神雧 - KAMIATSUME -

神代 一文

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第13章 南の方位

第402話 古い井戸の再起

露野つゆのの中心に、井戸いどがあった。露を集めた層では、砂に埋もれて見えていなかった井戸だ。

 古い。星野ほしののどの井戸いどよりも古い。石の蓋ふたが二つに割れて、隙間すきまから草が生えている。草は枯れかけていたが、茎くきの根元にだけ緑が残り、地中から僅かな水を吸い上げて命を繋つないでいた。広場の石畳いしだたみは草に埋もれ、傾いた灯籠とうろうの列が沈黙ちんもくの中に並んでいた。灯籠とうろうの笠かさが一つだけ地面に転がり、苔こけに覆おおわれて丸い石のようになっていた。

 人の気配がない。長い間、誰にも訪れられていない場所だった。灯籠とうろうの火袋ひぶくろは割れ、苔こけが石の表面を覆おおっている。ここに火を灯す者がいなくなってから、どれほどの年月が過ぎたのか。空気は湿っているが、生きた水の匂いはしない。露野つゆのの露つゆが長い年月をかけて石に染み込んだ、古い湿気だった。

 あさひが蓋ふたの破片はへんを持ち上げた。重い石が横にずれる。筋肉が腕に浮き上がり、石が地面に落ちたとき、鈍い音が広場に響いて消えた。蓋ふたの下から、金色の光が漏れた。

 こよいが息を呑んだ。光は弱い。蝋燭ろうそくの最後のひと揺れほどの淡さだった。けれど確かに金色で、見覚えがあった。星野ほしのの蔓つるの井戸いどで見た、あの温かい光と同じ色だった。

 久遠くおんが膝をついて、井戸いどの中を覗のぞいた。義眼ぎがんの蒼光そうこうが暗闇に差し込む。光が石壁に反射し、井戸いどの内側が蒼と金の二色に照らされた。

 「——蔓つるだ。星野ほしのの蔓つるが、ここまで伸びてきている」

 久遠くおんの声に、珍しく驚きが混じっていた。

 井戸いどの壁面を、金色の蔓つるが這はっていた。細い。指よりも細い。けれど確かに生きていて、石の隙間すきまから染み出すように地上に向かって伸びている。蔓つるの先端には小さな葉が一枚、暗闇の中で金色に光っていた。葉脈ようみゃくが細い線のように走り、その一本一本が微かに脈打っている。

 「この井戸いどは観測者かんそくしゃが作ったものじゃない」

 久遠くおんが目録もくろくと照合した。義眼ぎがんの蒼光そうこうと目録もくろくの文字の間を、視線が何度も往復する。頁ページの上の文字が蔓つるの脈動に合わせて明滅し、読み取るたびに新しい行が浮かび上がってくる。

 「最初の神が、千年せんねん前に自ら掘った井戸いどだ。名前が帰る場所として。観測者かんそくしゃが支配する以前の、本来の井戸いど」

 最初の神の名は目録にも残っていない。掘った者が自分の名を井戸へ刻まなかったのか、それとも後から消されたのか。久遠くおんは断定せず、石に残る工具の幅と手の向きだけを書き留めた。正体ではなく、誰かが帰る場所を作った行為は消えていなかった。

 久遠くおんの声が低く震えた。目録もくろくにこの座標ざひょうは記載されていない。観測者かんそくしゃの管理台帳から漏れた場所。千年の間、観測の目を逃れてきた井戸いどだった。管理の網あみの隙間すきまに、ひっそりと口を開けて待っていた場所。

 こよいは井戸いどの縁ふちに手を置いた。脈動みゃくどうがあった。星野ほしのの蔓つるの井戸いどと同じリズム。距離を超えて、地下の根で繋つながっている。掌てのひらに伝わる振動は、巾着きんちゃくの中の神々の脈と重なった。石の冷たさの奥に、体温に近い温もりが眠っている。

 井戸いどの底から、光の塊かたまりがゆっくりと浮き上がってきた。蔓つるに支えられるようにして、光が上昇してくる。ひらがな二文字分の小さな光。地下水脈ちかすいみゃくを通って、遠い場所からここまで来た名前だった。光は途中で何度か揺らぎ、蔓つるの葉に触れるたびに少しだけ明るさを増した。蔓つるが名前を励ましているように見えた。

 こよいは巾着きんちゃくを開いた。光が布の口に吸い寄せられるように入り、神々の脈動と一つになった。温もりが巾着きんちゃく全体に広がり、布が一瞬だけ金色に透けた。

 五十一柱の目録もくろくで、四十一柱目。水脈に残された七柱の、四柱目だった。巾着きんちゃくでは二十七番目の脈が目を覚ました。

 久遠くおんが立ち上がった。膝ひざに付いた苔こけと砂を払い、目録もくろくを脇に抱え直す。

 「名前の根が、観測者かんそくしゃの管理下にない古い井戸いどを再起動さいきどうさせた。根脈こんみゃくが広がっている。俺たちが歩いた場所の地下で、蔓つるが勝手に伸びていたんだ」

 あさひが蓋ふたの破片はへんを元の位置に戻した。完全には閉まらない。蔓つるが石の隙間すきまを押し広げていた。あさひは石の位置を何度か調整したが、やがて手を止めた。

 「閉じなくていい」

 こよいが言った。声が穏やかだった。

 「ここは、もう開いてるから」

 おたまが割れた蓋ふたへ乗り、井戸の底へ小鈴を響かせた。返ってきた音は一つではない。星野、凪沢、露野へ枝分かれした根の先から、遅れて三つの余韻が戻る。井戸は孤立した穴ではなく、帰る場所同士を結ぶ網になっていた。

 草の間を風が吹いた。露野つゆのに入ってから初めての、自然の風だった。枯れた草が揺れ、その下に金色の蔓つるの先端が覗のぞいていた。蔓つるは地面を這はい、草の根元に沿って広場の外へ向かって伸び始めている。露野つゆのの露つゆが蔓つるの葉に一粒、宿っている。透明な水滴の中に、金色の光が閉じ込められていた。

 露野つゆのの井戸いどは、千年せんねんの眠りから目を覚ました。石の蓋ふたの隙間すきまから漏れる金色の光が、広場の苔こけを淡く照らしている。二十七の脈が、地下で一つの鼓動こどうを打っている。
 目覚めた井戸いどの底で、千年せんねん眠っていた名前がひとつ、ゆっくりと寝返りを打つ気配がした。
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