神雧 - KAMIATSUME -

神代 一文

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第15章 潮の外縁

第442話 座標の逆流

声なき井戸町の裏手には、貝を中枢へ運んだ古い搬送線が残っていた。前章で捨てた列車へ戻ったのではない。根が空の貨車一両を動かし、外海区画から潮の外縁へ抜ける短い線路を開いたのだ。根が霧を纏まとわせたその一両を、三人はこれまでと同じように霧列車きりれっしゃと呼んだ。

 三人とおたまが乗ると、窓の外で景色が二重になった。

 列車れっしゃが走っている線路の左側に、もう一本の線路が見える。同じ方角に伸び、同じカーブを描いている。ただし、その線路の上には列車れっしゃがいない。線路だけが、何もない空間を走っている。
 こよいは窓に顔を近づけた。二本目の線路の枕木まくらぎが、こちらの線路と寸分違すんぶんたがわず同じ間隔かんかくで並んでいる。影まで同じだった。

 「座標ざひょうが二重に走ってる」

 久遠くおんが目録もくろくを開いた。頁ページの上で文字が震えている。いつもの震えではない。文字が二行に分裂し、同じ内容が並走するように走っている。

 「書き換えだ。観測者かんそくしゃが、俺たちが通ってきた座標ざひょうを上から塗り直している。元の記録きろくが消える前に、新しい座標ざひょうが被かぶさって、二重になってる」

 「ぼくたちが今いるのは、どっちの座標ざひょう?」

 久遠くおんが義眼ぎがんの焦点を窓の外に合わせた。蒼光そうこうが二本の線路を交互に照らす。

 「古い方だ。俺たちの足跡あしあとが刻まれている方。新しい座標ざひょうは空だ。中身がない。名前も、記録きろくも、温度も入っていない。殻からだけの座標ざひょうを被かぶせて、元の道を無効にしようとしている」

 窓の外で、二本目の線路がゆっくりと近づいてきた。
 こよいは息を詰めた。窓硝子まどがらすに吐いた息が白く曇くもり、二本の線路が曇くもりの向こうで一つに溶けかけている。二つの線路の間隔かんかくが狭まっている。枕木まくらぎが重なりかけ、レールの影が一つに溶け始めていた。

 「合流する」

 久遠くおんの声が硬くなった。

 「新しい座標ざひょうが古い座標ざひょうを飲み込む。合流した瞬間、古い座標ざひょうの記録きろくは上書きされる。俺たちがここを通った事実ごと消える」

 あさひが立ち上がった。

 「止められるか」

 「俺の目録もくろくで、古い座標ざひょうの記録きろくを写し取る。合流する前に、この頁ページに焼きつければ、元の記録きろくは目録もくろくの中に残る。上書きされても、写しがある」

 「やれ」

 短い一語だった。声に迷いのない響きが車内の空気を震わせ、窓硝子まどがらすの表面で微かに反響はんきょうした。あさひは窓際に立ち、二本の線路が合流する方角を見据えた。剣の柄つかに手を添えている。斬れる相手ではない。それでも、身体を外に向けることで久遠くおんの背中を守っていた。

 久遠くおんが目録もくろくの頁ページを大きく開いた。義眼ぎがんの蒼光そうこうが一段強くなり、窓の外の景色を蒼い光で舐なめるように走査そうさする。光が触れた場所から、金色の文字が浮かび上がった。線路の枕木まくらぎに刻まれた座標ざひょう、レールの継ぎ目に残された通過記録きろく、石の隙間すきまに染みた温度の痕跡こんせき。
 久遠くおんの指が頁ページの上を走る。蒼い光が拾い上げた記録きろくを、一つずつ紙に写していく。文字が紙に焼きつくたびに、目録もくろくの頁ページが微かに熱を帯びた。

 二本の線路が、あと数歩分の距離まで近づいていた。

 こよいは巾着きんちゃくを胸に押し当てた。神々の脈動みゃくどうが不安定になっている。二重の座標ざひょうに挟まれて、名前たちが方角を見失いかけていた。

 「大丈夫。ここにいるよ」

 小さく言った。巾着きんちゃくに向かって。名前たちに向かって。神々が一度だけ強く脈打ち、脈動みゃくどうが元のリズムに戻った。こよいの声が、座標ざひょうの代わりになった。

 線路が重なった。
 車内が一瞬だけ白く光り、窓の外の景色がぶれた。レールの軋きしみが高くなり、床が跳ねるように揺れた。

 光が収まったとき、窓の外には線路が一本だけ残っていた。
 新しい方だ。古い線路は消えている。枕木まくらぎも、レールも、影も、すべて新しい座標ざひょうに塗り替えられていた。

 久遠くおんが目録もくろくを閉じた。額ひたいに薄く汗が浮いている。

 「間に合った。古い座標ざひょうの記録きろくは、この頁ページに全部写してある。上書きされたのは外だけだ。俺たちの目録もくろくの中には、元の道が残っている」

 あさひが窓の外を一瞥いちべつした。

 「向こうは消した。こっちは残した。これで帳尻ちょうじりは合うか」

 「合わない。向こうはまたやる。だが、やるたびに俺が写す。消す速度より、写す速度が勝てばいい」

 久遠くおんが目録もくろくの表紙を撫なでた。紙の温度がまだ高い。記録きろくを焼きつけた熱が、残っている。

 こよいは窓の外を見た。新しい座標ざひょうの上を、列車れっしゃが走っている。景色は同じに見える。けれど、足元の記録きろくは違う。今走っている線路には、三人の足跡あしあとがない。

 巾着きんちゃくを握り直した。足跡あしあとは消されても、名前は消えていない。目録もくろくの中に道がある。それで十分だった。
 窓の外を風が吹いた。新しい座標ざひょうの風は、古い座標ざひょうの風より薄い。匂いがない。記憶きおくを含まない、空白の風だった。

 列車れっしゃは、書き換えられた座標ざひょうの上を、それでも前へ走り続けた。

 おたまが後ろ向きに流れる古い線路へ小鈴を鳴らすと、目録へ写した座標が同じ拍で光る。空の座標には反響がない。消される前の道を音でも選別できたため、久遠くおんは数字だけでなく鈴の拍を検算に使った。
 数字だけでは、生きた道と死んだ道は見分けきれない。おたまの小鈴が刻む拍が、久遠くおんの座標検算に、もう一つの確かさを添えていた。書き換えられた地図の上でも、猫の耳だけは欺あざむけなかった。
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