神雧 - KAMIATSUME -

神代 一文

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第16章 余白の終点

第473話 静かな決まり

谷を抜けた先は、広い窪地くぼちだった。

 岩の天蓋てんがいが空を覆おおい、薄い光が隙間すきまから差し込んでいる。光は白くもなく暖かくもなく、ただ物の輪郭りんかくを見せるためだけに存在しているような、用途だけの明るさだった。

 地面には細かい砂利じゃりが敷かれ、その上に無数の石板せきばんが立てられている。墓標ぼひょうに似た形をしているが、文字は刻まれていない。表面はどれも滑らかで、何かが刻まれていた痕跡こんせきすらなかった。

 こよいが足を一歩踏み出した。

 砂利じゃりを踏む音おとが、窪地くぼちの壁に当たって返ってくる。谷の中では消えていた反響はんきょうが、ここでは戻ってきた。だが、戻り方がおかしい。踏んだ音おとよりも、返ってきた音おとの方が小さい。減衰げんすいしているのではなく、削られている。

 久遠くおんが片手を上げ、全員を止めた。

 義眼ぎがんの蒼光そうこうが石板せきばんの表面を走査そうさする。光が当たった石板せきばんの一枚が、ほんの一瞬だけ文字を浮かび上がらせた。文字は読めるほど明瞭めいりょうではなく、影かげのように薄く、すぐに消えた。

 「記録きろくが残っている」

 久遠くおんが囁ささやいた。声量を極限まで絞っている。

 「だが、声を出すと消える。この場所は音おとで記録きろくを洗い流す仕組みになっている。さっきの谷とは逆だ。谷は反響はんきょうを潰していた。ここは反響はんきょうを使って、石板せきばんの記録きろくを削る」

 こよいは息を止めた。

 つまり、自分たちが発する音おとのすべてが、この場所に残された記録きろくを破壊する道具になる。歩く音おとも。呼吸こきゅうの音おとも。

 あさひが眉まゆをひそめた。口を開きかけて、閉じた。何か言おうとして、久遠くおんの説明を思い出したのだ。

 三人は顔を見合わせた。

 声を出せない。だが意思を伝えなければ、この先には進めない。

 久遠くおんが目録もくろくを開いた。頁ページは白い。だが余白よはくの部分に、指先で文字を書く仕草をしてみせた。こよいは頷うなずき、懐から鉛筆えんぴつを取り出した。写本しゃほんの裏表紙に、小さく書く。

 『どうする』

 久遠くおんは写本しゃほんを受け取り、その下に書き足した。

 『石板せきばんを読む。声を出すな。足音あしおとも最小限にしろ』

 あさひにも見せる。あさひは鼻から短く息を吐き、顎あごで了解の合図あいずを返した。

 三人は靴底を砂利じゃりに押しつけ、擦するようにして歩き始めた。足を上げず、滑らせる。音おとを立てない歩き方。あさひは大剣の包みが鳴らないよう、左手で布の先端を押さえていた。

 最初の石板せきばんに近づいた。

 久遠くおんが義眼ぎがんの光を石板せきばんに当てる。蒼い光が表面を撫なでると、文字の残像ざんぞうが浮かんだ。断片だんぺん的な文字列。名前の一部らしきものが読み取れた。

 『——の、み——』

 文字は数秒で消えた。光を当てている間だけ読める。しかし光を当て続ければ、義眼ぎがんの蒼光そうこうそのものが音おとを発する可能性がある。光にもわずかな振動しんどうが伴う。

 久遠くおんは唇くちびるを引き結び、一枚の石板せきばんに費やす時間を三秒と決めたようだった。光を当て、読み取り、離す。その間に得た情報を、指先で目録もくろくの余白よはくに走り書きする。音おとを出さない記録きろく方法。

 こよいは久遠くおんの横で、巾着きんちゃくを胸に抱いたまま見守った。神々が静かに脈打っている。その振動しんどうが音おとに変わらないよう、布越しに手のひらで覆おおい続けた。

 二枚目。三枚目。久遠くおんは石板せきばんを一枚ずつ読み進めた。

 文字の断片だんぺんが少しずつ繋つながっていく。名前ではなかった。規則だ。この場所に刻まれていたのは、誰かの名前ではなく、この場所そのものの決まりごとだった。

 久遠くおんが写本しゃほんの裏に書いた。

 『ここは処分場しょぶんじょうの入口だ。石板せきばんに刻まれていたのは手続きてつづきの記録きろく。名前を消すための手順が書かれていた』

 こよいは目を見開いた。

 声を出しそうになり、唇くちびるを噛かんだ。歯が唇くちびるの皮を裂き、鉄の味が口の中に広がった。

 あさひが肩に手を置いた。強く。痛いほどに。その圧力が「声を出すな」という合図あいずだった。

 こよいは鼻から静かに息を吸い、涙を堪こらえた。

 ここに記録きろくされていたのは、名前を消す手続きてつづき。つまりこの窪地くぼちは、名前の処刑場しょけいじょうの受付だった。静かな場所。清潔な場所。手順に従い、粛々しゅくしゅくと名前を消していく。暴力ではなく、事務的な消去しょうきょ。

 それが、この場所の「静かな決まり」だった。

 久遠くおんは唇くちびるの端に薄い皺しわを刻んだ。怒りではない。嫌悪だ。整然と並べられた石板せきばんの一つ一つに、消された名前の最後の叫びが閉じ込められている。その叫びすら、声を出せば消えてしまう。

 久遠くおんが次の石板せきばんに光を当てた。

 文字が浮かぶ。今度は長い文章だった。

 『対象の呼称を音声にて発し、発声と同時に石板せきばん面を掌てのひらにて接触せっしょくせよ。振動しんどうの転写てんしゃにより記録きろくを基盤きばんから分離し、分離した記録きろくを——』

 三秒が過ぎ、文字が消えた。

 久遠くおんは目を閉じ、読み取った内容を頭の中で反芻はんすうしているようだった。やがて写本しゃほんに書いた。

 『名前を声に出して呼び、同時に石板せきばんに触れる。声の振動しんどうで記録きろくを石から剥はがす。剥はがされた記録きろくは消滅しょうめつする。つまり、名前を呼ぶこと自体が消去しょうきょの手段になっている』

 こよいの手が震えた。

 名前を呼ぶことが、殺すことと同じ。この場所では、愛も祈りも、声にした瞬間に処刑の道具に変わる。

 あさひが大剣の柄つかを握り直した。斬きれる相手がいないことへの苛立ちが、拳こぶしの白さに出ている。

 久遠くおんが三人の前に立ち、無言で先を指した。窪地くぼちの奥に、石板せきばんが途切れる場所がある。そこから先は暗く、何も見えない。

 だが、風がある。微かな、温もりを含んだ風。

 こよいは巾着きんちゃくを握った。神々が応えるように脈打つ。声は出さない。出せない。だが神々の温もりが、こよいの掌てのひらから指先へ、指先から空気へ、わずかに伝わっていく。

 石板せきばんの一つが、ほんの一瞬だけ光った。温もりに反応したのかもしれない。

 久遠くおんがそれを見逃さなかった。義眼ぎがんが鋭く光り、石板せきばんに刻まれていた最後の一文を読み取った。

 消えかけの文字。辛うじて読める。

 『されど、声ならざる声にて呼ばれし名は、この石に留とどまる』

 久遠くおんが写本しゃほんに書いた。大きく。

 『声でなければ消えない。想いで呼べば、残る』

 こよいは涙を拭ぬぐわなかった。拭ぬぐう音おとすら出したくなかった。ただ、胸の中で名前を呼んだ。声にはしない。心の中だけで。

 石板せきばんが、再び淡く光った。

 三人は無言のまま、窪地くぼちの奥へ向かって歩き始めた。足音あしおとを殺し、息を潜め、心の中だけで祈りながら。

 静かな決まりの場所を、静かなまま通り抜けていく。

 おたまは文字のない石板の間を縫い、音を立てずに先導した。こよいが心の中で「あきこ」と呼んだ瞬間だけ、猫の影が紙片のある胸元へ伸びる。声ならざる声でも、呼ばれた名はここに留まる。その逆理を石板だけでなく、生きた影が確かめていた。
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