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第14章 風の残像
第413話 風が消す線
最初に気づいたのは、あさひだった。
「壁だ。亀裂が入ってる」
列車の進行方向に向かって左側、窓と窓のあいだの壁面に、髪の毛一本分ほどの線が走っている。
こよいには見えなかった。あさひが指先で示して、ようやく分かる。
壁の塗装に沿って、縦に一筋。
久遠が義眼を向けた。
蒼光が壁面を舐めるように這い、亀裂の深さを測る。
「構造的な損傷じゃない。壁そのものは壊れていない。だが——隙間がある。外と中が、ここで繋がっている」
繋がっている、という言葉が消えないうちに、風が入ってきた。
音はしなかった。
風が吹くときに伴う音——木の葉が鳴る音、布がはためく音、空気が耳を叩く音——そのどれもがなかった。
無音の風だった。
こよいの髪が揺れない。衣服もなびかない。
風は目に見えず、肌にも触れない。
ただ、通った場所の色が消えた。
壁の塗装が白くなった。もともと薄い灰色だった壁が、亀裂の周囲から円を描くように脱色されていく。塗料が剥がれたのではない。色だけが抜けた。
「触るな」
久遠が鋭く言った。
こよいの手が止まる。
「この風は消す。物理的な風じゃない。通過した場所から情報を奪う。色、形、質感——表面に残っている記録を削り取る風だ」
壁の白い円が広がっている。
ゆっくりと、けれど確実に。
あさひが視線を床に落とした。
床板の上に、一本の線が引かれていた。赤い塗料で、壁際から壁際まで、車両を横断するように引かれた直線。
「この線、何だ」
「路線図の一部だ。かつてこの列車が走っていた路線のうち、廃線になった区間を示している。車掌が残した記録だろう。もう存在しない線路の、最後の痕跡だ」
風が、その線に触れた。
赤い塗料が端から消えていく。左から右へ、線をなぞるように白くなっていく。消えた部分は白ではなく、何もない色だった。もともとそこに線など引かれていなかったかのように、床板の木目だけが残った。
「消されてる」
こよいが声を漏らした。
「路線の記録が消えている。この線がなくなったら、あの路線があったことを誰も——」
「知らなくなる。目録にも載っていない廃線だ。この床の線が最後だった」
久遠は目録を胸元に引き寄せた。
表紙を手のひらで覆い、風から頁を隠すようにしている。
「目録を風に晒すわけにいかない。余白の隠し文字がまだ読み切れていない。ここで消されたら取り返しがつかない」
赤い線は半分まで消えていた。
風は見えないが、消えていく線の速度で、どこを通っているかが分かる。亀裂から入り、床を這い、線を辿っている。
あさひが立ち上がった。
布に包んだままの大剣を背から下ろし、亀裂の前に立った。
「塞ぐ」
包んだ剣の平たい面を壁に押し当て、亀裂を覆った。
剣と壁のあいだに、わずかな隙間が残る。あさひは自分の外套を脱ぎ、丸めて剣と壁の隙間に押し込んだ。
風が止まった。
車内の空気が、一瞬だけ重くなった。閉じ込められた空気が行き場を失ったように、耳の奥で圧が変わる。
こよいは床を見た。
赤い線は三分の一だけ残っていた。左端から中央を過ぎたあたりまでが消え、右側の短い区間だけが、かすかに赤い痕跡を留めている。
「……残った」
「全部じゃねえ。だが、全部消えるよりましだ」
あさひは剣を壁に押し当てたまま、片手で布越しに柄を握り直した。
外套が詰め物になって、亀裂を塞いでいる。風はもう入ってこない。
久遠が床に膝をついた。
残った赤い線に蒼光を当て、目録の空白の頁を開いて、線の位置と長さを書き写している。
「消えた区間は復元できない。だが、残った区間から路線の方向と接続先は推測できる。記録しておく」
「消えた床は元に戻るのか」
こよいが訊いた。
久遠は首を振った。
「戻らない。風が通った場所の情報は削られた。木目は残っているが、そこに線があったという事実は消えている。床にとっては、最初からなかったのと同じだ」
こよいは消えた床の面を見つめた。
他の場所と変わらない木目。何の痕跡もない。
ほんの数秒前まで、そこに赤い線があったことを、こよいの目は覚えている。けれど床は忘れていた。
巾着がかすかに震えた。
名前たちは風の間も黙っていた。声を出せば、名前もまた消される対象になる。
あさひが壁から離れた。
剣を背に戻し、外套を肩にかけ直す。亀裂は外套の繊維で塞がれたまま、静かだった。
「次はもっと太い亀裂が来るかもしれねえ」
「そうだな。壁が弱くなっている。漂白が列車の構造そのものを削り始めているんだろう」
久遠は目録に書き写した線の記録を確認し、頁を閉じた。
列車は走り続けている。
おたまは消え残った赤い線の端に座り、小鈴を一度鳴らした。三分の一の線が同じ拍で明滅する。意味はまだ読めなくても、記録が死んでいないことだけは分かった。
車輪の音だけが変わらず響いていた。床の赤い線の残りが、振動に合わせてわずかに揺れている。
消えなかった三分の一。
それが何を指しているのか、まだ誰にも分からなかった。
分からないものを、分からないまま抱えて進む。それも旅の一部だった。こよいは指し示す先の闇を見つめ、答えの出ない問いを胸の奥へしまった。いつか意味が分かる日まで、この違和感を忘れずにおこう——分からないことを抱える強さも、旅が教えてくれたものの一つだった。
闇の奥で、何かがまだ、答えを待っていた。
「壁だ。亀裂が入ってる」
列車の進行方向に向かって左側、窓と窓のあいだの壁面に、髪の毛一本分ほどの線が走っている。
こよいには見えなかった。あさひが指先で示して、ようやく分かる。
壁の塗装に沿って、縦に一筋。
久遠が義眼を向けた。
蒼光が壁面を舐めるように這い、亀裂の深さを測る。
「構造的な損傷じゃない。壁そのものは壊れていない。だが——隙間がある。外と中が、ここで繋がっている」
繋がっている、という言葉が消えないうちに、風が入ってきた。
音はしなかった。
風が吹くときに伴う音——木の葉が鳴る音、布がはためく音、空気が耳を叩く音——そのどれもがなかった。
無音の風だった。
こよいの髪が揺れない。衣服もなびかない。
風は目に見えず、肌にも触れない。
ただ、通った場所の色が消えた。
壁の塗装が白くなった。もともと薄い灰色だった壁が、亀裂の周囲から円を描くように脱色されていく。塗料が剥がれたのではない。色だけが抜けた。
「触るな」
久遠が鋭く言った。
こよいの手が止まる。
「この風は消す。物理的な風じゃない。通過した場所から情報を奪う。色、形、質感——表面に残っている記録を削り取る風だ」
壁の白い円が広がっている。
ゆっくりと、けれど確実に。
あさひが視線を床に落とした。
床板の上に、一本の線が引かれていた。赤い塗料で、壁際から壁際まで、車両を横断するように引かれた直線。
「この線、何だ」
「路線図の一部だ。かつてこの列車が走っていた路線のうち、廃線になった区間を示している。車掌が残した記録だろう。もう存在しない線路の、最後の痕跡だ」
風が、その線に触れた。
赤い塗料が端から消えていく。左から右へ、線をなぞるように白くなっていく。消えた部分は白ではなく、何もない色だった。もともとそこに線など引かれていなかったかのように、床板の木目だけが残った。
「消されてる」
こよいが声を漏らした。
「路線の記録が消えている。この線がなくなったら、あの路線があったことを誰も——」
「知らなくなる。目録にも載っていない廃線だ。この床の線が最後だった」
久遠は目録を胸元に引き寄せた。
表紙を手のひらで覆い、風から頁を隠すようにしている。
「目録を風に晒すわけにいかない。余白の隠し文字がまだ読み切れていない。ここで消されたら取り返しがつかない」
赤い線は半分まで消えていた。
風は見えないが、消えていく線の速度で、どこを通っているかが分かる。亀裂から入り、床を這い、線を辿っている。
あさひが立ち上がった。
布に包んだままの大剣を背から下ろし、亀裂の前に立った。
「塞ぐ」
包んだ剣の平たい面を壁に押し当て、亀裂を覆った。
剣と壁のあいだに、わずかな隙間が残る。あさひは自分の外套を脱ぎ、丸めて剣と壁の隙間に押し込んだ。
風が止まった。
車内の空気が、一瞬だけ重くなった。閉じ込められた空気が行き場を失ったように、耳の奥で圧が変わる。
こよいは床を見た。
赤い線は三分の一だけ残っていた。左端から中央を過ぎたあたりまでが消え、右側の短い区間だけが、かすかに赤い痕跡を留めている。
「……残った」
「全部じゃねえ。だが、全部消えるよりましだ」
あさひは剣を壁に押し当てたまま、片手で布越しに柄を握り直した。
外套が詰め物になって、亀裂を塞いでいる。風はもう入ってこない。
久遠が床に膝をついた。
残った赤い線に蒼光を当て、目録の空白の頁を開いて、線の位置と長さを書き写している。
「消えた区間は復元できない。だが、残った区間から路線の方向と接続先は推測できる。記録しておく」
「消えた床は元に戻るのか」
こよいが訊いた。
久遠は首を振った。
「戻らない。風が通った場所の情報は削られた。木目は残っているが、そこに線があったという事実は消えている。床にとっては、最初からなかったのと同じだ」
こよいは消えた床の面を見つめた。
他の場所と変わらない木目。何の痕跡もない。
ほんの数秒前まで、そこに赤い線があったことを、こよいの目は覚えている。けれど床は忘れていた。
巾着がかすかに震えた。
名前たちは風の間も黙っていた。声を出せば、名前もまた消される対象になる。
あさひが壁から離れた。
剣を背に戻し、外套を肩にかけ直す。亀裂は外套の繊維で塞がれたまま、静かだった。
「次はもっと太い亀裂が来るかもしれねえ」
「そうだな。壁が弱くなっている。漂白が列車の構造そのものを削り始めているんだろう」
久遠は目録に書き写した線の記録を確認し、頁を閉じた。
列車は走り続けている。
おたまは消え残った赤い線の端に座り、小鈴を一度鳴らした。三分の一の線が同じ拍で明滅する。意味はまだ読めなくても、記録が死んでいないことだけは分かった。
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消えなかった三分の一。
それが何を指しているのか、まだ誰にも分からなかった。
分からないものを、分からないまま抱えて進む。それも旅の一部だった。こよいは指し示す先の闇を見つめ、答えの出ない問いを胸の奥へしまった。いつか意味が分かる日まで、この違和感を忘れずにおこう——分からないことを抱える強さも、旅が教えてくれたものの一つだった。
闇の奥で、何かがまだ、答えを待っていた。
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───────────────
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すごいよね。
―――――――――
以前公開していた小説のセルフリメイクです。
アルファポリス様で掲載していたのは同名のリメイク前の作品となります。
基本的には同じですが、リメイクするにあたって展開をかなり変えているので御注意を。
1話2000~3000文字で毎日更新してます。