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第二章
episode_12 変わらぬまなざし
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廊下の角を曲がったところで、不意にドンッ! と衝撃が走って、誰かにぶつかったことに気づいたロザリンデは顔を上げた。
そこにいたのはヘルマンだった。
「ヘルマン……」
ロザリンデは慌ててヘルマンから離れると、その場から去ろうとしたが、不意に身体が固まってしまって動けない。それに顔は涙でグシャグシャで髪はボサボサ、おまけに今気がついたが、片方の靴は脱げてどこかに行ってしまっている。自分が今、どれほど淑女に似つかわしくない醜態を晒しているかに気がついて、ロザリンデは更なる絶望の淵に叩き落された。
(どうして、いつもこういう時にヘルマンに会ってしまうの? もうこれ以上、あなたに軽蔑されたくないのに……)
だが、いつものように侮蔑に満ちた冷たい眼差しを投げて去って行くかと思われたヘルマンは、ロザリンデの両肩を抱いて焦った様子で声をかけた。
「どうしたんだ、ロザリンデ? そんなに息を切らせて。それになぜ泣いているんだ?」
その真剣な表情と心配そうな声に、全ての感情が一気に爆発して、気がつくとロザリンデはヘルマンに縋りついて助けを求めていた。
「ヘルマン、ヘルマン、助けて。お願いよ、わたくしをここから連れ出して。ああもう、死んでしまいたい……わたくしなんて生まれてこなければ良かったんだわ! うう……っ」
「何を言ってるんだ? 何があった? 落ち着いて、ちゃんと説明してくれ。とにかくこっちへ」
ヘルマンは泣きじゃくるロザリンデの背中をさすって少し落ち着かせると、あたりを見回し、近くにあった使われていない小さな客間にロザリンデを連れて行って、ソファに座らせた。そして自分も隣に座ると、ロザリンデが泣き止むまで辛抱強く黙って待っていた。
五分ほどしてロザリンデの嗚咽がおさまると、ヘルマンは再びロザリンデにそっと声をかけた。
「少しは落ち着いたかい?」
「ええ、ありがとう……ごめんなさい、もう大丈夫だから」
「大丈夫なわけないだろう? 酷い顔だ。それに、生まれてこなければよかったなんて、普通じゃない」
「……」
「何があったんだい?……伯爵に何をされた?」
「言えないわ……」
ロザリンデは溜息をついた。顔を上げるとヘルマンの顔がすぐ近くにあったが、その澄んだ琥珀色の瞳が昔と変わらず優しくまっすぐに自分を見つめていることに気づくと、急に胸が早鐘のように高鳴った。
「何があったのか話してくれ、ロザリンデ」
「ダメ、言えないわ……これ以上あなたに軽蔑されたくないの。でも……。ああ、もう死んでしまいたい……」
「馬鹿なことを言うもんじゃない。大丈夫だ、何を聞いても驚かないから、全部僕に話してごらん。さあ」
ヘルマンの低く穏やかな声が、ロザリンデの心にじんわりと沁み込んでいった。気がつくとロザリンデは、一年前からの義兄とのことを洗いざらいヘルマンに打ち明けていた。姉と自分の生活を守るためと、子爵家の家名を存続するために、義兄の慰み者となることを受け入れざるを得なかったこと、どうにか純潔だけは守れていると思っていたが、それも義兄の計画の片鱗だったこと、降ってわいた縁談と、その実態……。ヘルマンは余計な口を挟まず耳を傾けていたが、ロザリンデが全て話し終えて口をつぐむと、怒りを滲ませた声で呟いた。
「なんということだ……なぜもっと早く相談してくれなかったんだ」
「ごめんなさい。わたくしだって誰かに相談できるものならしたかったわ。でも恥ずかしくて言えなかったの。それにあの日、あなたに知られてしまってから、ずっとあなたに憎まれていると思っていたのよ。だから……」
「そうか」
それきりヘルマンは黙りこんでしまった。ロザリンデの胸に不安が広がった。やはり話してはいけなかったのではないかしら。こんな恥ずべき秘密を打ち明けても、ヘルマンが困るだけだと分かっていたのに……でも、わたくしはあなたにだけは、本当のことを知ってもらいたかったの。あなたに憎まれ蔑まれたままで、他の男のところに嫁いでいくのは、辛すぎるわ……。
話を聞いてくれてありがとう、もう大丈夫だからとロザリンデが言いかけた時に、ヘルマンが再び口を開いた。その言葉はロザリンデが思ってもみなかったことだった。
「逃げよう、ロザリンデ」
「えっ!?」
ヘルマンは膝に置かれたロザリンデの右手を取ると、もう一度、ゆっくりと繰り返した。
「僕と一緒に逃げよう」
そこにいたのはヘルマンだった。
「ヘルマン……」
ロザリンデは慌ててヘルマンから離れると、その場から去ろうとしたが、不意に身体が固まってしまって動けない。それに顔は涙でグシャグシャで髪はボサボサ、おまけに今気がついたが、片方の靴は脱げてどこかに行ってしまっている。自分が今、どれほど淑女に似つかわしくない醜態を晒しているかに気がついて、ロザリンデは更なる絶望の淵に叩き落された。
(どうして、いつもこういう時にヘルマンに会ってしまうの? もうこれ以上、あなたに軽蔑されたくないのに……)
だが、いつものように侮蔑に満ちた冷たい眼差しを投げて去って行くかと思われたヘルマンは、ロザリンデの両肩を抱いて焦った様子で声をかけた。
「どうしたんだ、ロザリンデ? そんなに息を切らせて。それになぜ泣いているんだ?」
その真剣な表情と心配そうな声に、全ての感情が一気に爆発して、気がつくとロザリンデはヘルマンに縋りついて助けを求めていた。
「ヘルマン、ヘルマン、助けて。お願いよ、わたくしをここから連れ出して。ああもう、死んでしまいたい……わたくしなんて生まれてこなければ良かったんだわ! うう……っ」
「何を言ってるんだ? 何があった? 落ち着いて、ちゃんと説明してくれ。とにかくこっちへ」
ヘルマンは泣きじゃくるロザリンデの背中をさすって少し落ち着かせると、あたりを見回し、近くにあった使われていない小さな客間にロザリンデを連れて行って、ソファに座らせた。そして自分も隣に座ると、ロザリンデが泣き止むまで辛抱強く黙って待っていた。
五分ほどしてロザリンデの嗚咽がおさまると、ヘルマンは再びロザリンデにそっと声をかけた。
「少しは落ち着いたかい?」
「ええ、ありがとう……ごめんなさい、もう大丈夫だから」
「大丈夫なわけないだろう? 酷い顔だ。それに、生まれてこなければよかったなんて、普通じゃない」
「……」
「何があったんだい?……伯爵に何をされた?」
「言えないわ……」
ロザリンデは溜息をついた。顔を上げるとヘルマンの顔がすぐ近くにあったが、その澄んだ琥珀色の瞳が昔と変わらず優しくまっすぐに自分を見つめていることに気づくと、急に胸が早鐘のように高鳴った。
「何があったのか話してくれ、ロザリンデ」
「ダメ、言えないわ……これ以上あなたに軽蔑されたくないの。でも……。ああ、もう死んでしまいたい……」
「馬鹿なことを言うもんじゃない。大丈夫だ、何を聞いても驚かないから、全部僕に話してごらん。さあ」
ヘルマンの低く穏やかな声が、ロザリンデの心にじんわりと沁み込んでいった。気がつくとロザリンデは、一年前からの義兄とのことを洗いざらいヘルマンに打ち明けていた。姉と自分の生活を守るためと、子爵家の家名を存続するために、義兄の慰み者となることを受け入れざるを得なかったこと、どうにか純潔だけは守れていると思っていたが、それも義兄の計画の片鱗だったこと、降ってわいた縁談と、その実態……。ヘルマンは余計な口を挟まず耳を傾けていたが、ロザリンデが全て話し終えて口をつぐむと、怒りを滲ませた声で呟いた。
「なんということだ……なぜもっと早く相談してくれなかったんだ」
「ごめんなさい。わたくしだって誰かに相談できるものならしたかったわ。でも恥ずかしくて言えなかったの。それにあの日、あなたに知られてしまってから、ずっとあなたに憎まれていると思っていたのよ。だから……」
「そうか」
それきりヘルマンは黙りこんでしまった。ロザリンデの胸に不安が広がった。やはり話してはいけなかったのではないかしら。こんな恥ずべき秘密を打ち明けても、ヘルマンが困るだけだと分かっていたのに……でも、わたくしはあなたにだけは、本当のことを知ってもらいたかったの。あなたに憎まれ蔑まれたままで、他の男のところに嫁いでいくのは、辛すぎるわ……。
話を聞いてくれてありがとう、もう大丈夫だからとロザリンデが言いかけた時に、ヘルマンが再び口を開いた。その言葉はロザリンデが思ってもみなかったことだった。
「逃げよう、ロザリンデ」
「えっ!?」
ヘルマンは膝に置かれたロザリンデの右手を取ると、もう一度、ゆっくりと繰り返した。
「僕と一緒に逃げよう」
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