浸水車両

苺迷音

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 今すぐ逃げたくて、立ち上がろうとしたけれど、水の抵抗で思うように動けない。
 水の圧が重い。まるで全身を縛られてるみたいで、思うように動かせない。

「落ち着け」

 慌てる私の耳の傍、至近距離で聞こえる声。
 
「どうしてそんなに落ち着いてるの!? ……あなた何者なの? ねぇ! いや! 近づかないで!」

 彼の存在が。今の状況が。
 全て恐怖でしかなかった。

 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、光太さんが静かに言う。

「大丈夫。彩佳は守る。このまま、俺を信じて」

 彼が私を強く抱きしめた。

 その瞬間、信じられないことに身体は拒絶するどころか、力がスッと抜けて行った。

 水位は既に、首元まで迫っている。
 もうすぐ完全に、私たちは水に沈んでしまうだろう。
 なのに。
 水に包まれているのに、苦しくない。
 むしろ、心地よささえ感じる。
 不思議だ。

 光太さんの腕の中にいると、本当に大丈夫のような気がしてきた。
 恐怖も不安も全て、水に溶けるように消えてゆく。

 自分の鼓動だけが、ドクン、ドクン、とやけに大きく響いてくる。

「光太……さ……」

「ここにいるから。ずっと、ここに居た。彩佳と居たから」

 水は、ついに私たちを完全に飲み込んだ。

 暗い水の中で、光太さんの顔が滲んで見えた。

 優しい笑顔。

 どこか懐かしい、はにかむように笑う顔。

 あれ? この表情、昔から知ってる。

 でも、どこで? いつ?

 記憶の奥から、何かが蘇ろうとしている。

 暖かい午後の日差し。

 川のほとり。

 小さな手と手を繋いで。

「約束したじゃないか。絶対に、離れないって」

 光太さんの声が、身体中に沁み込んでゆく。
 水中なのに、はっきりと聞こえる。

 もしかして――

 この人は……

 幼い頃、一緒に川で水遊びをした光景が、瞼の裏に薄っすらと浮かんだ。



 闇の中で、車内アナウンスが響いた。

「次は、葉月坂ー、葉月坂です。お降りの――」

 私……たちが降りる駅。

「彩佳」

 光太さんの声が、私の中に入ってくる。

「一緒に、降りよう」

「うん、ありがとう、光太」

 二人でトンネルの向こう側へ。
 夜なのに、光が溢れた出口へと水の中を漂いながら
 
 ゆらり。
 ゆらり。

 ゆっくりと、流れてゆく。
 その流れに身を任せて。

 段々と近づく眩しい光に、そのまま私は目を閉じた。

「ちゃんとそばに居るから」

 光太さんのそんな言葉を微かに聴きながら。
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