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窓の外、雨の勢いは衰えるどころか、さらに激しさを増していた。
叩きつけられる雨粒が窓ガラスを白く覆い隠し、風が建物の隙間を抜けて、ヒュォーヒュォーと不気味な音を鳴らしている。
レンが何の気なしに窓の外の雨に目線をやる。雨は勢いを増し、先ほどよりも強く窓を叩きつけていた。外の風景も雨で滲んでよく見えなくなってきていた。
瞬間、彼の背筋に冷たいものが走った。
暴風雨で誰もいないはずの石畳の路地。そこに、数人の人影が滲む。
ハッキリとは見えない。だが、薄灰色のフード付きマントを目深に被り、雨を避ける様子もなく、向かいの宿の扉を蹴破る勢いで叩いているのが、確かに見えたのだ。
「……ガルド」
レンは窓から視線を戻し、声を潜めて名を呼んだ。
「来てる。……しらみ潰しだ。一軒ずつ、確実に潰してきてる」
その一言で、テーブルの空気が凍りついた。
ガルドは注文しなおしたばかりの酒の入った木杯を置き、アリアは小さく息を呑んで、テーブルに乗せた両手に力を籠める。
「チッ、早えな。こんな嵐の中、這いずり回ってやがるのか」
ガルドは舌打ちをすると、厨房の奥にいる店主に向かって声を上げた。
「おい、親父!」
カウンターの中でグラスを磨いていた壮年の店主が、その荒い呼び声に顔を上げる。黒髪を短く刈り込んだ、頑固そうな男だ。
彼はガルドの険しい表情と、窓際に視線を張り付けているレンの様子を見て、一瞬で事情を察したようだった。
「……厄介事か?」
店主が布巾を置いて歩み寄ってくる。
「ああ。どうやら俺たちは、招かれざる客を連れてきあがったらしい。……軍の犬だ」
ガルドが顎で外をしゃくると、店主は顔をしかめ、心底嫌そうに鼻を鳴らした。
「軍だぁ? けっ、一番嫌いな人種だ。商売の邪魔しかしねぇ」
「悪いが、裏口から抜けるには目立ちすぎる。どこか、ネズミ一匹見つからねぇ隠れ場所はあるか?」
店主は数秒思案し、ニヤリと片頬を歪めた。
「あるに決まってんだろ。……こっちだ」
店主は厨房の奥、巨大な空き樽や木箱が積まれた薄暗い貯蔵庫へと三人招いた。一番奥、壁際に据え付けられた巨大なワイン樽。その栓をひねるのではなく、横の鉄枠を特定の順序で叩くと、ゴトリと重い音を立てて樽全体が手前に開いた。
樽の裏側に、大人が三人、ようやく屈んで入れるほどの空洞があった。
「元は密造酒の隠し場所だ。狭いが我慢しな」
「助かるぜ」
ガルドが礼を言うと、店主は彼の肩をバンッと叩いた。
「なに、礼には及ばねぇよ。久しぶりにガルドのおっさんの顔も見れたんだし、安いもんだ。……ここの人間は、偉そうな制服の命令より、目の前の情だ。あとは任せとけ。他の船員の奴らは、常連客のふりをさせとく」
その言葉は頼もしかったが、状況は予断を許さなかった。三人は狭い空洞へ滑り込み、内側から息を殺した。レンがアリアを抱え込むようにし、その手前にガルドが陣取る。
直後、樽が戻される重い音がして、完全な闇が訪れた。
閉ざされた空間。澱んだ空気と闇。
それが、アリアの奥底に眠る記憶を呼び覚ました。
(……暗い。……狭い)
十年前のあの日。燃えるいくつもの幌馬車と悲鳴。母に押し込められた衣装箱の中。
板一枚隔てた向こうに、悪魔が立っていた恐怖。
アリアの身体が、小刻みに震え始めた。呼吸が浅く、早くなる。喉の奥が引きつり、うまく息が吸えない。
(怖い……怖い……っ)
過去の幻影が、今の闇に重なる。また、みんな殺される。私も、見つかって殺される。
アリアがそう思ったその時、温かい手が、アリアの震える手を包み込んだ。
「……大丈夫だ」
耳元で、レンの声がした。低く、落ち着いた囁き。
「俺たちがついてる」
レンの手が、ぎゅっと力を込める。その熱が、アリアの指先から伝わってきた。
アリアはハッとして顔を上げた。暗闇で顔は見えない。けれど、すぐ隣にレンの体温がある。目の前には、ガルドの大きな背中がある。
「……そうね」
アリアは震える声で、けれど自分に言い聞かせるように呟いた。
「一人じゃない。レンも、船長さんもいてくれる」
アリアがレンの手を握り返す。
「ああ」
レンが短く、力強く応える。前で聞き耳を立てていたガルドも、振り返らずともニッと笑う気配がした。太い親指を立てたのだろう。
「おう、大船に乗ったつもりでいろ」
その頼もしい声に、アリアの震えが少しずつ治まっていった。
その直後、表の扉が乱暴に開けられる音が響いてきた。
「店主はいるか!」
雨音に混じり、冷たく威圧的な男の声が聞こえる。あのリーダー格の男だ。アリアはもう震えていなかった。レンの手を握りしめ、じっと息を潜める。
「あぁ? なんだ? あんたたち。店はもう終いだよ。見ての通り、この嵐だ」
店主のとぼけた声。だが、男の声は硬い。
「金髪の女と、灰色の髪の男。それに……薄汚い船乗り風の大男を見なかったか? この界隈に入り込んだ形跡がある」
「ハッ! 冗談言っちゃいけねぇ。こんな日に来る客なんてのは、そこの隅で寝てる、泥酔した色気のねぇ常連の野郎達くらいなもんさ」
「……そうか。ならば、店の中を改めさせてもらう」
「あ!? おい、勝手に入んな!」
制止を振り切り、複数の重い軍靴の音が店内に雪崩れ込んでくる。
ドカドカと床板を踏み鳴らす音が、頭上のすぐ近くまで迫る。椅子が倒される音、棚が開けられる音。彼らは本気だ。形式的な見回りではない。
やがて、足音は厨房の方へと近づいてきた。
「ここは?」
「ただの物置だよ。……おい、そこには高ぇ酒が眠ってんだ! 割ったら軍に請求するからな!」
ギィ、と貯蔵庫の扉が開く音がした。
三人が隠れる樽裏の、すぐ目の前だ。
レンはアリアを庇うように抱き寄せ、もう片方の手で彼女の口元をそっと覆った。
叩きつけられる雨粒が窓ガラスを白く覆い隠し、風が建物の隙間を抜けて、ヒュォーヒュォーと不気味な音を鳴らしている。
レンが何の気なしに窓の外の雨に目線をやる。雨は勢いを増し、先ほどよりも強く窓を叩きつけていた。外の風景も雨で滲んでよく見えなくなってきていた。
瞬間、彼の背筋に冷たいものが走った。
暴風雨で誰もいないはずの石畳の路地。そこに、数人の人影が滲む。
ハッキリとは見えない。だが、薄灰色のフード付きマントを目深に被り、雨を避ける様子もなく、向かいの宿の扉を蹴破る勢いで叩いているのが、確かに見えたのだ。
「……ガルド」
レンは窓から視線を戻し、声を潜めて名を呼んだ。
「来てる。……しらみ潰しだ。一軒ずつ、確実に潰してきてる」
その一言で、テーブルの空気が凍りついた。
ガルドは注文しなおしたばかりの酒の入った木杯を置き、アリアは小さく息を呑んで、テーブルに乗せた両手に力を籠める。
「チッ、早えな。こんな嵐の中、這いずり回ってやがるのか」
ガルドは舌打ちをすると、厨房の奥にいる店主に向かって声を上げた。
「おい、親父!」
カウンターの中でグラスを磨いていた壮年の店主が、その荒い呼び声に顔を上げる。黒髪を短く刈り込んだ、頑固そうな男だ。
彼はガルドの険しい表情と、窓際に視線を張り付けているレンの様子を見て、一瞬で事情を察したようだった。
「……厄介事か?」
店主が布巾を置いて歩み寄ってくる。
「ああ。どうやら俺たちは、招かれざる客を連れてきあがったらしい。……軍の犬だ」
ガルドが顎で外をしゃくると、店主は顔をしかめ、心底嫌そうに鼻を鳴らした。
「軍だぁ? けっ、一番嫌いな人種だ。商売の邪魔しかしねぇ」
「悪いが、裏口から抜けるには目立ちすぎる。どこか、ネズミ一匹見つからねぇ隠れ場所はあるか?」
店主は数秒思案し、ニヤリと片頬を歪めた。
「あるに決まってんだろ。……こっちだ」
店主は厨房の奥、巨大な空き樽や木箱が積まれた薄暗い貯蔵庫へと三人招いた。一番奥、壁際に据え付けられた巨大なワイン樽。その栓をひねるのではなく、横の鉄枠を特定の順序で叩くと、ゴトリと重い音を立てて樽全体が手前に開いた。
樽の裏側に、大人が三人、ようやく屈んで入れるほどの空洞があった。
「元は密造酒の隠し場所だ。狭いが我慢しな」
「助かるぜ」
ガルドが礼を言うと、店主は彼の肩をバンッと叩いた。
「なに、礼には及ばねぇよ。久しぶりにガルドのおっさんの顔も見れたんだし、安いもんだ。……ここの人間は、偉そうな制服の命令より、目の前の情だ。あとは任せとけ。他の船員の奴らは、常連客のふりをさせとく」
その言葉は頼もしかったが、状況は予断を許さなかった。三人は狭い空洞へ滑り込み、内側から息を殺した。レンがアリアを抱え込むようにし、その手前にガルドが陣取る。
直後、樽が戻される重い音がして、完全な闇が訪れた。
閉ざされた空間。澱んだ空気と闇。
それが、アリアの奥底に眠る記憶を呼び覚ました。
(……暗い。……狭い)
十年前のあの日。燃えるいくつもの幌馬車と悲鳴。母に押し込められた衣装箱の中。
板一枚隔てた向こうに、悪魔が立っていた恐怖。
アリアの身体が、小刻みに震え始めた。呼吸が浅く、早くなる。喉の奥が引きつり、うまく息が吸えない。
(怖い……怖い……っ)
過去の幻影が、今の闇に重なる。また、みんな殺される。私も、見つかって殺される。
アリアがそう思ったその時、温かい手が、アリアの震える手を包み込んだ。
「……大丈夫だ」
耳元で、レンの声がした。低く、落ち着いた囁き。
「俺たちがついてる」
レンの手が、ぎゅっと力を込める。その熱が、アリアの指先から伝わってきた。
アリアはハッとして顔を上げた。暗闇で顔は見えない。けれど、すぐ隣にレンの体温がある。目の前には、ガルドの大きな背中がある。
「……そうね」
アリアは震える声で、けれど自分に言い聞かせるように呟いた。
「一人じゃない。レンも、船長さんもいてくれる」
アリアがレンの手を握り返す。
「ああ」
レンが短く、力強く応える。前で聞き耳を立てていたガルドも、振り返らずともニッと笑う気配がした。太い親指を立てたのだろう。
「おう、大船に乗ったつもりでいろ」
その頼もしい声に、アリアの震えが少しずつ治まっていった。
その直後、表の扉が乱暴に開けられる音が響いてきた。
「店主はいるか!」
雨音に混じり、冷たく威圧的な男の声が聞こえる。あのリーダー格の男だ。アリアはもう震えていなかった。レンの手を握りしめ、じっと息を潜める。
「あぁ? なんだ? あんたたち。店はもう終いだよ。見ての通り、この嵐だ」
店主のとぼけた声。だが、男の声は硬い。
「金髪の女と、灰色の髪の男。それに……薄汚い船乗り風の大男を見なかったか? この界隈に入り込んだ形跡がある」
「ハッ! 冗談言っちゃいけねぇ。こんな日に来る客なんてのは、そこの隅で寝てる、泥酔した色気のねぇ常連の野郎達くらいなもんさ」
「……そうか。ならば、店の中を改めさせてもらう」
「あ!? おい、勝手に入んな!」
制止を振り切り、複数の重い軍靴の音が店内に雪崩れ込んでくる。
ドカドカと床板を踏み鳴らす音が、頭上のすぐ近くまで迫る。椅子が倒される音、棚が開けられる音。彼らは本気だ。形式的な見回りではない。
やがて、足音は厨房の方へと近づいてきた。
「ここは?」
「ただの物置だよ。……おい、そこには高ぇ酒が眠ってんだ! 割ったら軍に請求するからな!」
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