紫苑の誓約ー甘美な愛とすれ違いの愛の果てに、記憶を失くした皇太女を変わらず溺愛するー

苺迷音

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55 執務室で

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 翌朝、ジュノは早くに目を覚ました。

 東の空が白み、朝の気配が満ち始めた頃。窓からは、柔らかな光の兆しが滲みだしていた。

 暫くすると、エレナがノックと共に部屋に入ってきた。

「姫様、おはようございます」

「おはようございます、エレナ」

 ジュノは、ベッドから起き上がる。その表情には、期待が滲んでいた。

「今日から、レオ様のお手伝いができるのですよね」

「はい」

 エレナは、微笑んだ。

「では、お支度をいたしましょう」

 エレナが、手伝い用の服を持ってくる。淡い黄色のワンピース。動きやすく、それでいて品のある装い。



 朝食の後、ジュノはレオの執務室へと向かった。エレナが、その後ろを付いて歩く。

 廊下には既に、護衛の騎士が配置されていた。厳選された精鋭たち。彼らは、ジュノの姿を見ても、表情一つ変えなかった。だがその目には、わずかな緊張が宿っている。

 ジュノは執務室の扉の前に立つと、軽く三度ノックをする。直後、中からレオの声が聞こえた。

「どうぞ」

 エレナが扉を開け、放たれた執務室の中へ、ジュノが一歩一歩噛み締めるように歩いて行く。

 レオは、机の前に立っていた。ジュノがここへ来ることを待ちかねていたように。

「おはようございます、姫様」

「おはようございます、レオ様」

 微笑むレオを見たジュノは、嬉しそうに微笑み返す。レオはジュノを、自身の執務机の隣に案内した。

「こちらが、姫様の仕事場所です」

 レオが指した場所には、通常の執務机よりも一回り程小さな机と、執務用の椅子が用意されていた。机の上には、羽ペンとインク瓶。それに深紅の薔薇が一輪挿してある、細い花瓶が置かれていた。

「ありがとうございます」

 ジュノは少し緊張した面持ちで、ちょこんと椅子に座る。

 レオは、書類の束を持ってきた。

「まず、これらの書類を日付順に並べ替えていただけますか」

「はい」

 ジュノは、頷いた。レオが見本をみせる。

「このように、一番古い日付を下に、新しい日付を上に」

「わかりました」

 ジュノは、書類を手に取り作業を始めた。レオは、自分の机に戻り、執務に取り掛かる。はずだったのだが。レオの視線は、知らず知らずジュノに吸い寄せられていた。

 ジュノの真剣な横顔。書類をめくる音。時折漏れる、小さな吐息。全てが、レオの心を揺さぶった。

(落ち着け……)

 レオは、心の中で自分に言い聞かせた。

(これは、執務だ。姫様を守るための時間だ)

 そんな風にレオが心の中で葛藤していると、ジュノがふっと顔を上げた。

「レオ様、これで合っていますか?」

 ジュノが書類を見せながら、無意識なのだろう、小首を傾げてお伺いを立てて来た。

 レオはそんな仕草に胸が高鳴るが、動揺を隠して立ち上がり、ジュノの隣に立つ。そして、書類を確認する。その時、ふわりとジュノの香りが、レオの鼻腔をくすぐった。

 石鹸の香り。清潔で、優しい香り。

「はい、完璧です」

 レオは、努めて冷静に答えた。こんなに近くに居るのに、抱きしめることも許されない。彼女を尊重しなければ。そう思うのに止まらない思考。

「よかった」

 ジュノは、嬉しそうに微笑んだ。その笑顔に見惚れる前にレオは、急いで自分の机に戻った。

(危険だ……この距離は、危険すぎる)

 レオの心の中は、暴風雨のように掻き乱れていた。顔は努めて冷静であるかのように装いながら。

 午前の時間が、ゆっくりと過ぎていった。ジュノは、黙々と書類を整理している。時折、わからないことがあると、レオに尋ねる。その都度丁寧に説明するレオ。

 そんな中でレオの心は、常に揺れ続けていた。

(俺は、耐えられるのか……この状態が、毎日続くのか)

 叫び出して抱きしめたい気持ちを、ぐっとこらえるのが精一杯だった。



 昼が近づいた頃、レオは仕事を中断しジュノに声を掛けた。

「姫様、今日はここまでにしましょう」

「もう、ですか?」

 ジュノは、少し残念そうな表情を浮かべた。

「はい。無理をしてはいけません」

「まだまだ元気ですよ? でもそうですね。はい、わかりました」

 ジュノは、立ち上がり

「本当に、楽しかったです」

 その顔に、満足げな笑みが広がる。

「私、お役に立てましたでしょうか?」

「もちろんです。大変助かりました」

「よかった! また明日も、よろしくお願いします」

 頭を下げるジュノに

「はい。こちらこそ」

 レオも同じ様に頭を下げた。顔を上げ、視線が合った二人は、小さく笑いあう。そしてジュノは、エレナを伴って執務室を後にした。

 扉が、静かに閉まる。

 それを見送ったレオは、一人椅子に深く座り込み、深く息を吐いた。

(これは……何かの拷問か……幸せなのに辛いとは……)

 今日これだけの時間で、レオは己を律することの深さを、思い知った気分になった。



 その夜、定例の報告会が開かれた。

 レオの執務室にいつものように、ゼノア、リュシアン、アレン、カイが集まる。そして彼らは、執務机の横に置かれた、ジュノ用の机に目を移す。机の上に置かれている深紅の薔薇。そこにレオの気持ちが詰まっているような気がした。

「初日は、どうだった」

 そう問うアレンにレオは、深く息を吐きながら答える。

「……正直に言う……限界だ」

 その一言に、冗談の欠片もなかった。全員が、レオを見つめた。あのレオが限界という言葉を口にするなんて――そんな表情で。

「姫様が、すぐ隣にいる。その香り、声、真剣な表情、笑顔。もうその存在全てと言ってもいい」

 レオの碧眼が、大きく揺れる。

「全てが、俺の理性を破壊しようとしてくる」

 レオは、両手で顔を覆うようにした後、その手を目の前で組んだ。

「抱きしめたくて、仕方がない。だが、それを抑えるのに……全ての神経・理性を使った」

「やはり、か」

 ゼノアが、呟いた。

「だが、これは始まったばかりだ。明日も、明後日も、続く」

 レオはゼノアの呟きに、そう答える。

「耐えられるのか?」

 アレンが、問い詰めた。

「わからない」

 レオは正直に、本音を晒す。

「だが、姫様を守るためなら――俺は、耐える」

「当たり前だ。寧ろ耐え続けろ。もし、不埒なことをしたら……わかってるな? レオ」

 アレンは拳を握り、レオの前に突き出して見せた。

「その時は、そうしてくれ……いや、そうなる前にそうしてくれ……頼む」

 切実なそのレオの声に、アレンはその拳を引っ込めると、肩を竦めた。

「そうなる前に、リュシアンに変わってもらったらどうだ?」

 話を振られたリュシアンは、一瞬、喜色の表情を隠しもせず見せたが、直ぐに眉を顰めた。

「いや……俺もレオと同じかも知れない……」

 その言葉に、ゼノアやカイも、仮に自分たちがレオの立場であっても同じだろうと、目を逸らした。それはアレンも同じ。

「これは修行だ。己の弱さとの。皆、そう思え」

 ゼノアが大きく頷きながら、諭すように呟いた。



 そんな事が続いたある日の午後、ジュノはエレナと共に離宮の廊下を歩いていた。

 昼食を終え、散歩に出ようとしていた時。甘く香ばしい匂いが、廊下に漂ってきた。その香りに、ジュノが足を止める。

「この香り……」

「焼き菓子の香りでございます」

 エレナが、答えた。

「厨房からですね」

「厨房……?」

 ジュノの目が、キラキラと輝いた。瞬きすることも忘れたかのように。

「あの……行ってみてもいいですか?」

 エレナは、一瞬躊躇した。だが、ジュノの無邪気で、キラキラとした表情を見ていると、断る言葉が出てこない。

「……少しだけなら」

 結局、許可をしてしまったエレナであった。
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