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32 蒼穹に溶ける色
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翌朝、ハルシオンとマグリットは馬で出かけていった。
玄関ホールで侍女と共に二人を見送る。カレンは毛の短い淡いグレーのストールを羽織り、玄関の外に出た。吐く息が白く凍り、冷気に肌がヒュッと縮こまる。
空を仰ぐと、その果てまでも突き抜けるような、蒼穹だった。それを見ていると、己の嫉妬がちっぽけな物のように溶けていく錯覚に陥った。
「行ってらっしゃいませ」
視線を前に戻し声をかけると、馬上のマグリットが手を振った。ハルシオンは軽く頭を下げ、それからカレンを見つめた。何か言おうとしたのか口を開きかけたが、結局片手を挙げただけでそのまま馬の腹を蹴った。
二頭の馬が雪を蹴って走り出す。ハルシオンのいつもの上質な黒い外套が翻り、その隣でマグリットの黒味の深い紅の外套が揺れた。後ろから護衛の騎士たちが続き、一行は雪原の中を駆けていく。
蒼穹の下で、白い雪原の上を黒と深紅が並び、やがて点となって地平線の向こうに呑み込まれていった。
昨夜、大丈夫です、楽しんで来てくださいと言ったのは自分なのに。
その光景が、目に焼き付いて離れなかった。
カレンは気持ちを切り替えるように、大きく深呼吸をすると、侍女の手を借りながら自室に戻った。
ストールを置くと、自室横に併設された個人用の執務室に足をゆっくりと運び、そこの机に向かう。この日は春の挙式後に行われる祝宴、バンケットの食事メニューの最終確認と、楽団や歌劇団の代表との打ち合わせ日程の調整など、細かな作業をこなす予定だった。
羽根ペンを手に取り、書類に目を通す。
北の領主である公爵の婚姻式だ。領民たちへの挨拶がてらパレードと、配布用の祝いの品も用意せねばならない。そちらの方は、警備などの観点もあり、ハルシオンが担当をしてくれている。一般用の配布品は、カレンとハルシオンの想いを込めたものにする予定だ。
マグリットが来訪するまでは、同じ目的に向かい、分担作業ができる幸せを噛みしめていた。
一度目の婚姻の時は、非常に簡素なものだった。
婚姻準備もそこそこに、挙式後の祝宴も、親族親類のみでの食事会。それも形式だけで、お互いが挨拶を交わし、儀礼的な会話をするだけのもの。
それに反して今回は、一から全てカレン自らが関わり、準備を進めていた。
都度、ハルシオンは『カレンはどう思う?』と考えを聞いてくれ、カレンもハルシオンに同じように相談し、意見を仰いだ。そんな時間がいかに贅沢で、幸福なのかと何度も満ち足りた気持ちになった。
だが、どうしてか。今日は何も頭に入ってこない。気がつくと窓の外ばかり見てしまう。あの蒼穹の下、今頃二人はどこを走っているのだろう。何を話しているのだろう。昔みたいに、とマグリットは言った。
これまでも、何度も馬乗りをしあったのだろう。
見送りの時に並んだ色が、カレンの網膜の裏から消えてくれない。
☆
午前の仕事を終える頃、扉を叩く音と共に侍女が入って来た。
「ただいま閣下がお戻りになられました」
「お早いお戻りだったのね。ハルシオン様は、今どちらに?」
「サロンに居られます。向かわれますか?」
「ええ。申し訳ないのだけれども、手を貸してもらえるかしら」
「もちろんでございます」
カレンは書類を整え引き出しに仕舞うと、侍女の手を借りつつ松葉杖を使い、サロンへと向かった。
部屋に入ると、ハルシオンがいた。黒の外套はまだ脱いでおらず、頬が冷気で赤く染まっている。その後ろから、マグリットが続く。深紅の外套の裾には、雪が跳ねたのだろう、所々その深紅の色がさらに濃くなった跡がついていた。
二人は暖炉の前に立ち、その距離は外套が触れ合う程に、とても近かった。
「ああ、寒かった。でも楽しかったわ、ハル」
マグリットが笑いながらハルシオンの腕に手を置いた。その仕草を見た瞬間、カレンは無意識に口を堅く引き結んでいた。
ハルシオンが、部屋に入ったカレンに気付いたのか、こちらを向き嬉しそうに微笑む。
「カレン、ただいま戻りました」
歩み寄ってくるハルシオンの顔を見上げながら、カレンも微笑み返し、前に組んだ手に静かに力を込めた。
「お帰りなさいませ、ハルシオン様」
「雪原がとても綺麗でしたよ。今度、カレンの足が治ったら一緒に行きましょう」
「ええ……」
「ねえハル」
そんな会話をしている中、マグリットの声が割り込んできて、ハルシオンがそちらを向いた。
「あの丘、覚えてる? 昔、二人で石を積んで作った砦の場所。まだあったわよ」
「ああ、あそこか。懐かしいな」
目元を緩めて笑うハルシオンの横顔を、カレンはただ見つめていた。自分には向けられたことのない、無防備な笑み。組んだ手に、さらに力が籠もる。
「石を積んで作ったんだったな。崩れていなかったか」
「雪に埋もれてたけれども、半分くらい残ってたわ」
満足げに笑ったマグリットが、ちらりとカレンを見た。
「カレンさんには悪いけれど、私とハルの、ずっと昔の秘密の場所なの。ああ、それとね? 私たちは結婚を誓った仲。先にハルを見つけたのは私。ごめんなさいね。過去は消せないのよ」
冗談めかした口調だったが、その目は笑っていないように見えた。
ハルシオンの腕に置かれたマグリットの手が、勝ち誇ったように見えて、カレンは視線を伏せることしかできない。
先に見つけた。ずっと昔から。
自分には、その歴史がない。ハルシオンと積み重ねた時間はまだ数年で、こうして共に過ごせるようになってから一年にも満たない。マグリットには何十年もの時間がある。
彼女は、ハルシオンを奪おうとしているのか? と、カレンの脳裏にそんな考えが不意に浮かんだ。同時に、これまで以上の激情が、胸の奥から沸き立ってくるのがわかる。
思い返せば、元夫に離縁状に署名をもらいに行った時にも、同じような場面があった。だがあの時は、一切なかった感情。寧ろ、署名を貰うことだけに必死だった。
その時とは全く違う感情がカレンの身体を駆け巡る。
カレンは何も言えず、マグリットに掛ける言葉も浮かばずにいた。ただ、微笑みを浮かべて口を引き結ぶしか出来ない。何も言えない己にも、苛立ちが募ってゆく。
「マグリット、その言い方は」
その言葉を落としたハルシオンの顔の方に、カレンは視線を向けると、彼の口元から笑みが消えていた。
低いバリトンの声色が、サロンの空気をピリッと震わせた。
「いいのよ、冗談だから。少し疲れたから、休んでくるわ。またあとでね」
ひらひらと手を振りながらマグリットが踵を返し、深紅の外套の裾を翻してサロンを出ていった。
玄関ホールで侍女と共に二人を見送る。カレンは毛の短い淡いグレーのストールを羽織り、玄関の外に出た。吐く息が白く凍り、冷気に肌がヒュッと縮こまる。
空を仰ぐと、その果てまでも突き抜けるような、蒼穹だった。それを見ていると、己の嫉妬がちっぽけな物のように溶けていく錯覚に陥った。
「行ってらっしゃいませ」
視線を前に戻し声をかけると、馬上のマグリットが手を振った。ハルシオンは軽く頭を下げ、それからカレンを見つめた。何か言おうとしたのか口を開きかけたが、結局片手を挙げただけでそのまま馬の腹を蹴った。
二頭の馬が雪を蹴って走り出す。ハルシオンのいつもの上質な黒い外套が翻り、その隣でマグリットの黒味の深い紅の外套が揺れた。後ろから護衛の騎士たちが続き、一行は雪原の中を駆けていく。
蒼穹の下で、白い雪原の上を黒と深紅が並び、やがて点となって地平線の向こうに呑み込まれていった。
昨夜、大丈夫です、楽しんで来てくださいと言ったのは自分なのに。
その光景が、目に焼き付いて離れなかった。
カレンは気持ちを切り替えるように、大きく深呼吸をすると、侍女の手を借りながら自室に戻った。
ストールを置くと、自室横に併設された個人用の執務室に足をゆっくりと運び、そこの机に向かう。この日は春の挙式後に行われる祝宴、バンケットの食事メニューの最終確認と、楽団や歌劇団の代表との打ち合わせ日程の調整など、細かな作業をこなす予定だった。
羽根ペンを手に取り、書類に目を通す。
北の領主である公爵の婚姻式だ。領民たちへの挨拶がてらパレードと、配布用の祝いの品も用意せねばならない。そちらの方は、警備などの観点もあり、ハルシオンが担当をしてくれている。一般用の配布品は、カレンとハルシオンの想いを込めたものにする予定だ。
マグリットが来訪するまでは、同じ目的に向かい、分担作業ができる幸せを噛みしめていた。
一度目の婚姻の時は、非常に簡素なものだった。
婚姻準備もそこそこに、挙式後の祝宴も、親族親類のみでの食事会。それも形式だけで、お互いが挨拶を交わし、儀礼的な会話をするだけのもの。
それに反して今回は、一から全てカレン自らが関わり、準備を進めていた。
都度、ハルシオンは『カレンはどう思う?』と考えを聞いてくれ、カレンもハルシオンに同じように相談し、意見を仰いだ。そんな時間がいかに贅沢で、幸福なのかと何度も満ち足りた気持ちになった。
だが、どうしてか。今日は何も頭に入ってこない。気がつくと窓の外ばかり見てしまう。あの蒼穹の下、今頃二人はどこを走っているのだろう。何を話しているのだろう。昔みたいに、とマグリットは言った。
これまでも、何度も馬乗りをしあったのだろう。
見送りの時に並んだ色が、カレンの網膜の裏から消えてくれない。
☆
午前の仕事を終える頃、扉を叩く音と共に侍女が入って来た。
「ただいま閣下がお戻りになられました」
「お早いお戻りだったのね。ハルシオン様は、今どちらに?」
「サロンに居られます。向かわれますか?」
「ええ。申し訳ないのだけれども、手を貸してもらえるかしら」
「もちろんでございます」
カレンは書類を整え引き出しに仕舞うと、侍女の手を借りつつ松葉杖を使い、サロンへと向かった。
部屋に入ると、ハルシオンがいた。黒の外套はまだ脱いでおらず、頬が冷気で赤く染まっている。その後ろから、マグリットが続く。深紅の外套の裾には、雪が跳ねたのだろう、所々その深紅の色がさらに濃くなった跡がついていた。
二人は暖炉の前に立ち、その距離は外套が触れ合う程に、とても近かった。
「ああ、寒かった。でも楽しかったわ、ハル」
マグリットが笑いながらハルシオンの腕に手を置いた。その仕草を見た瞬間、カレンは無意識に口を堅く引き結んでいた。
ハルシオンが、部屋に入ったカレンに気付いたのか、こちらを向き嬉しそうに微笑む。
「カレン、ただいま戻りました」
歩み寄ってくるハルシオンの顔を見上げながら、カレンも微笑み返し、前に組んだ手に静かに力を込めた。
「お帰りなさいませ、ハルシオン様」
「雪原がとても綺麗でしたよ。今度、カレンの足が治ったら一緒に行きましょう」
「ええ……」
「ねえハル」
そんな会話をしている中、マグリットの声が割り込んできて、ハルシオンがそちらを向いた。
「あの丘、覚えてる? 昔、二人で石を積んで作った砦の場所。まだあったわよ」
「ああ、あそこか。懐かしいな」
目元を緩めて笑うハルシオンの横顔を、カレンはただ見つめていた。自分には向けられたことのない、無防備な笑み。組んだ手に、さらに力が籠もる。
「石を積んで作ったんだったな。崩れていなかったか」
「雪に埋もれてたけれども、半分くらい残ってたわ」
満足げに笑ったマグリットが、ちらりとカレンを見た。
「カレンさんには悪いけれど、私とハルの、ずっと昔の秘密の場所なの。ああ、それとね? 私たちは結婚を誓った仲。先にハルを見つけたのは私。ごめんなさいね。過去は消せないのよ」
冗談めかした口調だったが、その目は笑っていないように見えた。
ハルシオンの腕に置かれたマグリットの手が、勝ち誇ったように見えて、カレンは視線を伏せることしかできない。
先に見つけた。ずっと昔から。
自分には、その歴史がない。ハルシオンと積み重ねた時間はまだ数年で、こうして共に過ごせるようになってから一年にも満たない。マグリットには何十年もの時間がある。
彼女は、ハルシオンを奪おうとしているのか? と、カレンの脳裏にそんな考えが不意に浮かんだ。同時に、これまで以上の激情が、胸の奥から沸き立ってくるのがわかる。
思い返せば、元夫に離縁状に署名をもらいに行った時にも、同じような場面があった。だがあの時は、一切なかった感情。寧ろ、署名を貰うことだけに必死だった。
その時とは全く違う感情がカレンの身体を駆け巡る。
カレンは何も言えず、マグリットに掛ける言葉も浮かばずにいた。ただ、微笑みを浮かべて口を引き結ぶしか出来ない。何も言えない己にも、苛立ちが募ってゆく。
「マグリット、その言い方は」
その言葉を落としたハルシオンの顔の方に、カレンは視線を向けると、彼の口元から笑みが消えていた。
低いバリトンの声色が、サロンの空気をピリッと震わせた。
「いいのよ、冗談だから。少し疲れたから、休んでくるわ。またあとでね」
ひらひらと手を振りながらマグリットが踵を返し、深紅の外套の裾を翻してサロンを出ていった。
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