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星を継ぐ者たちの前奏曲
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まだ朝の音が鳴りだす前の早朝。
王宮の最深部、昼でも人の往来が驚くほどに少ない回廊の突き当たり。その扉の前に、公女オリヴィアは侍女を伴って立っていた。
「では、ちょっと行ってくるわね。戻るまで……そうね、いつものように過ごしていて構わないわ。今日は少し時間がかかるかもしれないから」
「畏まりました。お嬢様、いってらっしゃいませ」
侍女は深く頭を下げ、扉を開ける。
オリヴィアは軽く頷くと、その中へと入った。
扉は音もなく閉まる。
扉をくぐった先は、明るい。天窓から落ちる光が、机の上に置かれた金属を淡く照らしている。紙の束が重なり、黒板には消しきれない線が残り、床には細い管や配線が伸びていた。整然としているとは言えないが、歩く場所に迷うことはない。
この部屋は、そういう風に使われてきた。
奥で、白い蒸気が立ち上っている。
その向こうに立つのは、この国の第二王子・シリウス、公爵令嬢であるオリヴィアの婚約者だ。
王国一の美丈夫と称えられ、『極光の貴公子』と呼ばれる貴き人。碧い瞳は澄み渡る海の色に似ているが、今は机の上に置かれた小さな部品に向けられている。視線は穏やかではあるが、その手の指先の動きには無駄がない。
オリヴィアは声を掛けなかった。今は、その必要がないと弁えている。
シリウスは歯車を一つ手に取り、机の上で何度か持ち替えている。置いては確かめ、外しては角度を変える。動きはゆっくりだが、途切れない。迷っている様子もない。
金属が触れ合う、小さな音が続く。
オリヴィアは黒板の前に立ち、白墨を取った。昨日、自身が書いた式をなぞり、数値を一つだけ書き換えた。暫く見つめ、それで足りると判断すると、満足の笑みを零し白墨を戻した。
その数字の羅列はシリウスのためのもの。天文学を得意とする彼女が導き出した、星々の運行図でもあった。
ふと足元を見ると、水を張った鉢がわずかに揺れている。鉢に浮かぶ水面ではなく、床が振動しているのだと分かる。遅れて、机の端から白い湯気が立ち上がった。
「ごめん、ちょっとこの姿勢のままでいい?」
シリウスが、こちらを見ずに聞いた。オリヴィアの相手を出来ないことを詫びているのだろう、そうすぐに汲み取れた。
「ええ。構いませんわ。そのままお続けくださいませ」
「助かる」
それだけで会話は終わる。この部屋ではそれで足りた。シリウスが作業している間は、長い会話は反って邪魔になる。
オリヴィアは黒板近くに置いてある椅子に腰を下ろすと、その横にある小さな机にバラバラに積まれてあった紙の束を手に持った。
そこには様々な数式や、理論が所狭しと書き込まれている。が、才女と呼ばれているオリヴィアであっても、そこから読み取れるものは多くない。
それでも、その紙を愛おしく思えるのはきっと、シリウスが書いては苦悩し、正していった痕跡と、彼の想いが見て取れるからなのだろう。
オリヴィアは一枚一枚手に取り、そこにある筆跡を撫でながら、丁寧に紙を整えて積んでゆく。
二人がそうやって過ごしていると、扉の外から足音が聞こえ、それが止まると控えめな声が響いた。
「シリウス殿下。近衛将校デュアル、入室の許可を願います」
「どうぞ」
返事をした一拍後に扉が開き、軍服姿の男が一歩踏み込んだ。
デュアルは中を見渡し、並ぶ金属や見慣れない形に一瞬だけ視線を彷徨わせてから、姿勢を正す。
「オリヴィア嬢もいらしたのですね。ご機嫌麗しゅう」
そう言ったデュアルは、被っていた帽子を取ると、そこから現れた燃えるような赤髪を垂らし、丁寧にお辞儀をした。
「デュアル卿、ご機嫌よう」
オリヴィアもそれに応え、微笑みをデュアルに向けた。
「それにしても……相変わらず、この部屋は落ち着きません」
デュアルの正直な感想なのだろう。日常とは切り離された空間に足を踏み入れたときの、あの感覚。そういったものを、きっと感じ取っているのだ。
「そうだろうね」
シリウスはそこでやっと歯車を机に置き、振り返る。表情は穏やかだ。
「でも、俺はここが一番落ち着くんだよ」
デュアルは小さく息を吐いた。
「でしょうね」
皮肉はない。ただの納得だ。続いて、淡い赤色の外套をまとった背の低い令嬢が、ひょっこりと姿を現した。
「殿下、お時間をいただき、ありがとうございます」
濃い茶髪を一括りにした女性・エレナは一礼し、視線を上げた。そしてオリヴィアの方を向き、同じように深くお辞儀をする。彼女もまた、小柄な女性でありながらも、デュアルの側近としてこの国に仕える騎士であった。その後で工房の中を珍しそうに見回すが、物には触れない。距離の取り方を心得ている。
「昨日、井戸の水を見てきました」
「どうだった?」
「子どもが泣かずに飲めたと。村の人たちが言っていました」
シリウスはそれを聞き、少しだけ目を細めたあと、にっこりと微笑みを浮かべる。
「それは、よかった」
短い言葉だが、軽くはない。
オリヴィアは、その場の空気がわずかに和らぐのを感じていた。シリウスが発案する技術、そしてそれを実現させる腕。それはすべて未来のためであり、人の暮らしが豊かになればという思いから来ている。もちろん、オリヴィアもその思想に深く賛同していた。
「それで例の国境伝いの村、次に水汲み浄化機構を置く計画をしている場所ですが」
デュアルが話を戻す。
「北の小民族国の影が、密かに偵察に来ていると暗部から報告が上がりました。国王陛下および王太子殿下には伝達済でありますが、シリウス殿下にも、軍備の補強をお願いできましたら」
「ああ、なるほど。あまり気は進まないな。連射銃は、方向を間違えれば無用な血が流れてしまう」
「はい。仰せの通りです。連射銃を持つのは、選り抜きの近衛のみ。無作法者に預けるつもりはありません」
「そうだね。なるべく使わない方向で動いてほしい」
「心得ております」
「それと」
そこまで黙って聞いていたエレナが、二人の会話に加わった。
「現地の人を集めます。水が出ると分かれば、そこを拠点にも出来るはずですので」
「そうだね。ただし、戦地にはしないでほしい。極力、被害を出さないようにね」
シリウスの言葉に、デュアルとエレナは胸に手を当て、軍人の礼で応えた。
天窓の外で鳥が鳴いた。
朝の光が少しずつ角度を変え、金属の色合いも移ろっていく。
四人は同じ部屋に立ちながら、見ているものはそれぞれ違う。
それでも、この時だけは、同じ場所に足を置いていた。
極光の工房は、静かに息を続けている。
遠くの方で、朝の始まりを告げるように『極光号』と名付けられた蒸気機関車の音が鳴るのが聞こえた。
王宮の最深部、昼でも人の往来が驚くほどに少ない回廊の突き当たり。その扉の前に、公女オリヴィアは侍女を伴って立っていた。
「では、ちょっと行ってくるわね。戻るまで……そうね、いつものように過ごしていて構わないわ。今日は少し時間がかかるかもしれないから」
「畏まりました。お嬢様、いってらっしゃいませ」
侍女は深く頭を下げ、扉を開ける。
オリヴィアは軽く頷くと、その中へと入った。
扉は音もなく閉まる。
扉をくぐった先は、明るい。天窓から落ちる光が、机の上に置かれた金属を淡く照らしている。紙の束が重なり、黒板には消しきれない線が残り、床には細い管や配線が伸びていた。整然としているとは言えないが、歩く場所に迷うことはない。
この部屋は、そういう風に使われてきた。
奥で、白い蒸気が立ち上っている。
その向こうに立つのは、この国の第二王子・シリウス、公爵令嬢であるオリヴィアの婚約者だ。
王国一の美丈夫と称えられ、『極光の貴公子』と呼ばれる貴き人。碧い瞳は澄み渡る海の色に似ているが、今は机の上に置かれた小さな部品に向けられている。視線は穏やかではあるが、その手の指先の動きには無駄がない。
オリヴィアは声を掛けなかった。今は、その必要がないと弁えている。
シリウスは歯車を一つ手に取り、机の上で何度か持ち替えている。置いては確かめ、外しては角度を変える。動きはゆっくりだが、途切れない。迷っている様子もない。
金属が触れ合う、小さな音が続く。
オリヴィアは黒板の前に立ち、白墨を取った。昨日、自身が書いた式をなぞり、数値を一つだけ書き換えた。暫く見つめ、それで足りると判断すると、満足の笑みを零し白墨を戻した。
その数字の羅列はシリウスのためのもの。天文学を得意とする彼女が導き出した、星々の運行図でもあった。
ふと足元を見ると、水を張った鉢がわずかに揺れている。鉢に浮かぶ水面ではなく、床が振動しているのだと分かる。遅れて、机の端から白い湯気が立ち上がった。
「ごめん、ちょっとこの姿勢のままでいい?」
シリウスが、こちらを見ずに聞いた。オリヴィアの相手を出来ないことを詫びているのだろう、そうすぐに汲み取れた。
「ええ。構いませんわ。そのままお続けくださいませ」
「助かる」
それだけで会話は終わる。この部屋ではそれで足りた。シリウスが作業している間は、長い会話は反って邪魔になる。
オリヴィアは黒板近くに置いてある椅子に腰を下ろすと、その横にある小さな机にバラバラに積まれてあった紙の束を手に持った。
そこには様々な数式や、理論が所狭しと書き込まれている。が、才女と呼ばれているオリヴィアであっても、そこから読み取れるものは多くない。
それでも、その紙を愛おしく思えるのはきっと、シリウスが書いては苦悩し、正していった痕跡と、彼の想いが見て取れるからなのだろう。
オリヴィアは一枚一枚手に取り、そこにある筆跡を撫でながら、丁寧に紙を整えて積んでゆく。
二人がそうやって過ごしていると、扉の外から足音が聞こえ、それが止まると控えめな声が響いた。
「シリウス殿下。近衛将校デュアル、入室の許可を願います」
「どうぞ」
返事をした一拍後に扉が開き、軍服姿の男が一歩踏み込んだ。
デュアルは中を見渡し、並ぶ金属や見慣れない形に一瞬だけ視線を彷徨わせてから、姿勢を正す。
「オリヴィア嬢もいらしたのですね。ご機嫌麗しゅう」
そう言ったデュアルは、被っていた帽子を取ると、そこから現れた燃えるような赤髪を垂らし、丁寧にお辞儀をした。
「デュアル卿、ご機嫌よう」
オリヴィアもそれに応え、微笑みをデュアルに向けた。
「それにしても……相変わらず、この部屋は落ち着きません」
デュアルの正直な感想なのだろう。日常とは切り離された空間に足を踏み入れたときの、あの感覚。そういったものを、きっと感じ取っているのだ。
「そうだろうね」
シリウスはそこでやっと歯車を机に置き、振り返る。表情は穏やかだ。
「でも、俺はここが一番落ち着くんだよ」
デュアルは小さく息を吐いた。
「でしょうね」
皮肉はない。ただの納得だ。続いて、淡い赤色の外套をまとった背の低い令嬢が、ひょっこりと姿を現した。
「殿下、お時間をいただき、ありがとうございます」
濃い茶髪を一括りにした女性・エレナは一礼し、視線を上げた。そしてオリヴィアの方を向き、同じように深くお辞儀をする。彼女もまた、小柄な女性でありながらも、デュアルの側近としてこの国に仕える騎士であった。その後で工房の中を珍しそうに見回すが、物には触れない。距離の取り方を心得ている。
「昨日、井戸の水を見てきました」
「どうだった?」
「子どもが泣かずに飲めたと。村の人たちが言っていました」
シリウスはそれを聞き、少しだけ目を細めたあと、にっこりと微笑みを浮かべる。
「それは、よかった」
短い言葉だが、軽くはない。
オリヴィアは、その場の空気がわずかに和らぐのを感じていた。シリウスが発案する技術、そしてそれを実現させる腕。それはすべて未来のためであり、人の暮らしが豊かになればという思いから来ている。もちろん、オリヴィアもその思想に深く賛同していた。
「それで例の国境伝いの村、次に水汲み浄化機構を置く計画をしている場所ですが」
デュアルが話を戻す。
「北の小民族国の影が、密かに偵察に来ていると暗部から報告が上がりました。国王陛下および王太子殿下には伝達済でありますが、シリウス殿下にも、軍備の補強をお願いできましたら」
「ああ、なるほど。あまり気は進まないな。連射銃は、方向を間違えれば無用な血が流れてしまう」
「はい。仰せの通りです。連射銃を持つのは、選り抜きの近衛のみ。無作法者に預けるつもりはありません」
「そうだね。なるべく使わない方向で動いてほしい」
「心得ております」
「それと」
そこまで黙って聞いていたエレナが、二人の会話に加わった。
「現地の人を集めます。水が出ると分かれば、そこを拠点にも出来るはずですので」
「そうだね。ただし、戦地にはしないでほしい。極力、被害を出さないようにね」
シリウスの言葉に、デュアルとエレナは胸に手を当て、軍人の礼で応えた。
天窓の外で鳥が鳴いた。
朝の光が少しずつ角度を変え、金属の色合いも移ろっていく。
四人は同じ部屋に立ちながら、見ているものはそれぞれ違う。
それでも、この時だけは、同じ場所に足を置いていた。
極光の工房は、静かに息を続けている。
遠くの方で、朝の始まりを告げるように『極光号』と名付けられた蒸気機関車の音が鳴るのが聞こえた。
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