紫苑の誓約ー甘美な愛とすれ違いの愛の果てに、記憶を失くした皇太女を変わらず溺愛するー

苺迷音

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42 嵐の幕あけ

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 セリアが部屋を出てから、レオは執務机の前に座った。書類を広げるが、文字が頭に入ってこない。

 扉がノックされる。

「閣下」

 いつもより微かに柔らかいカイの声に、レオは重い声で応じた。

「入れ」

 カイが入室するなり、レオの表情を一瞥すると、余計な言葉は挟まず地図を机の上に広げた。
 
「狩猟大会の配置と警備について、最終確認が完了しました」

 レオは、息を詰めるように地図に視線を落とす。帝国北部の森林地帯。広大な狩場だった。

 カイの声には緊張が滲む。

「北方使節団が持ち込む射出機構ですが、兵器への転用が可能な技術です。危険性は高い」

「……そうか」

 レオの声は、深く沈黙を破った。カイがそのまま間を置かず続ける。

「加えて、セリア嬢の侍女たちが南方の商人と接触している様子が確認されています。リュシアン殿下の側近が調査中です」

 その情報に、レオの手がわずかに震え始める。

「それから――」

 カイは一瞬、次の言葉を出すことに戸惑いを見せた。だが、すぐに何事も無い様に話続ける。
 
「ジュノ殿下の周囲に、複数の方々が集まっています。リュシアン殿下、ゼノア猊下、アレン。彼らは、殿下を守るために連携し、動いています」

 広間には沈黙が落ちる。
レオは何も応じることができなかった。ただ、感情を押し殺すように、拳を握りしめた。

「戦略室に、お集まりくださいとのことです」

 カイの声が、静かに響く。

「皆様が、既にお待ちです」

レオは、重い鎖を引きずるように**ゆっくりと立ち上がった。

「……行こう」



 戦略室のテーブルには、地図と配置図が広げられていた。

 リュシアン、ゼノア、アレン。既に全員が揃っている。

 レオに引き続きカイが入室すると、リュシアンが顔を上げた。

「来たか」

「ああ」

 レオは、テーブルの対面に座る。その隣にカイも腰を下ろした。

 レオの姿を見たアレンが、鼻で笑った。

「よく来られたな。婚約者と一夜を過ごしたと、朝から噂だぞ。よくやるよな。信じられねぇ……」

 明らかな皮肉。レオは、何も答えない。

 ゼノアが、静かに口を開く。

「感情的な話は後だ。まず、明日の配置を確認する」

 ゼノアの言葉を引き継ぐように、リュシアンが地図を指差した。

「狩猟大会の会場は、帝国北部の森林地帯。広大で、複数の狩場に分かれている」

「北方使節団が持ち込む射出機構は、危険性が高いです」

 カイが続ける。

「現物はもう持ち込まれているのか?」

 リュシアンの問いかけに、カイが静かに答える。

「はい。既に購入済の諸侯もいるようです。狩りに使うのではないでしょうか」

「配置が重要になるな」

 リュシアンは、地図上に駒を置き始めた。

「俺は、ジュノ殿下と行動を共にする」

 その言葉に、レオの表情が険しくなる。

「……なぜ、お前が?」

「最も合理的な配置だからだ」

 リュシアンは、冷静に答えた。表情に感情は見せない。だが、その声には確固たる意志があった。

「俺は隣国の王子だ。外交的な立場からも、殿下と行動を共にするのが自然だ」

 リュシアンの青い瞳が、レオを見据える。

「そして――ジュノ様の安全を、最優先に考えた結果だ。俺が最も近くにいれば、何かあった時に即座に対応できる。ジュノ様を守るために、最も効果的な配置だ。後方にはアレン」

 レオの拳が、テーブルを叩いた。

「姫様の御隣に立つのは、俺の役目だったはずだ」

「お前には婚約者がいるだろ」

 アレンが、冷たく言い放つ。

「セリア嬢と行動を共にするのが、お前の役目だろ? それとも何だ、婚約者を放り出して、姫様に縋るつもりか。セリア嬢まで泣かせるのか?」

 レオは、何も言い返せなかった。言葉が、喉に詰まる。

 ゼノアが、狩猟範囲を囲ってある地図を見たまま、淡々と告げる。

「感情ではなく、任務優先だと言っただろう? アレンも挑発をやめるんだ」

 ゼノアにそう言われたアレンは、肩を竦めてレオを一睨みする。

 次にゼノアの琥珀色の瞳が、レオを捉える。

「レオ、貴公はセリア嬢と行動を共にしながら、彼女を監視する。それが、貴公にできることだ。貴公が彼女の傍にいることで、彼女の動きを把握できる。姫様を守るために、貴公にしかできない役目だ」

 レオは、唇を噛んだ。

「……わかった」

 リュシアンが、地図上に駒を並べていく。

「配置は、こうだ」

 静かな声。だが、その一つ一つに重みがあった。

「リュシアン――ジュノ殿下と行動。表向きは外交、実際は護衛と囮」

「アレン――後方護衛。弓兵と騎士団を指揮」

「レオ――セリア嬢と行動。表向きは婚約者、実際は監視」

「カイ――情報収集と即応部隊の指揮」

「ゼノア――北方使節団の動向監視」

 全員が、静かに頷いた。

「では、明日に備えよ」

 ゼノアが、全員を見渡す。

「何が起こるかわからない。だが、姫様を必ず守る。それだけは、忘れないよう」



 会議が終わり、他の者たちが退室していく。

 レオは、一人テーブルの前に残った。地図を見つめながら、深く息を吐く。

 ジュノ。

 俺は、お前を守れるのか。

 お前の隣に立つことすら、許されない。指先に力が入り、爪が掌に食い込んでゆく。



 その頃、ジュノの部屋では。

 侍女のエレナが、狩猟大会用の衣装を持参していた。白銀の刺繍が施された狩猟服。紫のリボン。白金の髪に映えるよう、丁寧に仕立てられている。

「姫様、明日の狩猟大会用のお召し物でございます。ご確認頂けますでしょうか」

 ジュノは、鏡の前に立った。エレナが衣装を広げる。

 白のシルクで作られたブラウス。襟はハイネック型になっており、その周りには繊細に織られた紫のリボン。そのリボンの先は、優雅に胸元まで伸びている。襟元と袖口の先は金糸の細かな刺繍が施されてある。白と紫と金。帝国の色。

 ジュノは、静かに衣装を手に取った。

 これは、戦場の衣装。

 社交の場ではない。真実を暴く場だ。

「とても素敵だわ。ありがとうエレナ。明日も準備をお願いね」

「もちろんでございます姫様。お美しさが一層際立ちますよう、全身全霊でお勤めさせて頂きます!」

「大袈裟ね」

 小さく笑いあう二人。

 明日は何が起きるか分からない。だからこそ、準備はしっかり行わなければならない。

 必ず、何かしらの手掛かりを掴むために。



 その頃、宮廷の回廊で――

 セリアとヴォルフが、すれ違った。

 二人は、言葉を交わさない。儀礼的に頭を下げ合うだけ。

 瞬間、空気が変わる。甘い香り。共犯の気配。そのことに気づくものは、誰もいない。二人はそれぞれの道へと消えていった。



 翌朝。その日は、青が眩しいほどに澄み切った晴れの日となった。

 帝都の宮廷――その北端に広がる広大な森林地帯。帝国が管理する狩猟地として知られ、年に一度、選ばれた者だけがその地に足を踏み入れる。

 その入口に設けられた出陣広場では、夜明け前から騎士たちが整列を始めていた。馬の嘶き。掛け声。貴族たちの笑い声。初夏の風が、緊張と期待を運んでいく。

 初夏の爽やかな風が吹き抜ける中、皇帝グスタフ二世が参加者たちに挨拶を述べていた。アンドレウス大公が、その隣に控えている。

 広場の一角には、貴婦人たちのために設けられた社交テント群『薔薇の庭』が広がっていた。絹張りの天幕、銀器の並ぶテーブル、香水と花々の香り。警備兵が、周囲を巡回している。

 ジュノは、狩猟用の服装を纏い、真っ白な愛馬に跨っていた。 白のブラウスに、帝国の色を象徴する紫のリボン。黒地のライディングスカートの縁に施された白銀の刺繍が、朝日を受けて清く輝いている。その姿は、戦場に立つ者の覚悟と、皇太女としての静かな威厳を宿していた。 周囲の騎士たちが整列する中、誰もが彼女に視線を向けながらも、言葉を発する者はいなかった。風が、彼女の一つに束ねられた長い髪を揺らす。その一瞬でさえ、場の空気が変わる。

 リュシアンが、その隣に馬を寄せた。

「ジュノ様、準備はよろしいですか」

「ええ」

 微笑みながら答えるジュノの声は、静かだった。

 その視線の先――

 レオが、セリアと共に馬に跨っていた。

 ジュノとレオの視線が、一瞬交差する。だが、すぐに逸らされた。

 号砲が白煙を吐きながら、地面を震わせるように鳴り響く。

 狩猟大会が、始まる。

 嵐が今、幕を開けた。
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