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第10話 幻灯書庫の父
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彼は、常に書斎の机の前にいた。
本を何冊も周囲に積み重ね、気難しい顔をして、筆を動かし何かを書いていた。
幼きアルシャが目にしていた父親の背中は厳格で、近寄り難い雰囲気があった。
「書庫を作る」
その日、アドレアはアルシャに向けてそんな話を切り出した。
幼いながらも興味を示すアルシャを膝に乗せ、彼は何処か遠い目をしながら語る。
「書は、言わば小さな世界だ。世界の受け皿となる場所が、この世界たちには必要なのだ」
机の上にある羊皮紙を、見やすいように広げる。
記されているのは、大量の本棚が所狭しと並べられた部屋の設計図だった。
「書庫が作られれば、此処にある書も無駄に埃を被らずに済むだろう」
アルシャ、御年8歳。
父の才を継ぎ、この歳にして1人前の魔女として成長を遂げた彼女は、父の言う『書庫』が壮大な魔法の産物になるであろうことを直感で悟っていた。
書斎に置かれている本の数は、目で見ても分からない程度に日々その数を増やしていった。
本棚にも収まりきらなくなったそれらは床に平置きされるようになり、その中で作業に没頭するアドレアの姿は次第に外側からは見えなくなっていった。
小さなアルシャから見れば、それはちょっとした迷路のようであった。
アドレアは、アルシャが書斎の本に触れることをあまり良しとしなかった。そのこともあってか、アルシャがアドレアを尋ねる際は常に本の迷路を通り抜ける必要があった。
ようやく視界内に現れたアドレアの背中は、声を掛けるのを躊躇ってしまうかのような威圧感を放っていた。
白紙の書を開き、そこに何かを一心不乱に書き記しているようだが、アルシャの位置からはそれを見ることは叶わなかった。
「アルシャ」
ある日、アドレアは背後のアルシャを呼んだ。
「書庫はお前が築け」
先にも後にも、アドレアがアルシャに対して何かを命じたのはこの時だけであった。
その日以来、彼がアルシャに対して何かを語りかけることはなくなった。
そうして、年月が過ぎ──
ある日、アドレアは忽然とアルシャの前から姿を消した。
後には、膨大な量の本と、彼が筆を入れていた手書きの書だけが書斎に残された。
手書きの書の表紙には『幻灯書庫目録』とあった。何故か手で開くことができない、置物のような本だった。
アルシャは悟った。この本の中に、父が存在しているのだということを。
自ら望んで本の中に封印されたのか、何かの手違いでそうなってしまったのかまでは分からなかったが。
父が残した本たちに囲まれて、アルシャは幼心に、ひとつの決意を抱いたのだった。
父の望みがそれならば──それを叶えることが、娘たる自分の役目であるのだろう、と。
アルシャはアドレアが残した言葉の通りに、自らの魔法を駆使して巨大な書庫を世界の狭間に築き上げた。
時の流れから切り離され、独自の時間軸を持った大きく閉鎖的な世界──
それこそが、幻灯書庫と名付けられたこの場所である。
彼女は父の書斎に納められていた本を書庫に移し、父が封印されているであろう『幻灯書庫目録』を誰の目にも触れない特別な部屋に保管し、封印した。
それから自らの使い魔として太陽の書と月の書を作り、彼らを司書として役目を持たせ、書庫に住まわせた。
自らもまた書庫に身を置き、長き時を書庫と共に生きる守人として、過ごすことにしたのである。
それは、父の意思を継ぎ、父の真意を知るがため。何故父が禁書となったのか、その意味を知るために。
今より3千年も昔の、物語だ──
「世に広く万物のことを伝えるためにこの書庫を創ったのは事実じゃ。しかしその一方で父の意図を知るために此処の番人になったことも、また事実なのじゃよ」
アルシャはゆったりと室内を歩き回りながら、語る。
落ちていた本を拾い、背表紙に記された番号に目を通して、魔法を掛けて本棚へと飛ばしながら、
「御主に此処を任せる時までには、父のことは儂が責任を持って対処するつもりじゃがな」
シオンに向けて語るその表情に、普段の柔らかさはない。
叡智を宿した幼き少女の面は、歳相応の成熟さを纏って眼前を見据えている。
幻灯書庫の守人としての魔女の顔が、そこにあった。
「書庫から禁書が全て消えた、その時は──」
長い金の睫毛を揺らして、彼女は言う。
「幻灯書庫目録を、最後の禁書として屠る」
「屠る……」
アルシャの言葉を繰り返し、シオンはこくりと小さく喉を鳴らした。
これまでに見たこともない師の厳格な姿に、これが書庫の行く末を左右する重大な決意であろうことを察したのだ。
とはいえ、書庫での暮らしはすぐに変化するわけではない。
シオンが処理を終えた本たちを本棚に戻す傍らで、アルシャは紅茶を嗜み、ソルはシオンのホルダーに納められて彼女にあれこれと指示を出している。
歯抜けになっていた本棚の書の並びは、以前と比較して大分整然となった。綺麗に並べられた本の背表紙を指先で撫でるのは気分の良いもので、梯子を動かしながらあちらこちらへと移動するシオンの様子は何処となく楽しそうだ。
あんなことがあっても、彼女にとってやはり書庫での暮らしは充実感に満ち満ちた楽しいものなのだ。
「できた」
紅茶を楽しみつつ手元を動かしていたアルシャが、それを眼前に翳して微笑む。
さざれ石を棒鑢で削っていたものが、ようやく形になったのだ。
「シオン。杖をお貸し」
「あ、はいっ」
梯子の上で作業をしていたシオンが振り向く。
と、ぐらりと上体のバランスを崩して、彼女はそのまま梯子の上から転がり落ちた。
したたかに尻を打ち、痛いと声を上げる。
「慌てずとも良いだろうに」
「ふぁい……」
ソルの呆れ声に、シオンは気の抜けた返事を返した。
立ち上がり、腰に差していた杖を抜き取ってアルシャの元へと向かう。
アルシャはシオンから杖を受け取ると、杖の先端を親指の先で強く押した。
ぱき、と固い音がして、杖から先端の石が外れた。
外した石の代わりに、今し方完成したばかりの石を先端に填め込む。
見た目には殆ど変わりはないが、そうして新たな形になった杖をシオンへと渡してアルシャは言った。
「今までは綴世器の機能を持たせていたがの、今回からそれをなくして、より魔法が扱いやすい形にしたよ」
本体はそのままだから扱いやすさに変わりはないじゃろう、と問いかける。
シオンは受け取った杖を軽く振り、頷いた。
「今までと変わらないです」
「そうかの。それなら良かった」
取り外した石をテーブルの上に置き、アルシャはティーカップに手を伸ばす。
紅茶を口に含み、鼻からすうっと息を吸い込んで双眸を閉ざした。
「一仕事終えた後の紅茶は美味じゃの」
「先程から飲んでおられるではありませんか」
ソルは苦笑して、シオンに自分をホルダーから外すように言う。
床に置かれた太陽の書は瞬時に人の姿を取り、彼はテーブルの上からティーポットを取り上げた。
「これはもう出涸らしでしょう。茶葉を新しくしてきます」
「ついでに俺の分も淹れてよ」
扉も開けずにどうやって部屋に入ってきたのか、腰のポケットに両手を突っ込んでソルの背後に佇むルナの一言に、ソルの眉間の皺が2割増しになった。
「今日はもう来ないのではなかったのか」
「お仕事としては来ないって言ったじゃん」
飄々とのたまうルナに、ソルは深く溜め息をついた。
まともに相手をするだけ時間の無駄と思ったのか、それ以上は受け答えせずにティーポットを片手に別室へと向かう。
同じく警戒色を顔に表しているシオンに、親しげに近付いて肩をぽんと叩いた。
「そんな睨まなくたって、何もしないって」
「御主はもはや禁書じゃからの。シオンが警戒するのも無理はないと思わんのかの」
「あはは、それもそっか」
アルシャの言葉に笑顔で応え、ルナは2人が佇んでいるアルシャの席から最も遠くに位置する椅子へと腰を下ろした。
そのまま頬杖をついた格好になり、彼はじっとシオンの全身を見つめた。
「人間の成長って凄いね。ちょっと前まで何もできなかったのに、今じゃ何冊もの禁書をいっぺんに処理する浄化魔法の使い手なんだもんね」
うふふ、と微笑むルナの態度に敵視の類は感じられない。
本当に、世間話をしに来たのだ。この男は。
それでもいつ手を出されるか分かったものではない、とシオンは杖を握る手に密かに力を込めた。何をされてもすぐに反撃できる心構えで。
「そして、俺は書庫の平穏を脅かす悪戯精霊になって……と」
「御主の素行の問題じゃ」
紅茶を一口啜り、アルシャは真面目な面持ちでルナを見た。
「儂には、書庫と弟子を護る義務がある。それに危害を加えようとする存在は、例え相手が何であっても見過ごすわけにはいかんのじゃよ」
左の人差し指を立てて、ついと宙を横になぞる動作をする。
ぱちんと小さく何かが弾けたような音を立てて、ルナの首に鉄色のチョーカーが出現した。
喉元の辺りに小さな鍵穴を設けたそれは、肌にぴったりと密着して、ルナが指で動かそうとしても全く位置がずれる気配がない。
「茶を飲みに来ただけという御主の言葉を信じ、儂もこの場で御主を『処理』するのは控えておこう。その代わり、何もできぬように行動を制限させてもらうよ」
「封印魔法ね……まあいいけど」
頬杖をついていない方の掌で何かを生み出すような仕草をして、すぐに引っ込め、肩を竦めるルナ。
「ねえ、シオンちゃんだっけ」
彼はアルシャの隣で身を固くして立っているシオンに目を向けた。
「後継者になるって、どんな感じ? 責任重大って萎縮したり、しない?」
「え……」
唐突に話を振られて、シオンは目を瞬かせた。
思わず隣のアルシャを見やる。
アルシャは微苦笑して、頷いた。
「正直に答えて構わんよ」
「は、はい。……えっと」
手元の杖に視線を落とし、再度ルナの方を見て、シオンは、
「私なんかが、そんな立派な役目を果たせるのかなって……でも、頑張って役目を果たせるような立派な魔法使いになろうって、思ってます」
「謙遜してるなぁ」
ルナは笑った。
「君は立派な魔法使いだよ。誰がどう見ても」
己のこめかみの辺りを指先で軽く叩いて、続ける。
「確かに、使える魔法の種類は母様には遠く及ばないかもね。けど、書庫の守人に必要なのは魔法の種類じゃないんだよね」
これ、大事。シオンとぶつかった視線をそらすことなく、ルナはきっぱりと自信たっぷりに断言する。
「本を愛してるかどうか。数多の世界と胸を張って接することができるかどうか。後は……まあ、禁書の処理ができるかどうかも大事か。それくらいなんだよ、求められてるものってさ。魔法の量なんて大した問題じゃないんだよ」
「お前がまともな話をしてるとはな」
横手から、熱い紅茶で満たされたティーカップがすっと差し出される。
「この場からどうやって叩き出すかを考えていたのだが」
「ちょ、酷くない? 俺は真面目に世間話とお茶を楽しみに来ただけだってのに」
抗議するルナをソルはふんと鼻であしらって、アルシャの席へと歩いていく。
アルシャのカップに新しい紅茶を注ぎ足して、ティーポットを横に置くと、彼は太陽の書へと変化してテーブルの上に横たわった。
口では何のかんのと言ってはいるが、人の姿のままルナを注視しない辺り、ソルはソルなりに相手の言葉を信用しているらしい。
「ちぇ。素直じゃない奴」
ふっと鼻で苦笑して、ルナは紅茶を呷った。
「こんなのが目付け役で苦労しないわけ?」
それは、一体どちらに向けての言葉なのだろうか。
紅茶と共に追加された角砂糖をカップの中に入れて掻き回しながら、アルシャは言った。
「御主と違って仕事熱心じゃからのう」
「うん……まあ、言われてみればそっか」
カップを置いて、ルナは席から立ち上がる。
お茶御馳走様と言いながら、彼は目の前に居並ぶ本棚を見上げて声を上げた。
「あー。そういえばこのままじゃ帰れないんじゃん、俺」
「そうじゃのう」
のんびりと紅茶に口を付けるアルシャ。
ルナが居場所にしている禁書庫へ行くには、本棚を動かしてそこに繋がる扉を開かなければならない。しかし魔法を封じられた現在のルナではそれができないのだ。
分かっていて敢えて何も言わない辺りが意地悪いアルシャである。
ルナは振り向いて、己の喉に填められたチョーカーをついと指先で撫でた。
「ねえ。これ外してくれない?」
「……扉を出しておやり。シオン」
あくまで封印魔法を解くつもりはないらしい。アルシャは傍らのシオンに言った。
シオンが言われた通りに本棚を動かして道を繋ぐと、ありがとねーと言いながらルナは扉から部屋の外に出て行った。
「何か……本当に普通にお話しに来ただけって感じでしたね」
「あれは、嘘だけは言わんからの。良くも悪くも正直者じゃからな」
アルシャは先にやったように、片手の指先をついと横に撫で動かした。ルナに掛けた封印魔法を解いたのだろう。
「今回は特別じゃ。次に来た時は然るべき『処理』をする。御主もそのつもりで心構えておくんじゃぞ」
「……はい」
次に顔を合わせた時は、命を狙い合う関係になる。
今回のようなことは、アルシャが言った通りに特別な例なのだ。
話が通じ合ったからと──馴れ合ってはいけない。
「頑張ろう、私」
誰にも聞こえない程度の小さな声で呟いて、シオンは小さく気合を入れたのだった。
本を何冊も周囲に積み重ね、気難しい顔をして、筆を動かし何かを書いていた。
幼きアルシャが目にしていた父親の背中は厳格で、近寄り難い雰囲気があった。
「書庫を作る」
その日、アドレアはアルシャに向けてそんな話を切り出した。
幼いながらも興味を示すアルシャを膝に乗せ、彼は何処か遠い目をしながら語る。
「書は、言わば小さな世界だ。世界の受け皿となる場所が、この世界たちには必要なのだ」
机の上にある羊皮紙を、見やすいように広げる。
記されているのは、大量の本棚が所狭しと並べられた部屋の設計図だった。
「書庫が作られれば、此処にある書も無駄に埃を被らずに済むだろう」
アルシャ、御年8歳。
父の才を継ぎ、この歳にして1人前の魔女として成長を遂げた彼女は、父の言う『書庫』が壮大な魔法の産物になるであろうことを直感で悟っていた。
書斎に置かれている本の数は、目で見ても分からない程度に日々その数を増やしていった。
本棚にも収まりきらなくなったそれらは床に平置きされるようになり、その中で作業に没頭するアドレアの姿は次第に外側からは見えなくなっていった。
小さなアルシャから見れば、それはちょっとした迷路のようであった。
アドレアは、アルシャが書斎の本に触れることをあまり良しとしなかった。そのこともあってか、アルシャがアドレアを尋ねる際は常に本の迷路を通り抜ける必要があった。
ようやく視界内に現れたアドレアの背中は、声を掛けるのを躊躇ってしまうかのような威圧感を放っていた。
白紙の書を開き、そこに何かを一心不乱に書き記しているようだが、アルシャの位置からはそれを見ることは叶わなかった。
「アルシャ」
ある日、アドレアは背後のアルシャを呼んだ。
「書庫はお前が築け」
先にも後にも、アドレアがアルシャに対して何かを命じたのはこの時だけであった。
その日以来、彼がアルシャに対して何かを語りかけることはなくなった。
そうして、年月が過ぎ──
ある日、アドレアは忽然とアルシャの前から姿を消した。
後には、膨大な量の本と、彼が筆を入れていた手書きの書だけが書斎に残された。
手書きの書の表紙には『幻灯書庫目録』とあった。何故か手で開くことができない、置物のような本だった。
アルシャは悟った。この本の中に、父が存在しているのだということを。
自ら望んで本の中に封印されたのか、何かの手違いでそうなってしまったのかまでは分からなかったが。
父が残した本たちに囲まれて、アルシャは幼心に、ひとつの決意を抱いたのだった。
父の望みがそれならば──それを叶えることが、娘たる自分の役目であるのだろう、と。
アルシャはアドレアが残した言葉の通りに、自らの魔法を駆使して巨大な書庫を世界の狭間に築き上げた。
時の流れから切り離され、独自の時間軸を持った大きく閉鎖的な世界──
それこそが、幻灯書庫と名付けられたこの場所である。
彼女は父の書斎に納められていた本を書庫に移し、父が封印されているであろう『幻灯書庫目録』を誰の目にも触れない特別な部屋に保管し、封印した。
それから自らの使い魔として太陽の書と月の書を作り、彼らを司書として役目を持たせ、書庫に住まわせた。
自らもまた書庫に身を置き、長き時を書庫と共に生きる守人として、過ごすことにしたのである。
それは、父の意思を継ぎ、父の真意を知るがため。何故父が禁書となったのか、その意味を知るために。
今より3千年も昔の、物語だ──
「世に広く万物のことを伝えるためにこの書庫を創ったのは事実じゃ。しかしその一方で父の意図を知るために此処の番人になったことも、また事実なのじゃよ」
アルシャはゆったりと室内を歩き回りながら、語る。
落ちていた本を拾い、背表紙に記された番号に目を通して、魔法を掛けて本棚へと飛ばしながら、
「御主に此処を任せる時までには、父のことは儂が責任を持って対処するつもりじゃがな」
シオンに向けて語るその表情に、普段の柔らかさはない。
叡智を宿した幼き少女の面は、歳相応の成熟さを纏って眼前を見据えている。
幻灯書庫の守人としての魔女の顔が、そこにあった。
「書庫から禁書が全て消えた、その時は──」
長い金の睫毛を揺らして、彼女は言う。
「幻灯書庫目録を、最後の禁書として屠る」
「屠る……」
アルシャの言葉を繰り返し、シオンはこくりと小さく喉を鳴らした。
これまでに見たこともない師の厳格な姿に、これが書庫の行く末を左右する重大な決意であろうことを察したのだ。
とはいえ、書庫での暮らしはすぐに変化するわけではない。
シオンが処理を終えた本たちを本棚に戻す傍らで、アルシャは紅茶を嗜み、ソルはシオンのホルダーに納められて彼女にあれこれと指示を出している。
歯抜けになっていた本棚の書の並びは、以前と比較して大分整然となった。綺麗に並べられた本の背表紙を指先で撫でるのは気分の良いもので、梯子を動かしながらあちらこちらへと移動するシオンの様子は何処となく楽しそうだ。
あんなことがあっても、彼女にとってやはり書庫での暮らしは充実感に満ち満ちた楽しいものなのだ。
「できた」
紅茶を楽しみつつ手元を動かしていたアルシャが、それを眼前に翳して微笑む。
さざれ石を棒鑢で削っていたものが、ようやく形になったのだ。
「シオン。杖をお貸し」
「あ、はいっ」
梯子の上で作業をしていたシオンが振り向く。
と、ぐらりと上体のバランスを崩して、彼女はそのまま梯子の上から転がり落ちた。
したたかに尻を打ち、痛いと声を上げる。
「慌てずとも良いだろうに」
「ふぁい……」
ソルの呆れ声に、シオンは気の抜けた返事を返した。
立ち上がり、腰に差していた杖を抜き取ってアルシャの元へと向かう。
アルシャはシオンから杖を受け取ると、杖の先端を親指の先で強く押した。
ぱき、と固い音がして、杖から先端の石が外れた。
外した石の代わりに、今し方完成したばかりの石を先端に填め込む。
見た目には殆ど変わりはないが、そうして新たな形になった杖をシオンへと渡してアルシャは言った。
「今までは綴世器の機能を持たせていたがの、今回からそれをなくして、より魔法が扱いやすい形にしたよ」
本体はそのままだから扱いやすさに変わりはないじゃろう、と問いかける。
シオンは受け取った杖を軽く振り、頷いた。
「今までと変わらないです」
「そうかの。それなら良かった」
取り外した石をテーブルの上に置き、アルシャはティーカップに手を伸ばす。
紅茶を口に含み、鼻からすうっと息を吸い込んで双眸を閉ざした。
「一仕事終えた後の紅茶は美味じゃの」
「先程から飲んでおられるではありませんか」
ソルは苦笑して、シオンに自分をホルダーから外すように言う。
床に置かれた太陽の書は瞬時に人の姿を取り、彼はテーブルの上からティーポットを取り上げた。
「これはもう出涸らしでしょう。茶葉を新しくしてきます」
「ついでに俺の分も淹れてよ」
扉も開けずにどうやって部屋に入ってきたのか、腰のポケットに両手を突っ込んでソルの背後に佇むルナの一言に、ソルの眉間の皺が2割増しになった。
「今日はもう来ないのではなかったのか」
「お仕事としては来ないって言ったじゃん」
飄々とのたまうルナに、ソルは深く溜め息をついた。
まともに相手をするだけ時間の無駄と思ったのか、それ以上は受け答えせずにティーポットを片手に別室へと向かう。
同じく警戒色を顔に表しているシオンに、親しげに近付いて肩をぽんと叩いた。
「そんな睨まなくたって、何もしないって」
「御主はもはや禁書じゃからの。シオンが警戒するのも無理はないと思わんのかの」
「あはは、それもそっか」
アルシャの言葉に笑顔で応え、ルナは2人が佇んでいるアルシャの席から最も遠くに位置する椅子へと腰を下ろした。
そのまま頬杖をついた格好になり、彼はじっとシオンの全身を見つめた。
「人間の成長って凄いね。ちょっと前まで何もできなかったのに、今じゃ何冊もの禁書をいっぺんに処理する浄化魔法の使い手なんだもんね」
うふふ、と微笑むルナの態度に敵視の類は感じられない。
本当に、世間話をしに来たのだ。この男は。
それでもいつ手を出されるか分かったものではない、とシオンは杖を握る手に密かに力を込めた。何をされてもすぐに反撃できる心構えで。
「そして、俺は書庫の平穏を脅かす悪戯精霊になって……と」
「御主の素行の問題じゃ」
紅茶を一口啜り、アルシャは真面目な面持ちでルナを見た。
「儂には、書庫と弟子を護る義務がある。それに危害を加えようとする存在は、例え相手が何であっても見過ごすわけにはいかんのじゃよ」
左の人差し指を立てて、ついと宙を横になぞる動作をする。
ぱちんと小さく何かが弾けたような音を立てて、ルナの首に鉄色のチョーカーが出現した。
喉元の辺りに小さな鍵穴を設けたそれは、肌にぴったりと密着して、ルナが指で動かそうとしても全く位置がずれる気配がない。
「茶を飲みに来ただけという御主の言葉を信じ、儂もこの場で御主を『処理』するのは控えておこう。その代わり、何もできぬように行動を制限させてもらうよ」
「封印魔法ね……まあいいけど」
頬杖をついていない方の掌で何かを生み出すような仕草をして、すぐに引っ込め、肩を竦めるルナ。
「ねえ、シオンちゃんだっけ」
彼はアルシャの隣で身を固くして立っているシオンに目を向けた。
「後継者になるって、どんな感じ? 責任重大って萎縮したり、しない?」
「え……」
唐突に話を振られて、シオンは目を瞬かせた。
思わず隣のアルシャを見やる。
アルシャは微苦笑して、頷いた。
「正直に答えて構わんよ」
「は、はい。……えっと」
手元の杖に視線を落とし、再度ルナの方を見て、シオンは、
「私なんかが、そんな立派な役目を果たせるのかなって……でも、頑張って役目を果たせるような立派な魔法使いになろうって、思ってます」
「謙遜してるなぁ」
ルナは笑った。
「君は立派な魔法使いだよ。誰がどう見ても」
己のこめかみの辺りを指先で軽く叩いて、続ける。
「確かに、使える魔法の種類は母様には遠く及ばないかもね。けど、書庫の守人に必要なのは魔法の種類じゃないんだよね」
これ、大事。シオンとぶつかった視線をそらすことなく、ルナはきっぱりと自信たっぷりに断言する。
「本を愛してるかどうか。数多の世界と胸を張って接することができるかどうか。後は……まあ、禁書の処理ができるかどうかも大事か。それくらいなんだよ、求められてるものってさ。魔法の量なんて大した問題じゃないんだよ」
「お前がまともな話をしてるとはな」
横手から、熱い紅茶で満たされたティーカップがすっと差し出される。
「この場からどうやって叩き出すかを考えていたのだが」
「ちょ、酷くない? 俺は真面目に世間話とお茶を楽しみに来ただけだってのに」
抗議するルナをソルはふんと鼻であしらって、アルシャの席へと歩いていく。
アルシャのカップに新しい紅茶を注ぎ足して、ティーポットを横に置くと、彼は太陽の書へと変化してテーブルの上に横たわった。
口では何のかんのと言ってはいるが、人の姿のままルナを注視しない辺り、ソルはソルなりに相手の言葉を信用しているらしい。
「ちぇ。素直じゃない奴」
ふっと鼻で苦笑して、ルナは紅茶を呷った。
「こんなのが目付け役で苦労しないわけ?」
それは、一体どちらに向けての言葉なのだろうか。
紅茶と共に追加された角砂糖をカップの中に入れて掻き回しながら、アルシャは言った。
「御主と違って仕事熱心じゃからのう」
「うん……まあ、言われてみればそっか」
カップを置いて、ルナは席から立ち上がる。
お茶御馳走様と言いながら、彼は目の前に居並ぶ本棚を見上げて声を上げた。
「あー。そういえばこのままじゃ帰れないんじゃん、俺」
「そうじゃのう」
のんびりと紅茶に口を付けるアルシャ。
ルナが居場所にしている禁書庫へ行くには、本棚を動かしてそこに繋がる扉を開かなければならない。しかし魔法を封じられた現在のルナではそれができないのだ。
分かっていて敢えて何も言わない辺りが意地悪いアルシャである。
ルナは振り向いて、己の喉に填められたチョーカーをついと指先で撫でた。
「ねえ。これ外してくれない?」
「……扉を出しておやり。シオン」
あくまで封印魔法を解くつもりはないらしい。アルシャは傍らのシオンに言った。
シオンが言われた通りに本棚を動かして道を繋ぐと、ありがとねーと言いながらルナは扉から部屋の外に出て行った。
「何か……本当に普通にお話しに来ただけって感じでしたね」
「あれは、嘘だけは言わんからの。良くも悪くも正直者じゃからな」
アルシャは先にやったように、片手の指先をついと横に撫で動かした。ルナに掛けた封印魔法を解いたのだろう。
「今回は特別じゃ。次に来た時は然るべき『処理』をする。御主もそのつもりで心構えておくんじゃぞ」
「……はい」
次に顔を合わせた時は、命を狙い合う関係になる。
今回のようなことは、アルシャが言った通りに特別な例なのだ。
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誰にも聞こえない程度の小さな声で呟いて、シオンは小さく気合を入れたのだった。
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そして18歳になったら、私の妻として迎えよう。それまでは、不自由のないようにこちらで準備をする。」と言い残し去って行った。
それから〜18年後
約束通り。贈られてきた豪華な花嫁衣装に身を包み。
アリサと両親は、龍の背中に乗りこみ。
いざ〜龍国へ出発した。
あれれ?アリサと両親だけだと数が合わないよね??
確か双子だったよね?
もう一人の女の子は〜どうしたのよ〜!
物語に登場する人物達の視点です。
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