〖完結〗終着駅のパッセージ 

苺 迷音

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38 カササギとタンポポ

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 連れ出されたのは、詰所砦の端だった。周りを針葉樹に囲まれた一角で、日当たりが悪いせいか、雪がまだ所々に残っている。土が露出した部分はぬかるんでいて、踏み込むと靴底が泥に沈んだ。石壁の隅には使われなくなった木箱が積み上げられ、錆びた槍や盾が無造作に立てかけられている。

 ブリジットが腕を離し、ローランの方へ向き直った。

「ねぇ、ローラン。あなたおかしいわよ?」

 ローランはその声から逃げるように、視線を足元に落とす。靴の先が、溶けかけの雪を踏んでいる。ぬかるんだ土の隙間から、蒲公英タンポポの黄色い花とギザギザに広がる葉が顔を覗かせていた。

「さっきからずっと黙って……あの新聞見ながら、ずっと……」

 ブリジットの声が途切れた。どこかで、カササギが鳴いている。カッ、カッ、カッという、甲高い声。あぁ、春が来たんだなと、ローランはぼんやりとそう思った。

「カレン……まさか」

 顔を覗き込まれ、ブリジットの瞳と視線がぶつかった。

「え? まさか……カレンって……あなたの元奥さん、なの?」

 何か言おうとしたが、ローランの口から言葉は出てこずに、ただ溜め息だけが漏れた。ブリジットの視線は刺さるように痛くて、思わず顔を背けた。石壁の根元にも、蒲公英の白い綿毛が膨らみかけているのが目に入った。正直、ブリジットの言葉のどれもが、ローランにとって心底どうでもよかった。

「嘘でしょ……? あの地味女が、本当に閣下の奥様なの?」

 ローランは、重い息を吐くと漸く口を開いた。

「ああ」

 それ以上の言葉は出てこない。ただ、目に映る足元の雪解け水が、靴の縁を濡らしている。
 そうしていると、

「離縁してから、あなたおかしいわよ!」

 急にブリジットの甲高い声が、静かな砦の裏手に響き渡った。鵲が驚いたように飛び立ち、針葉樹の枝から僅かに残っていた雪の塊が落ちる。

「私とも全然寝てくれないじゃない! 触ってもくれない! 私を見てもくれない!」

 堰を切ったように、ブリジットの口から言葉が溢れ出していく。その声を聞きながら、ローランは目線を足元に落としたまま、動かすこともせずにいる。

「私を選んだんでしょう? ねえ? あの地味女じゃなくて、私を選んだんでしょう!?」

 ブリジットが、ローランの両腕を掴みその身体を揺らすが、されるがままで、足も身体も重く感じ、そこから逃れるのも面倒だった。

「ねえ、言ってよ! 私のこと愛してるって言ってよ! あの女より私の方がいいって言ってよ!」

 ブリジットの拳が胸を叩く。何度も、何度も。冬用の騎士服越しでも、その衝撃は鈍く伝わってきた。

「なんで黙ってるのよ! なんで何も言ってくれないのよ!」

「……お前も、他の奴等と親密にしてるから、安心していたんだ」

 やっと言葉を落としたローランの声に、ブリジットの拳が止まった。彼女の腕が、宙に浮いたまま固まっている。

「はぁ? 安心って何!? ローラン、あなたそんな私を見て、嫉妬しなかったの!?」

「嫉妬?」

 ローランの口の端が勝手に持ち上がった。笑いとも呼べないような、力のない形。

「するわけがないだろ?」

『嫉妬』
 その言葉が頭の中で反響した瞬間、脳裏にある光景が浮かび上がった。

 あのそりの事故の時。雪の中を駆けつけたハルシオンが、怪我をしたカレンを愛おしそうに抱きかかえていた。灰色の瞳は彼女だけを映し、その腕は決して離すまいとするように見え、そしてカレンは、その腕の中で安堵の表情を浮かべていた。
 自分には一度も向けられたことも、見たことも無い、心からの信頼を滲ませた顔で。

 あの時、確かに嫉妬した。激しく胸の奥が焼けるような感覚が、今でも残り続けている。

 そしてローランは、ゆっくりと首を振った。

「いや……俺は嫉妬すらする資格のない男だよ」

 ブリジットの眉が寄せられ、困惑の色が広がっていく。

「資格って何? 私のこと好きだったんじゃないの?」

 身体を揺さぶられ、胸を思いきり叩かれたローランは、その残響を感じながらも肩を竦めるしかなかった。

「ねえ、好きだったんでしょう? だから私を選んだんでしょう?」

「……わからん」

 口から出た言葉はそれだけで、それ以外に言い様もなかった。

 好きだったのか、何を求めていたのか、何を失ったのか。全て頭の中を探っても、何も掴めないし、わからない。霧の中を手探りで歩いているような感覚だった。

 自分の気持ちであるはずなのに、全くわからないのだ。

 ブリジットの目から、涙が零れ落ちていた。頬を伝い、顎から滴となって落ちていく。

「……最低。私は、あの地味女より、下ってことなの……? あれより劣っているの? 閣下もあっちを選んだって……いうの?」

 彼女のその声は、小さいながらも、怒りや苛立ちを含むような震える声だった。

「最低よ、あなた」

 ブリジットは踵を返し、ぬかるんだ地面を踏みしめながら去っていった。

 遠ざかる足音がびちゃびちゃと、湿った土を踏む音と混ざり合う。石壁の冷たさが背中に染み込んでくる中、その音を聞いていた。追いかけようという気持ちは湧いてこない。

 やがて足音が消え、砦の裏手には静寂だけが残った。

 顔を上げると、針葉樹の隙間から青空が見えた。雲ひとつない、澄み切った色。
 日差しは麗らかなのだろう。眩しさに目を少し細めた。


 自分が捨てたはずの女が、幸せになろうとしている。
 自身の上官の腕の中で、公爵夫人として迎えられようとしている。

 祝福する気持ちにはなれなかった。

 腹立たしさや苛立ちは通り越し、何故、素顔を見せなかった? 向き合えなかった? という想いも、過ぎ去って。

 今はただ、虚しさだけはハッキリと自覚できた。

 これからはお互い交わることもなく、元夫婦というあったのか無かったのかもわからない関係でもなく、別々の道を歩む。

 彼女が自分の横に並ぶことは、二度とないのだ。
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