね。私はアリアっていうの。よろしくね。それで……今日は、これを見ていただきたくて」
アリアと名乗った女性は、胸元に抱いていた包みをそっと机の上に置いた。
厚手の布を解くと、中から古びた革表紙の本が姿を現す。
深い紺色だったはずの表紙は、今はところどころ色が剥げ、角は擦り切れて丸くなっている。留め具は壊れ、革紐で仮止めされていた。
「日誌、か?」
レンが問うと、アリアは一瞬だけ視線を泳がせ、それから小さく頷いた。
「ええ。……父の日誌らしいんだけど。十年ほど一緒に旅していたら、とうとうこんな有様になっちゃって」
革表紙の縁に指先を滑らせながら、アリアの声は少しだけ柔らかくなった。
「中を見ても?」
「もちろん。むしろ、見ていただかないと始まらないわ」
レンは椅子を引き、アリアにも向かいの席を勧めた。彼女が腰を下ろすのを待ち、慎重に革紐をほどく。
表紙を留める金具に指をかける。経年劣化の為か、最初のひと押しだけ妙に引っかかりがある。力加減を探りながら押し上げると、金具が軋み音を立てて動き、本が開いた。
最初の数ページは、湿気で波打ちながらも、文字ははっきり読めた。整った筆致で、日付と簡単な出来事、観測した星の位置が記されている。何ページかには、何かの計算式もあった。が、何を導き出すためのものなのかがわからない。紙質は悪くない。だが、ところどころに茶色い斑点。インクが滲んでいる箇所もある。
「確かに……十数年は経っているな。保存状態は、あまり良くない」
「元々、状態はよくなかったの。私の手に来た時には既にくたびれていたわ。そのあとこんな状態になっちゃって……。いつか修復をと思っていたんだけれども、この街に来て、あなたの噂を聞いたのよ」
アリアは遠くを見るように天井を仰ぎ、すぐに視線を日誌へ戻す。
レンはページを捲っていった。文字の並びに規則性があるようにも見えたが、今は深く考えない。まずは傷み具合の確認だ。
百ページを過ぎたあたりから、紙の端に細かな欠けが増えてきた。インクの色も、別のものに変わっている。
そして、百二十ページ目で、文字は途切れていた。
そこには、ほかのページとは明らかに違う筆圧で書かれた短い一文と、大きな染みがひとつ。
『どうか生きてくれ』
その下に、赤黒い染みが斜めに広がっている。
レンは染みの縁にルーペを当て、慎重に覗き込んだ。
「……インクじゃない。葡萄酒、か?」
「わからない。もしかしたら、父が飲んでいたのかもしれないわね」
「この先は……」
レンが尋ねると、アリアは一瞬ためらってから、小さく首を振った。
「そこから先は、文字はないの。……いえ、正確には文字は無い、かしら」
朝から続く細かな雨粒が、路地裏の水たまりに丸い波紋を幾重にも描いていた。
レンの工房は、表通りから一本外れた細い路地のつきあたりにある。ところどころ欠け落ちた煉瓦の壁と、分厚い木の扉。
扉の上には歯車と開いた本を模した小さな看板がぶら下がり『古書・精密機器修復士・レン』と手書きの文字が雨に滲んでいた。
扉の内側は、いつも通り薄暗い。天井から吊るされたガス灯が、細長い炎を揺らしている。壁際には高低さまざまな棚が並び、その上には分解途中の懐中時計、歯車の欠けたオルゴール、表紙の取れた古書、レンズの割れた双眼鏡などが所狭しと積み上がっていた。
奥の作業台に座る青年が一人。
レンはルーペ越しに、指先ほどの小さなゼンマイを睨んでいた。
「……あと、半回転」
呟きとともに、極細のピンセットが動く。
弾かれたように、ゼンマイがぴたりとはまり込んだ。レンはルーペを額の上にずらし、小さく息を吐く。
机の上には、分解された懐中時計の部品がきれいに並べられている。彼は一つ一つを確認しながら、元の位置に戻していった。最後のネジを締め終えると、そっと蓋を閉じる。耳を寄せれば、細かく規則正しい音が聞こえた。
カチ、カチ、カチ
「よし」
レンの口元に、ほんの僅かな満足げな笑みが浮かんだ。彼は額に掛けていた作業用のルーペを外し、邪魔な前髪をかき上げる。
現れたのは、工房の薄暗がりによく馴染む、色素の薄い青年だった。
薄いアッシュグレイ色の髪は、長くもなく短くもない、耳を隠すほどの長さで柔らかく波打っている。煙のようにふわりとした癖っ毛が顔にかかっているが、その隙間から覗く瞳は、磨き上げた鋼鉄のようなスチールグレイをしていた。
白いシャツの袖を肘まで捲り上げた腕は、程よい筋肉はついているが男性にしては細い。だが、その長く節くれだった指先こそが、死んだ機械に命を吹き込む奇跡のような手を持つ者であることを、この街の住人は知っていた。
壊れていたものが、元の形と役割を取り戻す。その瞬間だけは、レンの胸の奥に静かな熱が灯る。が、その小さな達成感も、扉を叩く音に遮られた。
軽いが遠慮のないノック音。
レンは時計を布で包み、棚の決まった位置に置いてから、立ち上がって扉へ向かった。
「開いてるよ」
声をかけると、外の雨音と一緒に冷たい空気が流れ込んでくる。
同時に、鮮やかな色が路地裏の灰色を押しのけるように工房の中へ踏み込んできた。
地味な紺色のフード付きの外套に、雨を弾く黒のスカーフ。旅の埃を帯びた質素な身なりでありながら、動くたびに布の陰からほのかな金色が覗く。
フードを下ろした瞬間、光を受けた髪と瞳の色に、レンは思わず瞬きをした。金色の髪が、ガス灯の光を受けて柔らかく光る。濡れた前髪が頬に張りつき、その下の瞳は吸い込まれるような碧色をしていた。
「初めまして。あの……ここは……本や、壊れたものを直してくださるお店、ですよね?」
彼女は雨を気にする素振りもなく、にこりと笑った。
その笑みは、舞台役者が良く貼り付ける感情の無いもののようでありながら、裏に疲れを隠したように見えた。
「ああ、合ってるよ。古書と機械の修復を請け負っている、レンだ。修理なら、見せてくれ」
レンが簡潔に答えると、彼女は安心したように小さく息を吐いた。
「よかった。噂はあてになりそうね。私はアリアっていうの。よろしくね。それで……今日は、これを見ていただきたくて」
アリアと名乗った女性は、胸元に抱いていた包みをそっと机の上に置いた。
厚手の布を解くと、中から古びた革表紙の本が姿を現す。
深い紺色だったはずの表紙は、今はところどころ色が剥げ、角は擦り切れて丸くなっている。留め具は壊れ、革紐で仮止めされていた。
「日誌、か?」
レンが問うと、アリアは一瞬だけ視線を泳がせ、それから小さく頷いた。
「ええ。……父の日誌らしいんだけど。十年ほど一緒に旅していたら、とうとうこんな有様になっちゃって」
革表紙の縁に指先を滑らせながら、アリアの声は少しだけ柔らかくなった。
「中を見ても?」
「もちろん。むしろ、見ていただかないと始まらないわ」
レンは椅子を引き、アリアにも向かいの席を勧めた。彼女が腰を下ろすのを待ち、慎重に革紐をほどく。
表紙を留める金具に指をかける。経年劣化の為か、最初のひと押しだけ妙に引っかかりがある。力加減を探りながら押し上げると、金具が軋み音を立てて動き、本が開いた。
最初の数ページは、湿気で波打ちながらも、文字ははっきり読めた。整った筆致で、日付と簡単な出来事、観測した星の位置が記されている。何ページかには、何かの計算式もあった。が、何を導き出すためのものなのかがわからない。紙質は悪くない。だが、ところどころに茶色い斑点。インクが滲んでいる箇所もある。
「確かに……十数年は経っているな。保存状態は、あまり良くない」
「元々、状態はよくなかったの。私の手に来た時には既にくたびれていたわ。そのあとこんな状態になっちゃって……。いつか修復をと思っていたんだけれども、この街に来て、あなたの噂を聞いたのよ」
アリアは遠くを見るように天井を仰ぎ、すぐに視線を日誌へ戻す。
レンはページを捲っていった。文字の並びに規則性があるようにも見えたが、今は深く考えない。まずは傷み具合の確認だ。
百ページを過ぎたあたりから、紙の端に細かな欠けが増えてきた。インクの色も、別のものに変わっている。
そして、百二十ページ目で、文字は途切れていた。
そこには、ほかのページとは明らかに違う筆圧で書かれた短い一文と、大きな染みがひとつ。
『どうか生きてくれ』
その下に、赤黒い染みが斜めに広がっている。
レンは染みの縁にルーペを当て、慎重に覗き込んだ。
「……インクじゃない。葡萄酒、か?」
「わからない。もしかしたら、父が飲んでいたのかもしれないわね」
「この先は……」
レンが尋ねると、アリアは一瞬ためらってから、小さく首を振った。
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