〖完結〗終着駅のパッセージ 

苺 迷音

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16 夏の冷静と熱気

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 普段から同僚たちともよく行くバルは、夕暮れ時から賑わい始める。

 この日、ローランとブリジットは奥まった席を選んだ。他の仲間は誘わなかった。ブリジットがそう望んだからだ。

 店内はいつもと変わらず、焼き焦がした肉の、芳ばしい匂いが充満していた。
 
 天井から伸びる幾本もの安っぽいガス灯の明かりが、バルの雰囲気をより軽快なものにしていた。
 大きな丸天板を置いた木樽製のテーブルには、無数の刀傷のような跡がついていて、よく見れば、賭けの計算や印の跡だとわかる。中には女性の名前が彫られていたりもする。酔った客の色んな時間が、そこには刻まれていた。

 ブリジットはテーブルの向かいの席で、薄いエール酒の杯の中に指先を入れ、くるくるとゆっくり回していた。
 
 少し前に、彼女も里帰りをしていたはずだ。
 それ以来、戻ってきてからどこか覇気がないように見える。そのことが、気にはなっていた。

「どうかしたのか?」

 ローランから声をかけると、彼女は少しだけ顔を上げた。

「何でそう思うの?」

「お前の顔が、浮かないような気がする」

「へぇ?」

 ブリジットが唇の端だけで笑う。が、いつものからっとした快活さがない。

「よく見てくれてるのね」

「で、何かあったのか?」

 ブリジットは答えなかった。

 代わりにエール酒を指先で搔きまわすのをやめ、杯を口に運んで一口含んでから、再び視線を落とした。

 店から聞こえてくる、男たちの大きな話し声や、笑い声の中に交じる手を叩く音。夏の開放感がそうさせるのか、立ち呑み側のバルテーブルでは、太い腕と腕を絡ませ、拳を握り合って力試しを始める輩たちが目に入った。

 そんな喧騒の声に紛らわせるように、ブリジットが呟いた。

「初恋の人がいたの……その人ね、結婚して子供も出来てた」

 その言葉が、なぜか胸を突いた。ブリジットに好きな人がいた。
 それが思いのほか、ローランを動揺させる。

 ブリジットに対して、そういう気持ちは抱いていなかったはずだ。彼女は気の合う同僚であり、剣を交える好敵手であり仲間、それ以上ではなかった。

 ならばなぜ、こんな風に感じるのか。
 
 そして次に浮かんだのは、カレンのあの指先だった。

「そいつのこと……今も、好き……なのか?」

 気づけば、そう聞いていた。

「ううん、全然。そう言うんじゃないの」

 ブリジットは首を横に振った。

「その人のことは別に、何とも思ってないわ。初恋って言っても遠い昔だし、結婚も心から祝福してる。そうじゃなくて、」

 彼女はそこで言葉を切り、ローランの方を真っ直ぐに見た。
 ランプの灯りが、彼女の瞳に小さく映り込んでいる。

「結婚ってさ。なんなのかなって」

 ローランには、その言葉の意味が分からなかった。結婚とは何か。自分にも妻がいる。形だけの、顔も見えない妻が。役目だと思って、縁を繋ぐ。制度でもある。中には大恋愛の末、結ばれる夫婦もいるだろう。

 だが今、なんて声を掛ければいいのか。何を言えば正解なのだろう?
 
 ローランが言葉を探しているうちに、ブリジットが不意に顔を上げた。

 声色が変わった。わざと明るく、高く。

「よし! 今日は呑もう!」

 そう言いながら、空になりかけた杯を掲げてみせる。

「付き合ってよローラン」

 言うが早いか、通りかかった給仕を呼び止め、エール酒を追加していた。





 それからはくだらない話を肴に、何時間も酒を酌み交わした。

 気づけば空の杯がいくつも、テーブルの上に並び、店内の客はまばらで喧騒も落ち着き始めた頃。

 テーブル向こうのブリジットは、完全に酔っていた。頬は赤く染まり、目は潤んでいる。呂律もあやしくなってきた。

「呑みすぎたな。そろそろ、帰るぞ」

「うんー。……帰ろっかあ」

 ローランが立ち上がると、ブリジットも椅子から腰を上げた。だが、足元がふらついて、すぐにバランスを崩す。

「おい、大丈夫か?」

 咄嗟に手を伸ばし、その身体を支えた。

「んー、うん、大丈夫……いける、いける」

 そう言うブリジットだったが、その足には力が込められておらず、一人で歩けるような状態ではない。

 ローランはブリジットの腕を自分の肩に回し、その腰を支えた。ずいぶんと軽い。訓練で組む時には逞しく感じる身体も、こうして抱えてみると、女のものだった。

 店を出ると、夜の風が頬を撫でた。

 夏も終わりに近い。風は既に、秋の匂いを微かに漂わせている。だが、酒で火照った身体にはそれが丁度、心地よかった。

 寄宿舎への道を、二人で歩く。ブリジットはローランに身体を預けるようにして、おぼつかない足取りでついてくる。

 夜空には星が瞬いていた。北の空は澄んでいて、王都よりもずっと多くの星が見える。

「おい、ブリジット。本当に大丈夫か? しっかり歩けるか?」

 もう一度声をかけると、ブリジットは顔を上げた。
 間近で目と目が合う。思ってた以上に顔の距離が近く、驚きの声が小さく漏れて咄嗟に身を引こうとした。

「大丈夫じゃないって言ったら?」

 酔いのせいかその声は、いつもより低く艶を帯びていた。答える間もなく、ブリジットが身体を寄せてくる。

 途端、今まで意識したことのない、甘い香りがローランの顔を覆う。汗と酒の匂いに混じって、どこか花弁のような、酔いを狂わせる香り。訓練で組む時には気づかなかった、女の匂い。

「私ね、ローランが、好き」

 ブリジットの囁くような蠱惑的な声。吐息が、生温かく頬を掠る。
 
 そして、ローランの唇にブリジットの唇が重なった。

 一瞬、身体を離さなければと思った。
 ぶつかってしまったのだろうと思ったから。

 だが、ブリジットの腕が首に回され、引き寄せられる。
 
 事故ではなく、意思のある口づけ。

 お互いの酒の香りが交わり、吐息が絡み合う。
 柔らかな感触と熱い体温。身体の芯が、鼓動が、高鳴ってゆく。

 まだこの時は、ローランの頭の片隅で警鐘が鳴っていた。やめておけと。なのに気づけばもう、身体を離すことが出来なくなっていた。



 街の商店がいくつも並ぶ表通りから隠れた裏通り。そこの安宿の奥まった一角へ、酔いに流されるようにどちらともなく、足を向けていた。

 初めて使うその宿の部屋は、ローランが想像していたよりはずっと清潔だった。

 だがそんな余韻に浸るわけでもなく、扉を閉めるが早いか、ローランとブリジットは抱き合った。

 ブリジットの匂いに心奪われ、肌の温もりを呑みこみ呑まれ、柔らかさに惑わされていってしまう。溺れていく情事に、初めての恍惚感を覚え、同時に愛おしさも芽生え始めていた。

 ひたすら甘い時間に、抗うことも忘れた。

「ローラン、好きなの、好き。奥さんなんていらないでしょ……ねぇ」

 そう繰り返される言葉に、ローランは昂る理由がわかった気がした。

「ブリジット……俺も、好きだ」

 言葉にしてしまうと止められなかった。

 この熱気の中、ローランの頭の内にはもう、妻の存在は形も影も落としていなかった。
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