神雧 - KAMIATSUME -

神代 一文

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第15章 潮の外縁

第445話 霧の遠さ

列車の反対側の扉を手で開き、三人とおたまは四柱の金線が示す脇の霧へ滑り込んだ。正面の十二の投影殻が車内へ集まる間に、中継点の外側を回って中枢への別経路を探す。

 霧きりの向こうに、何かがある。

 それは確信ではなく、肌の感覚だった。潮しおの外縁がいえんを歩き始めてから、霧きりの質が変わっている。湿度ではない。霧きりそのものが、何かを隠すために濃くなっている。

 こよいは巾着きんちゃくを胸に当て、神々の脈動みゃくどうを確かめた。規則的きそくてきな共鳴だった。

 「座標ざひょうがある」

 久遠くおんが目録もくろくを広げたまま立ち止まった。
 蒼光そうこうが頁ページの上で揺れている。文字が霧きりに反応するように明滅めいめつし、頁ページの端に細い金色の線が一本だけ走った。

 「目録もくろくの裏面に記録きろくされていた観測者かんそくしゃの業務記録ぎょうむきろくに、この座標ざひょうが出てくる。経蔵きょうぞうの分室。名前の一時保管施設だ。霧きりの向こうにある」

 あさひが剣の柄つかを叩いた。

 「見えるのか」

 「見えない。だが座標ざひょうは読める。距離にして三百歩。方角は正面。だが——」

 久遠くおんは義眼ぎがんを細めた。

 「近づけない。この霧きりは観測者かんそくしゃが設置した遅延障壁ちえんしょうへきだ。中に入った者の体感時間を引き延ばして、実際には一歩も進んでいないように見せる」

 こよいは足元を見た。
 貝殻かいがらの粉に、自分の足跡がある。たしかに歩いてきた。けれど振り返ると、出発点はすぐそこにあった。十分は歩いたはずなのに、三歩分しか進んでいない。

 「……騙だまされてたんだ」

 「騙だますというより、薄めている。時間と距離の関係を霧きりが書き換えている。俺たちの身体は動いているが、空間が伸びている」

 あさひが地面を蹴けった。砂が飛ぶ。飛んだ砂は、途中で速度を失い、霧きりの中に溶けるように消えた。

 「力任せは無駄だ。霧きりの密度みつどが高い場所ほど、速度が食われる」

 「じゃあ、どうする」

 久遠くおんは目録もくろくを閉じ、腕を組んだ。

 「遅延障壁ちえんしょうへきは、直線移動を前提に設計されている。まっすぐ進む者を減速させる仕組みだ。だから、直線を避ける」

 久遠くおんは足元に、靴の先で弧こを描いた。

 「円を描くように歩く。障壁は直線の速度だけを測っている。円弧えんこの移動には対応していない。理ことわりの計器は効率的だが、想定外の動きには弱い」

 三人は横に並び、緩い弧こを描くようにして歩き始めた。
 奇妙な歩行だった。目的地は正面にあるのに、身体は斜めに進んでいる。足元の感覚も変わった。直線で歩いていたときの引き延ばされるような重さが消え、足が軽くなった。

 霧きりの色が変わり始める。
 灰色から、薄い銀色へ。銀の霧きりの向こうに、輪郭りんかくが見えた。

 建物ではない。
 石の柱が三本、霧きりの中に立っている。柱の表面に、文字が刻まれていた。旧字体きゅうじたいの名前が、びっしりと彫り込まれている。

 「分室の入口だ」

 久遠くおんの声が硬くなった。

 「だが、中身はない。名前はすでに移送いそうされている。残っているのは、ここに名前があったという記録きろくだけだ」

 こよいは柱に手を触れた。
 石は冷たい。けれど文字の部分だけが、かすかに温かかった。名前の残熱ざんねつが、石の中に閉じ込められている。

 巾着きんちゃくの神々が反応した。脈が速くなる。
 柱に刻まれた名前の一つ一つに、仲間の気配を感じ取っている。

 「……ここにいたんだね」

 こよいは柱の文字をなぞった。指先に伝わる温もりは微かだったが、確かにあった。

 久遠くおんが目録もくろくを開き、柱の文字を写し始めた。一文字ずつ、正確に。義眼ぎがんの蒼光そうこうが、石に刻まれた旧字きゅうじを照らし出す。

 あさひは三本の柱の周囲を歩き、地面の状態を確かめていた。

 「足跡がある。新しい」

 「観測者かんそくしゃのものか」

 「いや、違う。裸足はだしだ。子どもの足くらいの大きさだ」

 三人は顔を見合わせた。
 名前が、自分の足で歩いたのだ。鐘かねの音おとに呼ばれて、ここから出て行った名前がいる。

 こよいは柱の根元に膝ひざをつき、写本しゃほんを広げた。柱の文字を写すのではなく、裸足はだしの足跡の方角だけを記した。その名前が、どこへ向かったのか。
 足跡は、霧きりの薄い方へ続いていた。
 鐘かねの音おとが届く方角。星降町ほしふりまちの方角。

 「……帰れたのかな」

 こよいの声は小さかった。

 霧きりが再び濃くなり始めている。遅延障壁ちえんしょうへきが修復を始めたのだ。
 久遠くおんは目録もくろくを閉じ、帰路の弧こを描き始めた。

 三本の柱が霧きりに沈んでいく。遠ざかるほど、霧きりは深くなる。銀色の霧きりが柱の輪郭りんかくを少しずつ飲み込み、刻まれた文字の最後の一画が見えなくなった。けれど柱の温もりは、こよいの指先にまだ残っていた。
 巾着きんちゃくの中で、神々が静かに脈打っている。柱に触れたときよりも穏やかな脈で、仲間がいた場所の記憶を噛かみしめるように震えていた。
 仲間の痕跡こんせきを感じた余韻よいんが、布越しに伝わってくる。

 おたまは直線ではなく、金線の周りを小さな弧で歩いた。小鈴の間隔が縮まる弧だけを選ぶと、遅延の引き延ばしが働かない。久遠くおんの解析を猫が身体で実演し、三人は同じ曲線を踏んだ。

 背後では霧が修復を始める。投影殻は追ってこない。中枢へ回収され、長の一体へ統合される気配が金線の先で強まった。十二を置き去りにしたのではなく、最終的に対峙する一つの計器へ集めさせたのだ。
 十二を置き去りにした。その重さを、こよいは忘れないと決めた。統合され、長の一体になっていく気配を背に、三人は前だけを見た。救えなかった数を数えることが、次に救う理由になる。
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