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だが、魔の海域は、逃げ込んだ獲物をやすやすとは受け入れない。
突入した直後、船体を四方八方から圧し潰すような潮流が襲いかかる。どれほどガルドが舵を巧みに操ろうとも、物理的な推進力が足りていない。
このままでは、背後から追いついてきた軍艦に撃たれるか、あるいは波に揉まれて空中分解するか。
『レン! まだ出力は上げられねぇのか! このままじゃ波に負ける!』
伝声管からガルドの怒声が響く。
機関室にいるレンは、返事をする余裕すらなかった。
計器の針は赤い危険域を振り切り、配管の継ぎ目からは逃げ場を失った蒸気が悲鳴のように噴き出している。
「……くそ、限界か」
レンは汗で張り付く前髪を払い、歯噛みした。これ以上圧力をかければ、エンジン自体が自壊する。
「クソッ!!」
激しい焦燥の声が、荒ぶる機関室と呼応して響き渡ったその時。必死に動かし続けていた手が、ある一点に引っかかった。
強く振動するエンジンの中で、メインボイラーの基部にある巨大な圧力調整弁だけが、奇妙なほど静かだったのだ。
赤錆に覆われ、一見するとただの古いバルブに見える。だが、蒸気の流れを示す微細な振動音が、そこだけ不自然に遮断されている。
「……詰まっている? いや」
その部分に身を寄せたレンは、ポケットからルーペを取り出して、揺さぶられる身体を足に力を込め踏ん張りながら、その錆の層を凝視した。
レンズ越しに映ったのは、経年劣化の痕跡ではなかった。錆の下に隠された、極めて精巧な、しかし明らかに人為的な溶接痕。
「……故障じゃない。封印だ」
口元が歪み、冷ややかな笑みが浮かぶ。誰かが意図的に弁を固定し、蒸気の流入量を半分以下に制限している。まるで猛獣に鎖を繋ぐように、この船の本来の性能を殺しているのだ。
軍の最新鋭艦をも凌駕するスペックを隠し持ちながら、ただの鈍重な作業船として振る舞うように。
「いいだろう。その鎖、俺が外してやる!」
修理とは、あるべき姿に戻すことだ。ならばこの枷を砕き、本来の姿を呼び覚ますことこそが、今のこの船に対する最高の修復に他ならない。
壁にかけてあった巨大なハンマーをレンは手に取った。全身のバネを使い、渾身の力で錆びついたバルブへ叩きつける。
硬質な金属音が響き、偽装された溶接痕が砕け散った。解放されたバルブが軋みながら回転し、閉ざされていたバイパスが一気に開通する。
その瞬間、船の心臓が大きく脈打った。
今までとは桁違いの圧縮蒸気がタービンへと雪崩れ込む。悲鳴のような軋み音は消え、代わりに腹の底に響くような、重く力強い駆動音が船体を震わせ始めた。
☆
その変化を、上層のアリアも感じ取っていた。
何かに弾かれたように船体が急加速し、身体が壁に押し付けられる。苦しげだった振動が消え、波を切り裂く鋭い推進力へと変わっている。
(……レンが、直したのね)
確信と共に、アリアは立ち上がった。速度が上がったこの推力なら、計算上のあのルートまで行きつける。
アリアはよろめきながらガルドに向けて、声を上げた。
「船長さん! 今の速度ならいけるわ!」
船の劇的な変化を体で感じ取っていたガルドは「信じられねぇ……」と呟きながら、舵を取る手を震わせていた。
「嬢ちゃん! レンの野郎、何をしやがった! 船が暴れ馬みたいになってやがる!」
「右斜め前よ! あの大波の向こう側へ!」
アリアはガルドの問いには答えず、窓の外、荒れ狂う闇の一点を指差した。そこは、逆巻く波と波が衝突し、巨大な水壁を作っている死地に見える。
「あそこは船食いの顎だぞ!」
「違う、入り口よ! 今の月齢と干潮の差……あと数十秒だけ、あそこの水圧が均衡して道が開くわ!」
アリアの脳裏には、天文データと海流図が展開されている。それは予言ではなく、膨大な計算が弾き出した唯一の解。潮の満ち引き、天体の動き。すべてが重なった時に動くはず。
直後、伝声管からレンの声が響いた。
『ガルド! 行け!』
「お前ら、狂ってやがる……。でもな、そういうの……嫌いじゃないぜっ!」
ガルドはその太い腕で、舵を取り直し、大きく動かした。
☆
後方を追尾していた軍の高速艦のブリッジでは、艦長が信じられないものを見る目でレーダーを凝視していた。
「馬鹿な……! あのボロ船のどこに、あんな加速力が……!?」
数秒前まで射程圏内にいたはずの鈍重な亀が、突然、魚雷のような速度で死の海域へ飛び込んだのだ。獲物を逃がすまいと、艦長は怒号を飛ばした。
「逃がすな! 最大戦速! 奴らが通った航跡をそのままなぞれ!」
高速艦が無理な回頭を行い、タートル号が消えた波の谷間へと突っ込む。
だが、彼らは知らなかった。
アリアが示した道は、天体の引力と潮流が作り出す、ほんの数分おきに開閉する海の呼吸のような場所だということを。
タートル号が超加速で抜け切った直後、左右から押し寄せた激流の均衡が崩れた。開いていた道が閉じ、巨大な渦となって後続を飲み込む。
耳障りな破壊音が、嵐の轟音を切り裂いた。
高速艦の船底が、海面下に隠れていた鋭利な岩礁に乗り上げ、装甲が飴細工のように引き裂かれる音だ。
勢いよく進んでいた軍艦は、見えない巨人の手で掴まれたように急停止し、船体がくの字に折れ曲がるように激しく傾いた。
自慢の最新鋭スクリューが空転し、虚しく水柱を上げる。
もはや前進も後退もできない。完全な座礁だ。
傾いた甲板で兵士たちが混乱し、サーチライトが明後日の方向を照らすのを背に、タートル号は霧の向こうへと姿を消していった。
突入した直後、船体を四方八方から圧し潰すような潮流が襲いかかる。どれほどガルドが舵を巧みに操ろうとも、物理的な推進力が足りていない。
このままでは、背後から追いついてきた軍艦に撃たれるか、あるいは波に揉まれて空中分解するか。
『レン! まだ出力は上げられねぇのか! このままじゃ波に負ける!』
伝声管からガルドの怒声が響く。
機関室にいるレンは、返事をする余裕すらなかった。
計器の針は赤い危険域を振り切り、配管の継ぎ目からは逃げ場を失った蒸気が悲鳴のように噴き出している。
「……くそ、限界か」
レンは汗で張り付く前髪を払い、歯噛みした。これ以上圧力をかければ、エンジン自体が自壊する。
「クソッ!!」
激しい焦燥の声が、荒ぶる機関室と呼応して響き渡ったその時。必死に動かし続けていた手が、ある一点に引っかかった。
強く振動するエンジンの中で、メインボイラーの基部にある巨大な圧力調整弁だけが、奇妙なほど静かだったのだ。
赤錆に覆われ、一見するとただの古いバルブに見える。だが、蒸気の流れを示す微細な振動音が、そこだけ不自然に遮断されている。
「……詰まっている? いや」
その部分に身を寄せたレンは、ポケットからルーペを取り出して、揺さぶられる身体を足に力を込め踏ん張りながら、その錆の層を凝視した。
レンズ越しに映ったのは、経年劣化の痕跡ではなかった。錆の下に隠された、極めて精巧な、しかし明らかに人為的な溶接痕。
「……故障じゃない。封印だ」
口元が歪み、冷ややかな笑みが浮かぶ。誰かが意図的に弁を固定し、蒸気の流入量を半分以下に制限している。まるで猛獣に鎖を繋ぐように、この船の本来の性能を殺しているのだ。
軍の最新鋭艦をも凌駕するスペックを隠し持ちながら、ただの鈍重な作業船として振る舞うように。
「いいだろう。その鎖、俺が外してやる!」
修理とは、あるべき姿に戻すことだ。ならばこの枷を砕き、本来の姿を呼び覚ますことこそが、今のこの船に対する最高の修復に他ならない。
壁にかけてあった巨大なハンマーをレンは手に取った。全身のバネを使い、渾身の力で錆びついたバルブへ叩きつける。
硬質な金属音が響き、偽装された溶接痕が砕け散った。解放されたバルブが軋みながら回転し、閉ざされていたバイパスが一気に開通する。
その瞬間、船の心臓が大きく脈打った。
今までとは桁違いの圧縮蒸気がタービンへと雪崩れ込む。悲鳴のような軋み音は消え、代わりに腹の底に響くような、重く力強い駆動音が船体を震わせ始めた。
☆
その変化を、上層のアリアも感じ取っていた。
何かに弾かれたように船体が急加速し、身体が壁に押し付けられる。苦しげだった振動が消え、波を切り裂く鋭い推進力へと変わっている。
(……レンが、直したのね)
確信と共に、アリアは立ち上がった。速度が上がったこの推力なら、計算上のあのルートまで行きつける。
アリアはよろめきながらガルドに向けて、声を上げた。
「船長さん! 今の速度ならいけるわ!」
船の劇的な変化を体で感じ取っていたガルドは「信じられねぇ……」と呟きながら、舵を取る手を震わせていた。
「嬢ちゃん! レンの野郎、何をしやがった! 船が暴れ馬みたいになってやがる!」
「右斜め前よ! あの大波の向こう側へ!」
アリアはガルドの問いには答えず、窓の外、荒れ狂う闇の一点を指差した。そこは、逆巻く波と波が衝突し、巨大な水壁を作っている死地に見える。
「あそこは船食いの顎だぞ!」
「違う、入り口よ! 今の月齢と干潮の差……あと数十秒だけ、あそこの水圧が均衡して道が開くわ!」
アリアの脳裏には、天文データと海流図が展開されている。それは予言ではなく、膨大な計算が弾き出した唯一の解。潮の満ち引き、天体の動き。すべてが重なった時に動くはず。
直後、伝声管からレンの声が響いた。
『ガルド! 行け!』
「お前ら、狂ってやがる……。でもな、そういうの……嫌いじゃないぜっ!」
ガルドはその太い腕で、舵を取り直し、大きく動かした。
☆
後方を追尾していた軍の高速艦のブリッジでは、艦長が信じられないものを見る目でレーダーを凝視していた。
「馬鹿な……! あのボロ船のどこに、あんな加速力が……!?」
数秒前まで射程圏内にいたはずの鈍重な亀が、突然、魚雷のような速度で死の海域へ飛び込んだのだ。獲物を逃がすまいと、艦長は怒号を飛ばした。
「逃がすな! 最大戦速! 奴らが通った航跡をそのままなぞれ!」
高速艦が無理な回頭を行い、タートル号が消えた波の谷間へと突っ込む。
だが、彼らは知らなかった。
アリアが示した道は、天体の引力と潮流が作り出す、ほんの数分おきに開閉する海の呼吸のような場所だということを。
タートル号が超加速で抜け切った直後、左右から押し寄せた激流の均衡が崩れた。開いていた道が閉じ、巨大な渦となって後続を飲み込む。
耳障りな破壊音が、嵐の轟音を切り裂いた。
高速艦の船底が、海面下に隠れていた鋭利な岩礁に乗り上げ、装甲が飴細工のように引き裂かれる音だ。
勢いよく進んでいた軍艦は、見えない巨人の手で掴まれたように急停止し、船体がくの字に折れ曲がるように激しく傾いた。
自慢の最新鋭スクリューが空転し、虚しく水柱を上げる。
もはや前進も後退もできない。完全な座礁だ。
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