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レンは眉を顰め、更にページを繰った。
百二十一ページ以降、確かに文章は消えている。だが、完全な白紙ではなかった。所々に、虫に食われたような小さな穴がいくつも開いている。
「……虫害、にしては妙だな」
レンは、ページを重ねて透かしてみた。
いくつもの小さな穴が、微妙に位置を変えながら、最終ページへ向かって増えていく。最後のページ。それは三百十五ページ目。
そこは、他のページとは明らかに様子が違っていた。
無数の穴。大小さまざまな丸い抜け。
まるで、夜空の星座を粗く写し取ったかのように、不規則でありながらどこか秩序を感じさせる配置だった。
「……凄いでしょう?」
アリアが、少しだけ得意そうな声音で言う。
「最初にこのページを見つけたとき、思ったの。これはきっと、父からの伝言だって」
レンは黙って本を閉じた。机の上にそっと置き、その上に両手を重ねる。
「なるほど。修復だけなら、時間と金の問題だ。留め具を直し、紙を補強。表紙を貼り直し、読める部分は綺麗に残す。……だが、君が求めているのは、最終のページのここに記してある本当の意味?」
アリアの碧い瞳が、まっすぐに彼を見つめる。雨音が急に、小さく遠のいてゆく。
「ええ。私はこの本そのものも大切だけれど……父がそこに込めていた想いを知りたいの。占術師としての勘だけれど、あの穴は、ただの虫食いじゃない。なんて言うのか……別の意味がある気がするの」
ひとつ呼吸を置いたアリアは、照れくさそうに続けて話した。
「私、踊り子をしながら、少しだけれども所謂占術もしてるの……母やお姉さんたちが教えてくれた術よ。その直感が、そう言ってる」
「ほう? たいしたもんだな」
レンの言葉を聞いたアリアは肩を竦めつつ、にっこりと笑った。
その笑顔に思わず胸が高鳴ったレンは、照れを隠すように視線を再び日誌に落とした。
最後のページの穴の位置を、頭の中で簡単な座標に置き換えていく。縦と横、穴の大きさ、間隔。
(規則は……ある。だが、肉眼だけでは判別しきれない)
紙の繊維。インクの成分。経年による変質。それらをきちんと見極めるには、普通のレンズでは足りない。
レンは棚の一つを振り返り、そこに並ぶ数本のレンズをざっと眺めた。どれも日常の修復には十分だが、今回のような意図された穴を読み解くには、倍率と透明度が足りない。
「このページの意味……か。ならひとつ、条件がある」
「条件?」
「特殊なレンズを取り寄せる必要がある。普通の商会では扱っていない。北港貨物区の方の、少々厄介なルートを使うことになるな。時間はかかるし、料金も高い。リスクも少しある」
アリアはあっさりと頷いた。
「構わないわ。お金は、少しなら蓄えがあるし……踊りの仕事なら、すぐにでも増やせる。時間だって、急いでないわ。父は十年以上も待ってくれていたのだもの。この先数週間、数ヶ月増えたところで、たいした違いはないわ。その間、この街で稼ぐ」
レンは、彼女の返答の中にある十年以上という言葉に、かすかなひっかかりを覚えた。
普通なら、もう過去だと諦める年月だ。なのに『待ってくれていた』と言う。
壊れたものに執着する自分と、どこか似た頑なさがそこにあった。
「わかった。引き受けよう」
レンは頷いた後にそう告げて、アリアに日誌を差し出した。
「レンズが届くまでの間に、紙の補強と表紙の修復に取りかかる。穴の位置も、別紙に正確に写し取っておく。それでもし、万が一この日誌に何かあっても、模様は失われないように。それでいいか?」
「勿論よ! ……ありがとう!」
アリアの声は、喜びで溢れていた。彼女は日誌を手に取り抱きしめかけたが、途中で止めて代わりに両手でそっと撫でるだけに留める。
「レンさん、あなたに預けてもいいのよね?」
「ここはそういう店だ。壊れたものを預かって、元の形に近づけて返す。それと『レン』でいい。敬称をつけてもらうほど、偉くもないし」
レンが淡々と答えると、アリアはふっと笑った。
「なら私のことも『アリア』って呼んで」
「わかった。レンズの手配は、およそ十日前後かかる。その頃にまた来てくれ」
「じゃあ、その時にお代は持ってくるわね」
アリアは立ち上がり、外套のフードを再び深くかぶった。
工房の扉に手をかけ、外に出る前に一度、レンの方へ振り返る。
「私、この近く……三日月横丁の青鈍亭で宿を取っているの。そこで、踊りと占星術とカード……占術のお仕事を少しの間だけれども頂いたの。もし何かの用があれば、そこに来てね。……それとあなたは、カップのナインの気配がするわ。きっと私にとっての救世主」
アリアはそう言い残し、雨の路地へ消えていった。
扉が閉まると、再び工房には雨音とガス灯のかすかな唸りだけが残る。
「カップのナイン……?」
言われた意味が特にわからないレンは、机の上に置かれた日誌を見下ろし、ゆっくりと椅子に戻った。ページの端を指先で撫でながら、彼は小さく呟く。
「百二十ページで終わった本、か……本当に終わっているなら、あの穴は何だ」
最後のページを開き、ガス灯の下でじっと見つめる。歪な丸い穴の群れが、ぼんやりと星図のように見えた。
壊れた歯車にも、壊れた本にも、必ず理由がある。その理由を突き止めることがたまらなく好きな自分を、レンはよく理解している。
「特殊レンズと、計算用の新しいグリッド。それから……」
彼は再び立ち上がり、棚の一番上にしまってあった古い星図帳を引き下ろした。表紙の埃を払い、作業台の端に積む。
外では、雨が少しだけ強くなっている。
路地裏の小さな工房で、まだ誰も知らない一冊の日誌の解析が、静かに始まりつつあった。
百二十一ページ以降、確かに文章は消えている。だが、完全な白紙ではなかった。所々に、虫に食われたような小さな穴がいくつも開いている。
「……虫害、にしては妙だな」
レンは、ページを重ねて透かしてみた。
いくつもの小さな穴が、微妙に位置を変えながら、最終ページへ向かって増えていく。最後のページ。それは三百十五ページ目。
そこは、他のページとは明らかに様子が違っていた。
無数の穴。大小さまざまな丸い抜け。
まるで、夜空の星座を粗く写し取ったかのように、不規則でありながらどこか秩序を感じさせる配置だった。
「……凄いでしょう?」
アリアが、少しだけ得意そうな声音で言う。
「最初にこのページを見つけたとき、思ったの。これはきっと、父からの伝言だって」
レンは黙って本を閉じた。机の上にそっと置き、その上に両手を重ねる。
「なるほど。修復だけなら、時間と金の問題だ。留め具を直し、紙を補強。表紙を貼り直し、読める部分は綺麗に残す。……だが、君が求めているのは、最終のページのここに記してある本当の意味?」
アリアの碧い瞳が、まっすぐに彼を見つめる。雨音が急に、小さく遠のいてゆく。
「ええ。私はこの本そのものも大切だけれど……父がそこに込めていた想いを知りたいの。占術師としての勘だけれど、あの穴は、ただの虫食いじゃない。なんて言うのか……別の意味がある気がするの」
ひとつ呼吸を置いたアリアは、照れくさそうに続けて話した。
「私、踊り子をしながら、少しだけれども所謂占術もしてるの……母やお姉さんたちが教えてくれた術よ。その直感が、そう言ってる」
「ほう? たいしたもんだな」
レンの言葉を聞いたアリアは肩を竦めつつ、にっこりと笑った。
その笑顔に思わず胸が高鳴ったレンは、照れを隠すように視線を再び日誌に落とした。
最後のページの穴の位置を、頭の中で簡単な座標に置き換えていく。縦と横、穴の大きさ、間隔。
(規則は……ある。だが、肉眼だけでは判別しきれない)
紙の繊維。インクの成分。経年による変質。それらをきちんと見極めるには、普通のレンズでは足りない。
レンは棚の一つを振り返り、そこに並ぶ数本のレンズをざっと眺めた。どれも日常の修復には十分だが、今回のような意図された穴を読み解くには、倍率と透明度が足りない。
「このページの意味……か。ならひとつ、条件がある」
「条件?」
「特殊なレンズを取り寄せる必要がある。普通の商会では扱っていない。北港貨物区の方の、少々厄介なルートを使うことになるな。時間はかかるし、料金も高い。リスクも少しある」
アリアはあっさりと頷いた。
「構わないわ。お金は、少しなら蓄えがあるし……踊りの仕事なら、すぐにでも増やせる。時間だって、急いでないわ。父は十年以上も待ってくれていたのだもの。この先数週間、数ヶ月増えたところで、たいした違いはないわ。その間、この街で稼ぐ」
レンは、彼女の返答の中にある十年以上という言葉に、かすかなひっかかりを覚えた。
普通なら、もう過去だと諦める年月だ。なのに『待ってくれていた』と言う。
壊れたものに執着する自分と、どこか似た頑なさがそこにあった。
「わかった。引き受けよう」
レンは頷いた後にそう告げて、アリアに日誌を差し出した。
「レンズが届くまでの間に、紙の補強と表紙の修復に取りかかる。穴の位置も、別紙に正確に写し取っておく。それでもし、万が一この日誌に何かあっても、模様は失われないように。それでいいか?」
「勿論よ! ……ありがとう!」
アリアの声は、喜びで溢れていた。彼女は日誌を手に取り抱きしめかけたが、途中で止めて代わりに両手でそっと撫でるだけに留める。
「レンさん、あなたに預けてもいいのよね?」
「ここはそういう店だ。壊れたものを預かって、元の形に近づけて返す。それと『レン』でいい。敬称をつけてもらうほど、偉くもないし」
レンが淡々と答えると、アリアはふっと笑った。
「なら私のことも『アリア』って呼んで」
「わかった。レンズの手配は、およそ十日前後かかる。その頃にまた来てくれ」
「じゃあ、その時にお代は持ってくるわね」
アリアは立ち上がり、外套のフードを再び深くかぶった。
工房の扉に手をかけ、外に出る前に一度、レンの方へ振り返る。
「私、この近く……三日月横丁の青鈍亭で宿を取っているの。そこで、踊りと占星術とカード……占術のお仕事を少しの間だけれども頂いたの。もし何かの用があれば、そこに来てね。……それとあなたは、カップのナインの気配がするわ。きっと私にとっての救世主」
アリアはそう言い残し、雨の路地へ消えていった。
扉が閉まると、再び工房には雨音とガス灯のかすかな唸りだけが残る。
「カップのナイン……?」
言われた意味が特にわからないレンは、机の上に置かれた日誌を見下ろし、ゆっくりと椅子に戻った。ページの端を指先で撫でながら、彼は小さく呟く。
「百二十ページで終わった本、か……本当に終わっているなら、あの穴は何だ」
最後のページを開き、ガス灯の下でじっと見つめる。歪な丸い穴の群れが、ぼんやりと星図のように見えた。
壊れた歯車にも、壊れた本にも、必ず理由がある。その理由を突き止めることがたまらなく好きな自分を、レンはよく理解している。
「特殊レンズと、計算用の新しいグリッド。それから……」
彼は再び立ち上がり、棚の一番上にしまってあった古い星図帳を引き下ろした。表紙の埃を払い、作業台の端に積む。
外では、雨が少しだけ強くなっている。
路地裏の小さな工房で、まだ誰も知らない一冊の日誌の解析が、静かに始まりつつあった。
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