神雧 - KAMIATSUME -

神代 一文

文字サイズ
小 中 大 特大
404 / 500
第13章 南の方位

第404話 町の分岐

坂を越えたところで、町が二つに分かれていた。

 道が二本あるのではない。同じ石橋の先に、二つの町が重なっている。東側には軒ごとに木札が掛かり、墨で家の名、井戸の名、路地の名まで書かれていた。西側には同じ形の家が並ぶのに、札も表札もない。窓は開き、洗った布が風に揺れている。それでも、暮らす者を呼ぶ言葉だけが一つも見当たらなかった。

 橋の中央に立つ道標みちしるべは、右に「名のある町」、左に「名のない町」と刻まれている。その二行の下には、後から削られた文字の傷があった。

 「どちらも経蔵きょうぞうへ続く、と書いてあったらしい」

 久遠くおんが傷を義眼ぎがんでなぞった。蒼光そうこうが石粉の奥に残った筆順を拾う。

 「名のある町は記録が多い。目録もくろくと照合しやすい代わりに、観測者かんそくしゃにも見つかる。名のない町は座標を特定されにくいが、俺たち自身の名まで薄くなる可能性がある」

 東の町から、鐘が鳴った。すると家々の木札が一斉にこちらを向く。『旅人』『巾着の主』『剣を持つ者』『義眼の者』。まだ名乗っていない三人の呼び名が、濡れた墨で札に浮かんだ。

 こよいは一歩退いた。町が歓迎しているのではない。入る前から分類している。

 西の町では、誰かが戸口を掃いていた。顔は見える。箒ほうきが石を擦る音も聞こえる。けれど久遠の目録には、人影も家も一行たりとも現れない。観測されない代わりに、記録へ助けを求めることもできない場所だった。

 あさひが東へ靴先を置いた。木札が増えた。『大剣』『不適合』『護衛』。一歩だけで、あさひという一人の人間が役割の束へ切り分けられていく。

 「こっちは駄目だな」

 すぐに足を戻す。札の文字は消えたが、墨の染みだけが残った。

 「左なら安全なの?」

 こよいが訊くと、久遠は答えず、西の路地へ小石を投げた。石は地面へ落ちた瞬間、音も影も失った。拾いに行けば戻せるかもしれない。だが投げたという記憶さえ、こよいの中で薄れかけている。

 「安全ではない。観測者から隠れるために、自分まで空白になる道だ」

 西の戸口にいた者が、箒を置いた。橋まで歩いてくる。足音はあるのに、近づくほど顔の造作が思い出せなくなった。目を見たはずなのに目の色が残らない。口が動く。

 ——こちらへ。

 音ではなく、忘れた後の意味だけが届いた。こよいの足が左へ半歩ずれる。呼ばれたからではない。呼ばれなかったことが、ひどく楽に思えたのだ。名前を運ぶ役目も、見つけられなかった者への約束も、空白へ入れば背負わずに済む。

 巾着の紐が指から滑った。

 あさひが手首を掴んだ。強くはない。痛みを与えず、そこにいる重さだけを返す握り方だった。

 「楽な方へ行きたいなら、そう言え。町に言わせるな」

 こよいは息を吸った。乾いた空気が喉に刺さる。それでも、自分の呼吸だと分かる。西へ向いていた爪先を橋の中央へ戻した。

 「行きたくない。忘れたくない」

 声にした途端、西の人影が一歩遠ざかった。拒絶されたのではない。言葉を持つ者を記録できず、距離を作ったのだ。

 東からは別の誘いが来た。木札の一枚に『こよい』と浮かぶ。正しい音だった。次に『集める者』、その下に『四十一柱の所有者』と続く。

 「違う」

 こよいは札を睨んだ。

 「名前は、ぼくの持ち物じゃない」

 札の墨が波打った。『所有者』の三文字だけが滲み、黒い滴になって地面へ落ちる。東の町は何でも記すが、記された側が拒めば、その分類は完全には定着しないらしい。

 久遠の前にも札が下がった。『観測者』『不適合』『裏切り』。最後の一語を見た瞬間、義眼の蒼光が鋭くなる。

 「読むな」

 あさひが言った。

 「読めば訂正したくなる。訂正すれば向こうの帳面に残る」

 久遠は奥歯を噛み、義眼の光を落とした。札を破ることも、誤りを証明することもしない。分類に返事を与えないという選択は、彼にとって計測を捨てるより難しかった。

 「……貸しにしておく」

 「誰にだ」

 「お前にではない」

 あさひが鼻を鳴らす。張り詰めていたこよいの肩から、少しだけ力が抜けた。町は三人を別々の誘惑で分断しようとする。だからこそ、互いの声が必要だった。

 東の札はさらに増え、西の人影も橋際に並び始めた。立ち止まっていれば、いつかどちらかの説明に呑まれる。

 二十七の脈が巾着きんちゃくの中で揺れた。東へ寄れば一つずつ別の名で呼ばれ、西へ寄れば全員の拍が遠くなる。どちらにも進めと告げない。直前の広場の分岐と違い、名前たちにも答えがなかった。

 おたまが橋の中央を歩いた。

 東の木札は猫を呼ぶ文字を作れない。西の町も、小鈴の音だけは消せない。名も影も持たないおたまは、二つの町のどちらにも数えられず、道標の真下で立ち止まった。前脚で石の傷を掻かく。

 削られた三行目が現れた。

 『町を選ぶな。町と町のあいだを歩け』

 石橋の中央に、髪一本ほどの継ぎ目が走っていた。東の名札にも、西の空白にも属さない細い線。こよいが巾着を近づけると、二十七の脈が初めて揃った。

 「道は二つじゃなかったんだ」

 久遠が目録を閉じた。観測者に読まれる東の地図も、自分を失う西の空白も使わない。線は細く、三人が並ぶことはできない。あさひが先頭に立ち、こよいが続き、久遠が殿しんがりについた。おたまは継ぎ目の上を危なげなく進む。

 東の木札が激しく鳴った。旅人を分類できず、空の札が次々に増える。西の住人たちは箒を止め、顔のない視線をこちらへ向けた。どちらの町も、間を歩く者を自分の側へ引き込もうとしていた。

 こよいは自分の名を胸の中で一度だけ確かめた。声にはしない。巾着の温もりと、前を行くあさひの足音と、後ろの義眼の蒼い光。その三つが残っている限り、細い線から落ちない。

 橋を渡り終えると、二つの町は背後で一枚に重なった。名札の音も、箒の音も止む。振り返れば、そこには入口のない壁だけがあった。

 おたまの小鈴が鳴った。観測者には選択を読ませず、自分たちの名も捨てなかった。その答えを携えて、四つの足取りは経蔵へ続く砂の道へ入った。
 名のある町にも、名のない町にも、帰る者はいる。四つの足取りは、そのどちらをも背に負って、砂の道を進んだ。
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】魔王を殺された黒竜は勇者を許さない 表紙

【完結】魔王を殺された黒竜は勇者を許さない

幼い竜は何もかも奪われた。勇者を名乗る人族に、ただ一人の肉親である父を殺される。慈しみ大切にしてくれた魔王も……すべてを奪われた黒竜は次の魔王となった。神の名づけにより力を得た彼は、魔族を従えて人間への復讐を始める。奪われた痛みを乗り越えるために。 だが、人族にも魔族を攻撃した理由があった。滅ぼされた村や町、殺された家族、奪われる数多の命。復讐は連鎖する。 互いの譲れない正義と復讐がぶつかり合う世界で、神は何を望み、幼竜に力と名を与えたのか。復讐を終えるとき、ガブリエルは何を思うだろうか。 ハッピーエンド 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2024/03/02……完結 2023/12/21……エブリスタ、トレンド#ファンタジー 1位 2023/12/20……アルファポリス、男性向けHOT 20位 2023/12/19……連載開始
ファンタジー 完結 長編 R15
文字数 98,965
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~ 表紙

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。
恋愛 完結 ショートショート
文字数 9,943
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて―― 表紙

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
恋愛 完結 短編 R18
文字数 8,491
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。 表紙

【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。

【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎ 長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!? しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。 ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。 といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。 とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない! フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
ファンタジー 完結 長編 R15
文字数 564,689
貞操逆転世界のメンズエステで働くことになった 表紙

貞操逆転世界のメンズエステで働くことになった

貞操観念が逆転した現代日本。大学生の佐伯恒一は、金のない生活を変えるため、男性セラピストが女性を施術する「メンズエステ」で働き始める。 そこで待っていたのは、個性的な先輩セラピストと、どこか怪しい女性オーナー、そして一癖も二癖もある女性客たち。 普通の大学生だった恒一は、次第にメンズエステの世界へとのめり込んでいく。
ファンタジー 完結 長編 R15
文字数 119,032
異世界でぺったんこさん!〜無限収納5段階活用で無双する〜 表紙

異世界でぺったんこさん!〜無限収納5段階活用で無双する〜

 間もなく50歳になる銀行マンのおっさんは、高校生達の異世界召喚に巻き込まれた。  何故か若返り、他の召喚者と同じ高校生位の年齢になっていた。  召喚したのは、魔王を討ち滅ぼす為だと伝えられる。自分で2つのスキルを選ぶ事が出来ると言われ、おっさんが選んだのは無限収納と飛翔!  しかし召喚した者達はスキルを制御する為の装飾品と偽り、隷属の首輪を装着しようとしていた・・・  いち早くその嘘に気が付いたおっさんが1人の少女を連れて逃亡を図る。  その後おっさんは無限収納の5段階活用で無双する!・・・はずだ。  上空に飛び、そこから大きな岩を落として押しつぶす。やがて救った少女は口癖のように言う。  またぺったんこですか?・・・
ファンタジー 完結 長編 R15
文字数 403,707
全人類の玄関がダンジョン化~SSSスキルでスケルトン軍団を増やし、放置で稼いで贅沢生活を目指します~ 表紙

全人類の玄関がダンジョン化~SSSスキルでスケルトン軍団を増やし、放置で稼いで贅沢生活を目指します~

ある朝、全世界の人間が自宅から出られなくなった。 そしてしばらくすると、今まで開かなかった玄関の先に現れたのは――モンスターと宝箱の待つダンジョン。 大学生の佐藤陸が手に入れたスキルは、SSSランクの『スケルトンラッシュ』。 倒したモンスターをスケルトンに変え、自分の仲間として増やしていける能力だった。 「いや、絶対面白いだろ!」 最初は一体だったスケルトンも、モンスターを倒すたびに二体、三体と増えていく。 拾った武器を渡せば使いこなし、陸の代わりにモンスターを倒し、その経験値まで陸に入る。 しかもスケルトンたちは、陸が自宅で休んでいる間もダンジョンで狩りを続けてくれる。 そして、モンスターを倒して手に入るポイントには、とんでもない使い道があった。 食料、日用品、家電、武器、防具、スキル、住宅拡張。 ショップを開けば、生活に必要なものから普通では手に入らないものまで、ありとあらゆる商品が並んでいる。 「これ、ポイントさえ稼げたら、めちゃくちゃ贅沢に暮らせるんじゃね?」 美味いものを食べる。 欲しかった家電を買う。 部屋を広げる。 新しい装備やスキルを手に入れる。 そのためにも、ダンジョンへ行く。 モンスターを倒す。 スケルトンを増やす。 増えたスケルトンたちに、さらにモンスターを倒してもらう。 そうして小さかったスケルトン軍団は、少しずつ大きく、強くなっていく。 突然ダンジョンと繋がった世界で、誰よりもこの異常事態を楽しみながら、SSSスキルとスケルトン軍団で攻略も日常生活もどんどん快適にしていく。 そんな大学生の現代ダンジョン生活が始まった。 ─────────────── ※本作は小説家になろう・カクヨム・アルファポリスにも投稿しています。アルファポリスでは文字数制限のため、短縮タイトルで掲載しています。
ファンタジー 連載中 長編
文字数 262,643
記憶なし、魔力ゼロのおっさんファンタジー 表紙

記憶なし、魔力ゼロのおっさんファンタジー

 勇者と魔王の戦いの舞台となっていた、"ルクガイア王国"  その戦いは多くの犠牲を払った激戦の末に勇者達、人類の勝利となった。  そんなところに現れた一人の中年男性。  記憶もなく、魔力もゼロ。  自分の名前も分からないおっさんとその仲間たちが織り成すファンタジー……っぽい物語。  記憶喪失だが、腕っぷしだけは強い中年主人公。同じく魔力ゼロとなってしまった元魔法使い。時々訪れる恋模様。やたらと癖の強い盗賊団を始めとする人々と紡がれる絆。  その先に待っているのは"失われた過去"か、"新たなる未来"か。 ◆◆◆  元々は私が昔に自作ゲームのシナリオとして考えていたものを文章に起こしたものです。  小説完全初心者ですが、よろしくお願いします。 ※なお、この物語に出てくる格闘用語についてはあくまでフィクションです。 表紙画像は草食動物様に作成していただきました。この場を借りて感謝いたします。
ファンタジー 完結 長編
文字数 971,793