41 / 47
41 あの丘へ
しおりを挟む
挙式まであと二日となったその日。城の中は慌ただしさの頂点にあった。
招待客の到着が相次ぎ、玄関ホールには新たな祝いの品が次々と運び込まれている。厨房では祝宴の料理の仕込みが始まり、廊下を行き交う仕え人たちの足音が絶えることがない。
そんな慌ただしさの中、ヒューゴとシャルロッテは城の人気者になっていた。厨房に忍び込んでは料理長に追い出され、ヴェール持ちの練習だと言って布を侍女に被らせて、廊下を行進する。その無邪気さと愛らしさで城中の者を翻弄し、時には癒し、忙しさでピリピリとしていた空気を和ませていった。
リュシアナもその後、城の侍医の診察を受けた。結果は、彼女の予想していた通りだった。三人目の命が、その身に宿っている。
その報せを速達で受け取ったのだろう。王太子殿下は予定よりも数日早く、北の地に到着した。馬車から降り立った殿下は、出迎えたリュシアナの姿を見るなり、澄んだ青い瞳から大粒の涙を流した。言葉を掛けるより早く、リュシアナを抱きしめ、何度も何度も頬に口づけを落としている。
普段は堂々とした王太子が、人目も気にせず妻を抱きしめて泣いている。カレンは思わず両手を胸の前で組んだ。いつか自分たちも、ああなれるだろうか。と、微笑ましさと憧れをその胸に抱きながら。
「既に二人、子がいるのに。あんなに泣いて。王太子殿下も変わらないなぁ」
と、ハルシオンが苦笑を浮かべ、小さく呟いた。
「それほどに、嬉しいのですよ。子は宝ですもの」
そう言ったと同時に、隣に立っていたハルシオンが、そっとカレンの頬に唇を寄せた。
「私たちも、姉上夫妻のように……いや、それ以上の夫婦になりましょう」
耳元で囁かれ、カレンは思わず俯いた。ハルシオンの笑う気配が、すぐ傍で感じられた。
☆
その翌日。婚姻式が行われる前々日のことだった。
カレンは朝から執務室に籠もり、最後の確認作業に追われていた。明日にはもう、当日の為の準備に入る。その為、今しか時間がないとばかりに、羽根ペンを走らせる手を動かし続けていた。
ふと手を止め、時計を見る。針は頂点近くを指そうとしていた。
もうそんな時間なのと、そう思った時、執務室の扉が静かに開いた。
「カレン」
ハルシオンの声だった。顔をそちらに向けると、春用の乗馬服に軽い上着を羽織ったハルシオンが、扉の前に立っていた。
「少し、付き合ってもらえませんか?」
「今からですか? でも、まだ確認が……」
「残りは侍女たちに任せましょう。それに私の側近もいます。大丈夫、彼らは優秀ですよ」
ハルシオンがカレンの傍まで歩み寄り、手からそっと羽根ペンを取り上げて机に置いた。
「夫婦になる前の、最後の時間を頂けませんか? 未来の私の奥様」
その言葉に、カレンの胸と喉がきゅっと締まる。二日後には、ハルシオンの妻になる。
「……はい」
小さく頷くと、ハルシオンの口元が分かりやすく綻んでいった。
ハルシオンにエスコートされながら、城の裏手に回ると一頭の黒馬が用意されていた。ハルシオンがカレンの前に立ち、手を差し伸べる。
「カレン、こちらへ。おいで」
その手を取ると、カレンの小さな驚きの声と共に、引き上げられて馬上に乗せられる。ハルシオンが後ろから跨がり、カレンを腕の中に収める。背中に彼の胸板の温もりが伝わってきた。片腕が腰に回され、もう片方の手が手綱を握る。
「しっかり掴まっていて」
カレンの耳元でハルシオンは囁くと、馬の腹を軽く蹴った。
黒馬はゆっくりと動き出す。
城を離れ、雪解けの道を進んでいく。小川の縁には菜の黄色い花が咲き、鵲が鳴きながら枝を渡っていく。そのまた遠くからは、雲雀のピィーヒョロロと鳴く声がここまで届き聞こえてくる。
雪解け後の濃厚な土の匂いに交じる、甘い花の香り。少しだけ冷たさを含んだ、爽やかな風。春の中を、徐々に黒馬はスピードを上げ、一定のリズムを刻み走ってゆく。
「どこへ行くのです?」
「あの丘です」
その言葉だけで、カレンにはどこを指しているのか分かった。
初めて北の地を訪れた時、ハルシオンが連れて行ってくれたあの場所。白銀の雪原の中、彼が想いを告げてくれたカレンにとって、大事な思い出の場所だ。
「覚えていますか。初めてこの道を通った時のことを」
「ええ。あの時は、一面の雪だったわ」
「あなたは橇馬車の中で、少し不安気で、それでいて希望に満ちた顔をしていた」
カレンは思わず笑った。
「あの頃の私は、そうですね、不安と希望と……色々あったかも」
「今は?」
「今は、ここが私の居場所だと思っています」
背中越しに、ハルシオンが深く息を吸い込むのが分かった。ハルシオンの唇が、頭の上に落ちてきて、そこから熱い吐息が伝わってくる。
「ハル、危ないわ! 前を見て」
「すみません、つい……」
クスクスっと笑ったハルシオンに、カレンも前を向きつつも苦笑を漏らした。
招待客の到着が相次ぎ、玄関ホールには新たな祝いの品が次々と運び込まれている。厨房では祝宴の料理の仕込みが始まり、廊下を行き交う仕え人たちの足音が絶えることがない。
そんな慌ただしさの中、ヒューゴとシャルロッテは城の人気者になっていた。厨房に忍び込んでは料理長に追い出され、ヴェール持ちの練習だと言って布を侍女に被らせて、廊下を行進する。その無邪気さと愛らしさで城中の者を翻弄し、時には癒し、忙しさでピリピリとしていた空気を和ませていった。
リュシアナもその後、城の侍医の診察を受けた。結果は、彼女の予想していた通りだった。三人目の命が、その身に宿っている。
その報せを速達で受け取ったのだろう。王太子殿下は予定よりも数日早く、北の地に到着した。馬車から降り立った殿下は、出迎えたリュシアナの姿を見るなり、澄んだ青い瞳から大粒の涙を流した。言葉を掛けるより早く、リュシアナを抱きしめ、何度も何度も頬に口づけを落としている。
普段は堂々とした王太子が、人目も気にせず妻を抱きしめて泣いている。カレンは思わず両手を胸の前で組んだ。いつか自分たちも、ああなれるだろうか。と、微笑ましさと憧れをその胸に抱きながら。
「既に二人、子がいるのに。あんなに泣いて。王太子殿下も変わらないなぁ」
と、ハルシオンが苦笑を浮かべ、小さく呟いた。
「それほどに、嬉しいのですよ。子は宝ですもの」
そう言ったと同時に、隣に立っていたハルシオンが、そっとカレンの頬に唇を寄せた。
「私たちも、姉上夫妻のように……いや、それ以上の夫婦になりましょう」
耳元で囁かれ、カレンは思わず俯いた。ハルシオンの笑う気配が、すぐ傍で感じられた。
☆
その翌日。婚姻式が行われる前々日のことだった。
カレンは朝から執務室に籠もり、最後の確認作業に追われていた。明日にはもう、当日の為の準備に入る。その為、今しか時間がないとばかりに、羽根ペンを走らせる手を動かし続けていた。
ふと手を止め、時計を見る。針は頂点近くを指そうとしていた。
もうそんな時間なのと、そう思った時、執務室の扉が静かに開いた。
「カレン」
ハルシオンの声だった。顔をそちらに向けると、春用の乗馬服に軽い上着を羽織ったハルシオンが、扉の前に立っていた。
「少し、付き合ってもらえませんか?」
「今からですか? でも、まだ確認が……」
「残りは侍女たちに任せましょう。それに私の側近もいます。大丈夫、彼らは優秀ですよ」
ハルシオンがカレンの傍まで歩み寄り、手からそっと羽根ペンを取り上げて机に置いた。
「夫婦になる前の、最後の時間を頂けませんか? 未来の私の奥様」
その言葉に、カレンの胸と喉がきゅっと締まる。二日後には、ハルシオンの妻になる。
「……はい」
小さく頷くと、ハルシオンの口元が分かりやすく綻んでいった。
ハルシオンにエスコートされながら、城の裏手に回ると一頭の黒馬が用意されていた。ハルシオンがカレンの前に立ち、手を差し伸べる。
「カレン、こちらへ。おいで」
その手を取ると、カレンの小さな驚きの声と共に、引き上げられて馬上に乗せられる。ハルシオンが後ろから跨がり、カレンを腕の中に収める。背中に彼の胸板の温もりが伝わってきた。片腕が腰に回され、もう片方の手が手綱を握る。
「しっかり掴まっていて」
カレンの耳元でハルシオンは囁くと、馬の腹を軽く蹴った。
黒馬はゆっくりと動き出す。
城を離れ、雪解けの道を進んでいく。小川の縁には菜の黄色い花が咲き、鵲が鳴きながら枝を渡っていく。そのまた遠くからは、雲雀のピィーヒョロロと鳴く声がここまで届き聞こえてくる。
雪解け後の濃厚な土の匂いに交じる、甘い花の香り。少しだけ冷たさを含んだ、爽やかな風。春の中を、徐々に黒馬はスピードを上げ、一定のリズムを刻み走ってゆく。
「どこへ行くのです?」
「あの丘です」
その言葉だけで、カレンにはどこを指しているのか分かった。
初めて北の地を訪れた時、ハルシオンが連れて行ってくれたあの場所。白銀の雪原の中、彼が想いを告げてくれたカレンにとって、大事な思い出の場所だ。
「覚えていますか。初めてこの道を通った時のことを」
「ええ。あの時は、一面の雪だったわ」
「あなたは橇馬車の中で、少し不安気で、それでいて希望に満ちた顔をしていた」
カレンは思わず笑った。
「あの頃の私は、そうですね、不安と希望と……色々あったかも」
「今は?」
「今は、ここが私の居場所だと思っています」
背中越しに、ハルシオンが深く息を吸い込むのが分かった。ハルシオンの唇が、頭の上に落ちてきて、そこから熱い吐息が伝わってくる。
「ハル、危ないわ! 前を見て」
「すみません、つい……」
クスクスっと笑ったハルシオンに、カレンも前を向きつつも苦笑を漏らした。
120
あなたにおすすめの小説
【完結】婚約破棄はお受けいたしましょう~踏みにじられた恋を抱えて
ゆうぎり
恋愛
「この子がクラーラの婚約者になるんだよ」
お父様に連れられたお茶会で私は一つ年上のナディオ様に恋をした。
綺麗なお顔のナディオ様。優しく笑うナディオ様。
今はもう、私に微笑みかける事はありません。
貴方の笑顔は別の方のもの。
私には忌々しげな顔で、視線を向けても貰えません。
私は厭われ者の婚約者。社交界では評判ですよね。
ねぇナディオ様、恋は花と同じだと思いませんか?
―――水をやらなければ枯れてしまうのですよ。
※ゆるゆる設定です。
※名前変更しました。元「踏みにじられた恋ならば、婚約破棄はお受けいたしましょう」
※多分誰かの視点から見たらハッピーエンド
とある伯爵の憂鬱
如月圭
恋愛
マリアはスチュワート伯爵家の一人娘で、今年、十八才の王立高等学校三年生である。マリアの婚約者は、近衛騎士団の副団長のジル=コーナー伯爵で金髪碧眼の美丈夫で二十五才の大人だった。そんなジルは、国王の第二王女のアイリーン王女殿下に気に入られて、王女の護衛騎士の任務をしてた。そのせいで、婚約者のマリアにそのしわ寄せが来て……。
三年の想いは小瓶の中に
月山 歩
恋愛
結婚三周年の記念日だと、邸の者達がお膳立てしてくれた二人だけのお祝いなのに、その中心で一人夫が帰らない現実を受け入れる。もう彼を諦める潮時かもしれない。だったらこれからは自分の人生を大切にしよう。アレシアは離縁も覚悟し、邸を出る。
※こちらの作品は契約上、内容の変更は不可であることを、ご理解ください。
【完結】6人目の娘として生まれました。目立たない伯爵令嬢なのに、なぜかイケメン公爵が離れない
朝日みらい
恋愛
エリーナは、伯爵家の6人目の娘として生まれましたが、幸せではありませんでした。彼女は両親からも兄姉からも無視されていました。それに才能も兄姉と比べると特に特別なところがなかったのです。そんな孤独な彼女の前に現れたのが、公爵家のヴィクトールでした。彼女のそばに支えて励ましてくれるのです。エリーナはヴィクトールに何かとほめられながら、自分の力を信じて幸せをつかむ物語です。
これ以上私の心をかき乱さないで下さい
Karamimi
恋愛
伯爵令嬢のユーリは、幼馴染のアレックスの事が、子供の頃から大好きだった。アレックスに振り向いてもらえるよう、日々努力を重ねているが、中々うまく行かない。
そんな中、アレックスが伯爵令嬢のセレナと、楽しそうにお茶をしている姿を目撃したユーリ。既に5度も婚約の申し込みを断られているユーリは、もう一度真剣にアレックスに気持ちを伝え、断られたら諦めよう。
そう決意し、アレックスに気持ちを伝えるが、いつも通りはぐらかされてしまった。それでも諦めきれないユーリは、アレックスに詰め寄るが
“君を令嬢として受け入れられない、この気持ちは一生変わらない”
そうはっきりと言われてしまう。アレックスの本心を聞き、酷く傷ついたユーリは、半期休みを利用し、兄夫婦が暮らす領地に向かう事にしたのだが。
そこでユーリを待っていたのは…
王太子は妃に二度逃げられる
たまこ
恋愛
デリンラード国の王太子アーネストは、幼い頃から非常に優秀で偉大な国王になることを期待されていた。
初恋を拗らせ、七年も相手に執着していたアーネストが漸く初恋に蹴りを付けたところで……。
恋愛方面にはポンコツな王太子とそんな彼をずっと支えていた公爵令嬢がすれ違っていくお話。
※『拗らせ王子と意地悪な婚約者』『先に求めたのは、』に出てくるアーネストのお話ですが、こちらだけでも楽しめるようになっております。
愛する人は、貴方だけ
月(ユエ)/久瀬まりか
恋愛
下町で暮らすケイトは母と二人暮らし。ところが母は病に倒れ、ついに亡くなってしまう。亡くなる直前に母はケイトの父親がアークライト公爵だと告白した。
天涯孤独になったケイトの元にアークライト公爵家から使者がやって来て、ケイトは公爵家に引き取られた。
公爵家には三歳年上のブライアンがいた。跡継ぎがいないため遠縁から引き取られたというブライアン。彼はケイトに冷たい態度を取る。
平民上がりゆえに令嬢たちからは無視されているがケイトは気にしない。最初は冷たかったブライアン、第二王子アーサー、公爵令嬢ミレーヌ、幼馴染カイルとの交友を深めていく。
やがて戦争の足音が聞こえ、若者の青春を奪っていく。ケイトも無関係ではいられなかった……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる