17 / 30
17
しおりを挟む
カツ、カツ、カツ……。
軍靴が、石畳の床を叩く。一つ、また一つ。複数の男たちが、狭い貯蔵庫に入ってきている。
「埃っぽいな……」
すぐ、本当にすぐ目の前で声がした。板一枚隔てた向こう側に、兵士が立っている。
懐中ランプの光だろうか。樽の板の隙間から、細い光の筋が差し込み、レンの瞳を横切った。
レンは瞬きすらせず、身を硬くした。アリアの背中に回した手に力を込める。アリアもまた、レンの胸に顔を埋め、彼の心音を聞きながら耐えていた。
「隊長。ここには樽とガラクタしかありません」
「……妙だな」
リーダー格の男の声が、三人が潜む樽の正面で止まった。
「ネズミ一匹逃げ場のない配置にしたはずだ。蒸発するわけがない」
ゴン。
不意に、樽が外から叩かれた。衝撃が木材を通して伝わる。
「……この樽、中身が入っているのか?」
男が鋭く問う。
「ああ、そりゃあ一番の年代物だ。開けてみてもいいが、空気に触れさせたら味が落ちる。その分もきっちり弁償してもらうぞ」
店主の声は平然としていたが、その裏に凄味が混じっている。
長い、永遠とも思える沈黙。雨音が、遠くで響いている。樽の外で、男がゆっくりと息を吐く気配がした。
「……いいだろう」
足音が、くるりと向きを変えた。
「行くぞ。次の店だ」
遠ざかる足音。貯蔵庫の扉が閉められ、やがて表のドアが開閉する音が微かに聞こえた。それでも、三人は動かなかった。罠かもしれない。
数分後。
コン、コン。
樽の外から、軽い合図のようなノックがあった。ゴトリと樽が動き、光が差し込む。
店主が、額の脂汗を拭いながら立っていた。
「……行ったぜ。まったく、寿命が縮む思いだ」
這い出した三人は、その場へ座り込んだ。アリアの顔色はまだ白かったが、その瞳には生気が戻っていた。
「……やるじゃねぇか、親父」
ガルドがニヤリと笑ったが、その額にも汗が滲んでいる。
「ふん。だてに長くここで商売やってねぇよ。……だが、こりゃあマズいぞ。奴ら、本気で探し回ってやがる。この街の出口を固めるつもりだ。港も見張られるだろうな」
店主が渋い顔で告げる。
この嵐で船が出せないと踏んで、包囲網を狭めていくつもりなのだろう。宿でじっとしていれば、いずれ見つかるのは時間の問題だ。
ガルドは窓の外、横殴りの雨を見つめ、不敵に笑った。
「……好都合じゃねぇか」
「え?」
アリアが問うと、ガルドはニヤリと白い歯を見せた。
「奴らは思ってるはずだ。『こんな嵐の中、船を出す馬鹿はいない』とな。……だからこそ、裏をかく」
彼はレンとアリアを交互に見た。
「今夜出るぞ。夜明け前、嵐が一番ひどくなる時間に強行突破だ」
店主が呆れたようにため息をついた。
「本気かよガルド。死ぬぞ?」
「ここにいたってジリ貧だ。それに、俺の船はタフだぜ? こんなシケで沈むようなヤワな造りじゃねぇ。それにな。凄腕の修復士が味方なんだ。そうだろ? なぁ、レン」
ガルドは豪快に笑い飛ばしたが、その目は真剣だった。
レンもその目をみて、大きく頷いた。
「……計算上も、それしか勝機はない。奴らが油断している隙を突く」
レンが確認するように、アリアを見る。アリアは、先ほど握ってくれたレンの手の温かさを思い出し、強く頷いた。
「行きましょう。……父様だって、きっと嵐を越えていったはずだもの」
「決まりだな」
ガルドが右手の拳を左手で叩いて、音を鳴らす。
「さあ! 野郎ども! 地獄への航海と行こうじゃねぇか!」
☆
夜明け前。リラムの港は、轟音に包まれていた。
海は黒くうねり、桟橋に白波が噛み付いている。
灰色のマントの男たちは、港の入り口にある検問所に詰めていたが、あまりの暴風雨に窓を閉ざし、中の暖炉に当たっているのが見えた。
その死角を突き、暗闇に紛れてラスティ・タートル号の係留ロープが解かれた。
エンジン音を悟られないよう、最初は波の音に紛れさせ、沖に出てから出力を上げる。
ボイラーが低く唸り、スクリューが水を噛む。船体は大きく傾ぎながら、荒れ狂う外海へと躍り出た。
巨大な波が、船首を高く持ち上げる。次の瞬間、谷底へ落ちるような浮遊感と共に、船は波間へと叩きつけられる。
「きゃっ!」
船室で、アリアが手すりにしがみつき悲鳴を上げる。レンが彼女の体を支え、壁に固定されたベンチへと座らせた。
「大丈夫か!?」
「な、なんとか……!」
操舵室では、ガルドが舵輪と格闘していた。
「ハッハー! いい波だ! これくらいじゃなきゃ眠くなっちまう!」
狂気じみた笑い声を上げながら、彼は巧みに波の尾根を読み、船を前進させる。
だが、その時だった。
『船長! 後方より接近する船影あり!』
伝声管から見張りの声が響く。
「なんだと!?」
ガルドが振り返る。
雨と波飛沫の向こう、闇を切り裂くような強力なサーチライトの光が見えた。
鋭く尖った船首を持つ、最新鋭の軍用高速艦だ。
「……チッ、嗅ぎつけやがったか! あの嵐の中を出てくる馬鹿が、俺たち以外にもいたとはな!」
軍艦からの砲撃音か、あるいは雷鳴か。
水柱が船のすぐ横で上がった。
逃げる亀の背を追う、狼の眼光。サーチライトが無慈悲に焼き焦がす。
嵐の海は、瞬く間に鉄と火薬の匂いが支配する狩り場へと変貌していた。
軍靴が、石畳の床を叩く。一つ、また一つ。複数の男たちが、狭い貯蔵庫に入ってきている。
「埃っぽいな……」
すぐ、本当にすぐ目の前で声がした。板一枚隔てた向こう側に、兵士が立っている。
懐中ランプの光だろうか。樽の板の隙間から、細い光の筋が差し込み、レンの瞳を横切った。
レンは瞬きすらせず、身を硬くした。アリアの背中に回した手に力を込める。アリアもまた、レンの胸に顔を埋め、彼の心音を聞きながら耐えていた。
「隊長。ここには樽とガラクタしかありません」
「……妙だな」
リーダー格の男の声が、三人が潜む樽の正面で止まった。
「ネズミ一匹逃げ場のない配置にしたはずだ。蒸発するわけがない」
ゴン。
不意に、樽が外から叩かれた。衝撃が木材を通して伝わる。
「……この樽、中身が入っているのか?」
男が鋭く問う。
「ああ、そりゃあ一番の年代物だ。開けてみてもいいが、空気に触れさせたら味が落ちる。その分もきっちり弁償してもらうぞ」
店主の声は平然としていたが、その裏に凄味が混じっている。
長い、永遠とも思える沈黙。雨音が、遠くで響いている。樽の外で、男がゆっくりと息を吐く気配がした。
「……いいだろう」
足音が、くるりと向きを変えた。
「行くぞ。次の店だ」
遠ざかる足音。貯蔵庫の扉が閉められ、やがて表のドアが開閉する音が微かに聞こえた。それでも、三人は動かなかった。罠かもしれない。
数分後。
コン、コン。
樽の外から、軽い合図のようなノックがあった。ゴトリと樽が動き、光が差し込む。
店主が、額の脂汗を拭いながら立っていた。
「……行ったぜ。まったく、寿命が縮む思いだ」
這い出した三人は、その場へ座り込んだ。アリアの顔色はまだ白かったが、その瞳には生気が戻っていた。
「……やるじゃねぇか、親父」
ガルドがニヤリと笑ったが、その額にも汗が滲んでいる。
「ふん。だてに長くここで商売やってねぇよ。……だが、こりゃあマズいぞ。奴ら、本気で探し回ってやがる。この街の出口を固めるつもりだ。港も見張られるだろうな」
店主が渋い顔で告げる。
この嵐で船が出せないと踏んで、包囲網を狭めていくつもりなのだろう。宿でじっとしていれば、いずれ見つかるのは時間の問題だ。
ガルドは窓の外、横殴りの雨を見つめ、不敵に笑った。
「……好都合じゃねぇか」
「え?」
アリアが問うと、ガルドはニヤリと白い歯を見せた。
「奴らは思ってるはずだ。『こんな嵐の中、船を出す馬鹿はいない』とな。……だからこそ、裏をかく」
彼はレンとアリアを交互に見た。
「今夜出るぞ。夜明け前、嵐が一番ひどくなる時間に強行突破だ」
店主が呆れたようにため息をついた。
「本気かよガルド。死ぬぞ?」
「ここにいたってジリ貧だ。それに、俺の船はタフだぜ? こんなシケで沈むようなヤワな造りじゃねぇ。それにな。凄腕の修復士が味方なんだ。そうだろ? なぁ、レン」
ガルドは豪快に笑い飛ばしたが、その目は真剣だった。
レンもその目をみて、大きく頷いた。
「……計算上も、それしか勝機はない。奴らが油断している隙を突く」
レンが確認するように、アリアを見る。アリアは、先ほど握ってくれたレンの手の温かさを思い出し、強く頷いた。
「行きましょう。……父様だって、きっと嵐を越えていったはずだもの」
「決まりだな」
ガルドが右手の拳を左手で叩いて、音を鳴らす。
「さあ! 野郎ども! 地獄への航海と行こうじゃねぇか!」
☆
夜明け前。リラムの港は、轟音に包まれていた。
海は黒くうねり、桟橋に白波が噛み付いている。
灰色のマントの男たちは、港の入り口にある検問所に詰めていたが、あまりの暴風雨に窓を閉ざし、中の暖炉に当たっているのが見えた。
その死角を突き、暗闇に紛れてラスティ・タートル号の係留ロープが解かれた。
エンジン音を悟られないよう、最初は波の音に紛れさせ、沖に出てから出力を上げる。
ボイラーが低く唸り、スクリューが水を噛む。船体は大きく傾ぎながら、荒れ狂う外海へと躍り出た。
巨大な波が、船首を高く持ち上げる。次の瞬間、谷底へ落ちるような浮遊感と共に、船は波間へと叩きつけられる。
「きゃっ!」
船室で、アリアが手すりにしがみつき悲鳴を上げる。レンが彼女の体を支え、壁に固定されたベンチへと座らせた。
「大丈夫か!?」
「な、なんとか……!」
操舵室では、ガルドが舵輪と格闘していた。
「ハッハー! いい波だ! これくらいじゃなきゃ眠くなっちまう!」
狂気じみた笑い声を上げながら、彼は巧みに波の尾根を読み、船を前進させる。
だが、その時だった。
『船長! 後方より接近する船影あり!』
伝声管から見張りの声が響く。
「なんだと!?」
ガルドが振り返る。
雨と波飛沫の向こう、闇を切り裂くような強力なサーチライトの光が見えた。
鋭く尖った船首を持つ、最新鋭の軍用高速艦だ。
「……チッ、嗅ぎつけやがったか! あの嵐の中を出てくる馬鹿が、俺たち以外にもいたとはな!」
軍艦からの砲撃音か、あるいは雷鳴か。
水柱が船のすぐ横で上がった。
逃げる亀の背を追う、狼の眼光。サーチライトが無慈悲に焼き焦がす。
嵐の海は、瞬く間に鉄と火薬の匂いが支配する狩り場へと変貌していた。
0
あなたにおすすめの小説
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
子育てが落ち着いた20年目の結婚記念日……「離縁よ!離縁!」私は屋敷を飛び出しました。
さくしゃ
恋愛
アーリントン王国の片隅にあるバーンズ男爵領では、6人の子育てが落ち着いた領主夫人のエミリアと領主のヴァーンズは20回目の結婚記念日を迎えていた。
忙しい子育てと政務にすれ違いの生活を送っていた二人は、久しぶりに二人だけで食事をすることに。
「はぁ……盛り上がりすぎて7人目なんて言われたらどうしよう……いいえ!いっそのことあと5人くらい!」
気合いを入れるエミリアは侍女の案内でヴァーンズが待つ食堂へ。しかし、
「信じられない!離縁よ!離縁!」
深夜2時、エミリアは怒りを露わに屋敷を飛び出していった。自室に「実家へ帰らせていただきます!」という書き置きを残して。
結婚20年目にして離婚の危機……果たしてその結末は!?
妻を蔑ろにしていた結果。
下菊みこと
恋愛
愚かな夫が自業自得で後悔するだけ。妻は結果に満足しています。
主人公は愛人を囲っていた。愛人曰く妻は彼女に嫌がらせをしているらしい。そんな性悪な妻が、屋敷の最上階から身投げしようとしていると報告されて急いで妻のもとへ行く。
小説家になろう様でも投稿しています。
侯爵夫人のハズですが、完全に無視されています
猫枕
恋愛
伯爵令嬢のシンディーは学園を卒業と同時にキャッシュ侯爵家に嫁がされた。
しかし婚姻から4年、旦那様に会ったのは一度きり、大きなお屋敷の端っこにある離れに住むように言われ、勝手な外出も禁じられている。
本宅にはシンディーの偽物が奥様と呼ばれて暮らしているらしい。
盛大な結婚式が行われたというがシンディーは出席していないし、今年3才になる息子がいるというが、もちろん産んだ覚えもない。
『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
側妃の愛
まるねこ
恋愛
ここは女神を信仰する国。極まれに女神が祝福を与え、癒しの力が使える者が現れるからだ。
王太子妃となる予定の令嬢は力が弱いが癒しの力が使えた。突然強い癒しの力を持つ女性が異世界より現れた。
力が強い女性は聖女と呼ばれ、王太子妃になり、彼女を支えるために令嬢は側妃となった。
Copyright©︎2025-まるねこ
完結 そんなにその方が大切ならば身を引きます、さようなら。
音爽(ネソウ)
恋愛
相思相愛で結ばれたクリステルとジョルジュ。
だが、新婚初夜は泥酔してお預けに、その後も余所余所しい態度で一向に寝室に現れない。不審に思った彼女は眠れない日々を送る。
そして、ある晩に玄関ドアが開く音に気が付いた。使われていない離れに彼は通っていたのだ。
そこには匿われていた美少年が棲んでいて……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる