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20 ロイヤル・エンクロージャー
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風が動くたびに、何かの匂いが届いた。
甘くはないが、薫風の中で瑞々しさを覚える、心地よいもの。
例えるのなら、まだ固い果実の皮を爪で引っ掻いた時のような。水気を含んだ、青の中の酸っぱい香り。だがそれも、仄かに甘さを感じさせる、この時期独特の馨気と言ってもいい。
その香りに導かれるようにカレンが顔を上げると、白いパラソルの向こうに幾本かの木が見えた。枝には青みがかった実がいくつも揺れ、その合間に紫に色づき始めた実も混じっている。プラムの木だ。
ああ、あそこから薫るのね、と、カレンは少し口元が緩む。
この先、強い日差しを浴びるほどにその芳香は甘くなり、その実に自然と手を伸ばしたくなるように魅了するのだろうかと、そこまで考えてそれが、カレンにはハルシオンの甘さと重なって思えた。
深春に結んだ婚約から数か月。
カレンは今日、王家主催の競馬会『ロイヤル・パレード・レイシズ』へと足を運んでいた。
王家とそれに準ずる者、貴賓として正式に招かれた者のみが立ち入りを許される、特別観覧席『ロイヤル・エンクロージャー』は、馬場よりも一段高い位置に設えられている。
そこに置かれているテーブル席の白いパラソルが落とす影の中、カレンの眼下には、鮮やかな緑を惜しみなく広げた芝生が広がっていた。
周囲を見渡せば、トップハットに身を包んだ紳士と、華やかな帽子を被った淑女たちが、抑えた声で社交に興じている。柵の向こうから届く一般席の歓声の波さえも、ここでは場を彩る心地よい高揚感へと変わっていた。
近くの席ではカレンの両親も見知った顔ぶれと挨拶を交わしている。本来ならば公爵であるハルシオンも、この場に集う貴族たちの中心にいるべき立場だった。けれど彼は、初めての競馬会の参加で緊張するカレンを案じるように、その隣に座ったままでいてくれた。
今日の彼は、淡い銀灰のウェストコートに、丁寧に結ばれた白いクレバットという隙のない装いだ。凛とした野性味に交じる甘い横顔。時折こちらを向くその瞳に、周囲の淑女たちの視線が熱を帯びて注がれている。
対するカレンは、淡いラベンダー色のワンピースを選んだ。そこに合わせた色のヘッドピースで頭を飾る。もう、かつてのような手編みの帽子ではない。
胸元で揺れるのは、ダイヤモンドの雪の結晶と、白翡翠のスノードロップ。北の地で、彼が贈ってくれた大切なペンダント。大振りのものではなく、胸元を飾るそれは気品に溢れ、陽を浴びるたびに輝きを増していく。それが一流の物であることは一目で見て取れた。
「よろしいのですか」
社交の務めを案じてカレンが小声で尋ねると、ハルシオンは穏やかに笑った。
「弟が代わりを務めてくれています。今日は私が不在でも、問題ないでしょう」
彼の視線を追うと、少し離れた場所で、兄よりも柔和な顔立ちをした青年が貴婦人たちをあしらっていた。ハルシオンの弟、レイナード卿だ。王都を拠点に公爵家を支える彼の洗練された振る舞いを見ていると、アルヴェルト公爵家がいかに盤石であるかが伝わってくる。
「それはそうと、カレン。顔合わせ、緊張していますか?」
ハルシオンが、カレンの瞳を覗き込むように問いかけた。
「はい。少しだけ」
素直に本音を返す。カレンの脳裏には、この後に対面するであろう人々の顔が浮かんだ。
この国の王太子妃である彼の姉君。王太子殿下はもちろんだが、御子であられる王子・王女殿下方。亡き前公爵夫妻に代わり、手を取り合って家系を守ってきた三姉弟の絆は、あまりに眩しく、畏れ多い。
「あなたなら何も案ずることはありませんよ。大丈夫」
ハルシオンが、テーブルの下でそっとカレンの手に触れた。
「姉上も弟も、あなたに会えることを楽しみにしています。私がどれほど手紙に書いたか、知れたものではありませんから」
「どれほど、ですか? 気になります。どれほど、なのでしょう?」
カレンは思わず小さく笑った。
「……それは、秘密です」
不意をつかれたように赤くなった彼の耳の縁を見て、カレンはさらに声を漏らして笑いを重ねた。
ハルシオンの大きな手は、テーブルの下でカレンの指先をそっと包んだまま、動かない。カレンもまた、その熱から逃げることはしなかった。
プラムの清風が、二人の間を穏やかに吹き抜けていった。
甘くはないが、薫風の中で瑞々しさを覚える、心地よいもの。
例えるのなら、まだ固い果実の皮を爪で引っ掻いた時のような。水気を含んだ、青の中の酸っぱい香り。だがそれも、仄かに甘さを感じさせる、この時期独特の馨気と言ってもいい。
その香りに導かれるようにカレンが顔を上げると、白いパラソルの向こうに幾本かの木が見えた。枝には青みがかった実がいくつも揺れ、その合間に紫に色づき始めた実も混じっている。プラムの木だ。
ああ、あそこから薫るのね、と、カレンは少し口元が緩む。
この先、強い日差しを浴びるほどにその芳香は甘くなり、その実に自然と手を伸ばしたくなるように魅了するのだろうかと、そこまで考えてそれが、カレンにはハルシオンの甘さと重なって思えた。
深春に結んだ婚約から数か月。
カレンは今日、王家主催の競馬会『ロイヤル・パレード・レイシズ』へと足を運んでいた。
王家とそれに準ずる者、貴賓として正式に招かれた者のみが立ち入りを許される、特別観覧席『ロイヤル・エンクロージャー』は、馬場よりも一段高い位置に設えられている。
そこに置かれているテーブル席の白いパラソルが落とす影の中、カレンの眼下には、鮮やかな緑を惜しみなく広げた芝生が広がっていた。
周囲を見渡せば、トップハットに身を包んだ紳士と、華やかな帽子を被った淑女たちが、抑えた声で社交に興じている。柵の向こうから届く一般席の歓声の波さえも、ここでは場を彩る心地よい高揚感へと変わっていた。
近くの席ではカレンの両親も見知った顔ぶれと挨拶を交わしている。本来ならば公爵であるハルシオンも、この場に集う貴族たちの中心にいるべき立場だった。けれど彼は、初めての競馬会の参加で緊張するカレンを案じるように、その隣に座ったままでいてくれた。
今日の彼は、淡い銀灰のウェストコートに、丁寧に結ばれた白いクレバットという隙のない装いだ。凛とした野性味に交じる甘い横顔。時折こちらを向くその瞳に、周囲の淑女たちの視線が熱を帯びて注がれている。
対するカレンは、淡いラベンダー色のワンピースを選んだ。そこに合わせた色のヘッドピースで頭を飾る。もう、かつてのような手編みの帽子ではない。
胸元で揺れるのは、ダイヤモンドの雪の結晶と、白翡翠のスノードロップ。北の地で、彼が贈ってくれた大切なペンダント。大振りのものではなく、胸元を飾るそれは気品に溢れ、陽を浴びるたびに輝きを増していく。それが一流の物であることは一目で見て取れた。
「よろしいのですか」
社交の務めを案じてカレンが小声で尋ねると、ハルシオンは穏やかに笑った。
「弟が代わりを務めてくれています。今日は私が不在でも、問題ないでしょう」
彼の視線を追うと、少し離れた場所で、兄よりも柔和な顔立ちをした青年が貴婦人たちをあしらっていた。ハルシオンの弟、レイナード卿だ。王都を拠点に公爵家を支える彼の洗練された振る舞いを見ていると、アルヴェルト公爵家がいかに盤石であるかが伝わってくる。
「それはそうと、カレン。顔合わせ、緊張していますか?」
ハルシオンが、カレンの瞳を覗き込むように問いかけた。
「はい。少しだけ」
素直に本音を返す。カレンの脳裏には、この後に対面するであろう人々の顔が浮かんだ。
この国の王太子妃である彼の姉君。王太子殿下はもちろんだが、御子であられる王子・王女殿下方。亡き前公爵夫妻に代わり、手を取り合って家系を守ってきた三姉弟の絆は、あまりに眩しく、畏れ多い。
「あなたなら何も案ずることはありませんよ。大丈夫」
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「姉上も弟も、あなたに会えることを楽しみにしています。私がどれほど手紙に書いたか、知れたものではありませんから」
「どれほど、ですか? 気になります。どれほど、なのでしょう?」
カレンは思わず小さく笑った。
「……それは、秘密です」
不意をつかれたように赤くなった彼の耳の縁を見て、カレンはさらに声を漏らして笑いを重ねた。
ハルシオンの大きな手は、テーブルの下でカレンの指先をそっと包んだまま、動かない。カレンもまた、その熱から逃げることはしなかった。
プラムの清風が、二人の間を穏やかに吹き抜けていった。
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