神雧 - KAMIATSUME -

神代 一文

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第12章 記録の裂目

第374話 線のずれ

南行きの本線に乗る前の、最後の海の駅だった。名残の入り江の港の外れで、久遠くおんが目録もくろくの海図かいずを広げ、直した輪郭線の定着を確かめていた——そのときだった。

 線が、ずれていた。海図かいずの端はしの、たった一本。それだけで、道は嘘うそになる。

 こよいは久遠くおんの手元を覗き込み、濡れた指で海図かいずの線をなぞった。墨すみが薄く伸び、線はさらに曖昧あいまいになる。指先に残る墨すみの感触だけが、さっきまで線がそこにあった証拠だった。

 「……また、動いた」

 久遠くおんが短く言う。義眼ぎがんの蒼光そうこうが、紙の上を走る。海図かいずの線を追う蒼光そうこうは通常なら安定しているが、今は光の軌跡きせきが微かに震えていた。線が揺れているせいで、追跡する光まで揺れる。

 「地形じゃない。線そのものが、揺れてる。観測者かんそくしゃが境界きょうかいを引き直してる」

 久遠くおんは膝をつき、海図かいずの端はしに義眼ぎがんを近づけた。蒼光そうこうが紙の繊維せんいの中まで透過する。線は表面だけではなかった。紙の中層にも別の線が走っている。表の線と中の線がずれていた。同じ海図かいずの中で、二つの地図が重なって存在している。

 あさひは港の外れの堤つつみへ目を向けた。潮しおの匂いがする。なのに波の音が、ひとつ遅れて届く。波が砕ける光景が先に見え、音が一拍遅れて鼓膜こまくに届く。雷かみなりの光と音のずれに似ていたが、距離のせいではなかった。

 「遅れ?」

 こよいが呟つぶやく。久遠くおんが頷いた。

 「理ことわりの継ぎ目だ。時間の糸が、そこだけ引っかかってる。線がずれると、歩幅もずれる」

 堤つつみの石の表面に、細い罅ひびが走っていた。以前はなかった罅ひびだ。線のずれが物理的な空間にまで波及している。石が軋きしみ、罅ひびの中から潮しおの匂いが滲にじみ出していた。

 こよいは、巾着きんちゃくに指を置いた。神々が小さく脈を打つ。その脈動も微かにずれている。いつもの安定したリズムではなく、波の遅れに引きずられるように、拍動の間隔が揺らいでいた。

 「神々で……直せる?」

 「直すんじゃない。追従ついじゅうする」

 久遠くおんは短く言った。

 「線が動くなら、こっちも動く。ただし、ズレを自分の中に残す。全部合わせたら、固定こていされる」

 あさひが笑う。口の端だけを持ち上げた、乾いた笑い。

 「ややこしいな」

 「ややこしいほど、生きてる」

 久遠くおんが言い切った。声に力があった。ややこしいということは、まだ動いているということだ。固定されていないということだ。線がずれるのは不便だが、ずれることができるのは自由の証でもある。

 こよいは堤つつみの縁ふちへ歩き、水面を覗のぞいた。そこには、港の灯ひが逆さに映っている。揺れているのに、揺れ方が一定だ。まるで誰かが「揺れ」を型に押し込めているみたいに。自然な波ではない。管理された波。

 こよいは小石をひとつ落とした。波紋はもんが広がる。だが途中で、波紋はもんの円が少しだけ歪ゆがんだ。完全な円にならない。ある一点で波紋はもんが折れ曲がり、その先だけ形が違っている。

 「……ずれてる」

 久遠くおんが頷く。

 「境界きょうかいの縫い目が、水に出てる。だから海図かいずが先に狂う」

 海図かいずの線が揺れているのは、この水面の歪みを写し取っているからだった。海図かいずは正確すぎるのだ。ずれた世界を正確に描くから、海図かいずもずれる。

 あさひが堤つつみの先を見据えた。波紋はもんが歪ゆがんだ場所の向こうに、霧きりがかかっている。霧きりの奥に何があるのか、ここからは見えなかった。

 「なら、境さかいの上に乗ればいい」

 「……剣士の発想だな」

 久遠くおんは吐き捨てるように言いながらも、否定はしなかった。

 こよいは海図かいずを畳み、胸に抱えた。線のずれは怖い。でもずれを感じられるのは、まだ自分の輪郭りんかくが残っている証拠だった。

 「……行こう」

 こよいが言う。堤つつみの先。風が一度だけ強く吹き、海図かいずの端はしがめくれた。その瞬間、線がほんの少しだけ元の位置へ戻る。風が線を正した。あるいは、風の中に正しい位置を覚えているものがいた。

 こよいは海図かいずの折り目に指を入れた。紙の厚みの中に、別の線が潜ひそんでいる気がしたからだ。指先が引っかかる。墨すみではない。針で刻んだような、浅い溝みぞ。

 「……これ、書かれてない線」

 久遠くおんが覗き込む。義眼ぎがんの蒼光そうこうが紙の断面を照らした。溝みぞは紙の中層を走っていた。表に出ない線。書き手が墨すみではなく圧力で刻んだ線。

 「下書したがきだな。書き手が、最後まで残したい線だけ隠した」

 あさひが言う。

 「じゃあ、その線が本物だ」

 久遠くおんは小さく笑った。

 「本物、って言葉は危ない。だが……進む価値はある。書かれた線は書き換えられる。圧痕あっこんは——書いた者の手の重さは、書き換えられない。誰かが、いつか、この海図の中に本当の道を沈めておいたんだ」

 誰が。いつ。それは分からない。海図を最初に描いた者か。石板を隠していた誰かか。この世界には、観測者より前から、記録を守る側の手が、幾つも潜んでいる。

 こよいは海図かいずを抱え、堤つつみを離れた。線のずれは消えない。でも、ずれの下に隠された溝みぞがある。それだけで、足を置く場所が変わった。

 おたまが、こよいの半歩先を歩いていた。波の音の一拍の遅れの中で、猫の足取りだけは、ずれた理ことわりと関わりなく、いつも通りの正確さだった。

 潮しおの匂いが一段濃くなり、こよいの鼻の奥に塩の苦みが残った。
 堤つつみの先で、水面の波紋はもんがまたひとつ歪ゆがんだ。
 今度は、三人の足音に合わせるように。
 理ことわりが、こちらを見始めている。
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