〖完結〗終着駅のパッセージ 

苺 迷音

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36 北のウェディングドレス

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 マグリットが去ってから数週間が経ち、挙式まではひと月を切っていた。

 準備もいよいよ佳境を迎え、城の中は慌ただしさを増している。招待状の返事が続々と届き、祝宴の席順が決まり、楽団との最終打ち合わせも終えた。領民へのパレードのルートも確定し、配布用の祝いの品も倉庫に積み上げられている。

 カレンの足の負傷もほぼ治り、歩くのにも杖が必要なくなっていた。
 ハルシオンはそのことを喜びつつも「少し残念だ」と、寂しそうに言い、「時々は、カレンを抱えながら歩かせてほしい」と、カレンにとって恥ずかしい提案をしてきたりもした。

 季節は冬から春へと移ろい始め、窓の外では、雪原のあちこちに土の色が覗き始めている。芽吹きの風を肌で感じるその日は、カレンのウェディングドレスのフィッティングを行っていた。

 城のパブリックサロンのひとつが、今はカレンの挙式準備専用の部屋として使われている。大窓からの光がよく入り、広さも十分。家具は端に寄せられ、中央に作業スペースが作られていた。

 サロンには、クチュール店のオーナーを中心に、熟練の職人の女性たち、公爵家付きの侍女、メイドたちが集まっている。全員がカレンの周囲で、静かに、しかし活気ある手仕事を進めていた。

 カレンは部屋の中央に立ち、白いドレスを身に纏っている。

 この布地は、カレン自身が拘ってお願いした物だった。北の地で織られた白い雪のような色を宿す布。王都の豪奢な絹ではなく、この地の職人たちが丹精を込めて織り上げた一反だった。

 ハルシオンは最初、王都から最高級の布地を取り寄せようとしていた。だがカレンはそれに、強く首を振った。

「私は、この北の地に嫁ぐのです。ここで織られた布を纏わずに、花嫁にはなれません」
 
 そう言った瞬間、ハルシオンがカレンの両手を取り、自分の胸元に引き寄せた。そのまま両手で強く握りしめる。彼の脈打つ鼓動は速く、それがカレンの指先に伝わってきた。ハルシオンの口元は喜びに綻び、目はうるると潤ませている。最近よくみるハルシオンのこの甘い顔に、カレンはとても弱い。色気が半端ないのだ。

「……ありがとう、カレン」

 額をそっとカレンの額にコツンと当てながら、ハルシオンは目を閉じた。
 カレンも高鳴る鼓動を感じつつも「こちらこそ」と、鼻先が触れ合いそうな距離で微笑み合った。

 そんな思い入れの強い生地で誂えたドレス。細身ながらもスカートはふわりと広がる。前は床に触れるか触れないかの長さで、つま先がちょうど隠れる程度。後ろは長く引き摺るトレーンが広がり、優雅にまっすぐに伸びている。
 腕を長袖のレースが包む。デコルテから鎖骨にかけては、繊細なレースが肌を透かし、胸元は浅いストレートカット。全体に、美しさと女性らしさを際立たせる気品があった。

 背中は浅いVライン。その中央、上から下まで縦に布で包まれたボタンが、十個並べられてああり、中にはダイヤが一粒ずつ埋め込まれていた。
 北の鉱山で採れたダイヤをあしらったそのボタンは、ハルシオンが用意したものだった。クチュール店のオーナーが『愛の証でございますね』と微笑んだ時、カレンは顔を真っ赤にしてしまった。

 裾には銀糸で編まれた極細のスノードロップの刺繍が施されていた。花の形を描いた繊細なもので、前の裾は控えめに、横へ行くにつれて少しずつ増え、後ろのトレーンには最も密に散りばめられている。遠目には無地に見えるが、近づくと息を呑むほど細かい。光が当たると銀糸が光り、歩くたびに刺繍が揺れながら煌めく。

 北の職人たち一人一人の手仕事が重なり、この一着が生まれた。公爵夫人として北の地に立つための、格式と品格を備えた花嫁衣装。
 カレンの為に、皆が想いを込めて仕立ててくれたものだ。それを着て、嫁ぐことを考える度に、カレンは目頭が熱くなった。

「カレン様、少し右を向いていただけますか」

 オーナーの声に従い、身体の向きをゆっくりとした動作で変える。職人の一人が裾の長さを確認し、別の一人が袖口のレースの広がりを整えた。

 横に置かれたトルソーの首元には、ヴェールがかけられていた。これは譲れないと、ハルシオンが用意した極上のレースだ。
 
 北の地には、花嫁のヴェールの縁を女性たちが一針ずつ縫い留めるという習わしがある。北の冬は厳しい。だからこそ皆が、力を合わせて越え、支え合って生きていく。侍女、職人、公爵家に仕える者、皆が針を持ち、花嫁が幸せになりますようにとの祈りを込めて、ひとり一針だけを縫うのだ。
 ヴェールの縁には、何十もの願いが細かな針目となって連なっていた。光に透かすと、繊細な模様が浮かび上がり、まるで雪の結晶が連なっているように見えた。

「とても美しいですわ、カレン様」

 侍女の一人が、ほぅと感嘆の声を上げる。
 他の者たちも頷き、カレンは少し照れつつも微笑んだ。

 その時だった。

 廊下から、何やら騒がしい声が聞こえてきた。

「いけません! 閣下!」

「……なぜだ」

 ハルシオンのバリトンの声。

「挙式前に、花嫁姿を見てはならないというしきたりが……!」

「しきたりは知っている。だが」

「駄目です! 絶対に駄目です!」

 侍女たちが必死に押し留めているようだったが、ハルシオンの声はどんどん近づいてくる。

 サロンの中にいた者たちが、困ったような顔で視線を交わした。オーナーがカレンの方を向き、小さく首を傾げる。

「カレン様、どうなさいます?」

 カレンは少し考えてから、口元を緩めた。

「この布地は……北の皆さんと閣下がご用意くださったものですもの。見ていただいた方が、いいのかもしれませんね」

 それにオーナーが苦笑を浮かべて頷き、扉の方へ声をかけた。

「閣下、お入りになっても構いませんよ。若奥様のお許しが出ました」

 押し問答がピタリと、止まった。

 やがてゆっくりと扉が開く。

 ハルシオンが一歩、サロンに足を踏み入れた。そして、こちらを向いたまま、彼の歩みは完全に固まった。

 カレンはドレス姿のまま、その場に立っていた。
 大窓から差し込む春の麗らかな陽光が、白い生地を透かし、カレンの白い肌に馴染んでいる。

 ハルシオンの視線が、カレンに釘付けになったまま動かない。瞬きもせず、口を小さく開閉し言葉を探しているのだろうことが、離れた場所からでも分かった。

「ハル……? どうでしょうか。似合っていますか?」

 カレンは照れながらも小首を傾げ、微笑を浮かべて声をかけた。

 ハルシオンは数秒ほど黙ったままだったが、漸く掠れたような声を絞り出す。

「……最高に美しい、では足りない」

 小さく呟くような声。

「それ以上の言葉を探しているのに……知らないんだ。どう言えばいい……? カレン」

 それを聞いてカレンの頬が一気に熱くなり、思わず両手で顔を覆う。
 
 クチュール店のオーナーは、満足げに微笑んでいた。

「そうでございましょう? 閣下。わたくしもこれ以上、完璧で美しい花嫁様を見たことがございませんわ」

 ハルシオンはゆっくりとカレンに歩み寄り、その姿を見つめ続けていた。灰色の瞳が、カレンの顔から金の髪へ、髪からヴェールへ移り、ヴェールからドレスへと戻る。

 そして、その視線が胸元で止まった。

 しばらく黙っていたハルシオンが、少しだけ眉を顰めて不意に口を開いた。

「……ここを」

 そっとカレンの胸元に、ハルシオンが指を置いた。思わぬ行動に、カレンの鼓動が強く脈打つ。
 そして、彼は僅かに声を上擦らせながら訴えた。

「もう少し……緩めてくれないか」

 それを聞いたオーナーが、すぐさま眉を上げ反論をする。

「緩めるとラインが崩れますよ、閣下」

「いや、だが、胸元を強調しすぎる。駄目だ」

「このデザインは、この胸元の形があってこそ美しいのです。緩めてしまっては台無しです」

 侍女たちも加勢した。

「そうですわ、閣下。このままが一番お綺麗です」

「ラインを崩すなんて、もったいないですわ」

 ハルシオンの顔が、少しずつ赤くなっていく。それでも、彼は譲らなかった。

「……駄目だ。これは譲れない」

 顔と耳を赤くしながらも、彼は力なく言葉を継ぐ。

「隠したいんだ」

 その言葉に、サロンが静まり返った。

 ハルシオンは、カレンを真っ直ぐに見つめたまま続けた。

「私だけが……。他の男に見せるなんて……たとえドレスであっても、強調するのは……あり得ない」

 カレンの鼓動が跳ねる。見つめ合ったままで、お互いに顔が赤くなってゆくのがわかる。

 職人たちが目を丸くし、若い侍女たちは黄色い声を小さく上げて、きゃあきゃあ言っている。オーナーは、深いため息をついた。

「……まったく。閣下は、困った方ですね」

 それでも、その声には呆れよりも温かさが滲んでいた。

「では、少しだけ。本当に少しだけですよ? レースを足しましょうか」

 ハルシオンが、ほっとしたように肩の力を抜いた。

 カレンは鏡に映る自分の姿と、その横に立つハルシオンを見つめた。白いドレスに包まれた自分。それを宝物を見るような目で見つめてくれる人。

「ハル」

 小さく呼びかけると、ハルシオンが「はい」と返事をする。

「いつも、ありがとう」

 何に対しての礼かも、いつも、なのかも、具体的には言えない。だが、その言葉をカレンは、ハルシオンに今、伝えたかった。傍に居てくれること、いつも一番に考えてくれていること、何より大事に思ってくれていること。多分、その全てだ。

「こちらこそ」
 
 ハルシオンの灰色の瞳が柔らかく緩み、その口元には綺麗な弧が描かれた。
 いつものやり取り。だがそれがとても心地良かった。
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