35 / 88
初夏の涼風の章
胸の奥の秘密(その一)
しおりを挟む「う、ちょっと……これきついかなぁ」
このマギシェン家の湖の別荘に招かれてもう三日目。
メルが今朝、コルセットを締めるのをメイドにお願いしたところ、なぜかあの年配のメイドが出てきてしまった。そして、まるで親の敵のようにそれはもうぎゅうぎゅうに紐を締められてしまったのだった。
かなり力任せに乱暴に締められたコルセットは、メルのお腹の肉どころかあばら骨にも食い込んでひどく痛くて苦しい。
この痛みはさすがに騎士学院で鍛えられたメルにもどうにもならない。
一度ほどいて、もう一度誰かにお願いしようかとも思ったが、またあの年配のメイドが出てきたら気まずいだけだ。
メルは諦めの境地で、自分に与えられた結構広い部屋のかなり立派なクローゼットを開ける。
マギシェン侯爵は当たり前にシャイトとメルのための寝室を別々に用意し、その上作業のための部屋も一室、また別で用意してくれていたのだった。とても上等な部屋だった。正直、寝室も作業部屋も立派で広すぎて落ち着かないぐらいに。
「えぇと、昼間のお茶会用のドレスは……」
滞在初日にトランクから取り出して、クローゼットにかけておいたドレスたちを見回す。
手に職をもっているとはいえ、一介の町娘にすぎないメルだが、所持しているドレスの数と質は、ちょっとした貴族の令嬢とも張り合えるぐらいにある。なぜならば、茉莉花堂は貴族や金持ちの好事家が相手なのでそれなりの格好をせねば見苦しいとされてしまいかねないからだ。そういうわけで、メルのドレスの仕立て代はメルに与えられている給金とは別に、かなり高額なそれを貰っているのだった。
「……コレが良いかな、せっかくコルセットこんなに締められたんだから、気合入れていこう」
薄い青と白の絹をこれでもか! と贅沢に使ったまるでお姫様のようなドレスを、半ばヤケになりながら引っ張り出す。
「ペチコート何枚必要だっけ、これ」
独り言を呟きながら、ヤケ気分のままに重くて固くて分厚いペチコートを三枚ひっぱりだす。正直言って暑いし重いし動きにくいのでこんなに『装備』したくないのだが、この薄い青のドレスの裾を綺麗に広げるためには、ペチコートが必須なのだから仕方がない。
ようやく着替え終わって、エヴェリアもきちんと昼のお茶会にお呼ばれするのに相応しい、白い絹の愛らしいドレスに着せ替えた。
メルはエヴェリアを大事に抱きかかえて部屋の扉を開ける。
向かうのは作業用に与えられた部屋ではなく、マギシェン侯爵夫人アリア・シルート・マギシェンの私室。
今日はメルとエヴェリアは、侯爵夫人アリアのお茶会に招かれていたのだった。
「こんにちは、マギシェン侯爵夫人。こんにちは、ヴィクトール様」
メイドに扉を開けてもらうと、相変わらず幼い少女の夢の世界のような空間が広がっている。
白髪の侯爵夫人アリアはすでにテーブルについて、膝の上に座らせたドール、ヴィクトールにお菓子を食べさせる真似をして遊んでいた。
「メル、来てくれたのね! 嬉しいわ。エヴェリアもちゃんと一緒ね。 今日はヴィクトールとエヴェリアのためのテーブルも用意させたのよ、ほぉら、ここ!」
アリアの示した場所をみると、なるほど人間用のテーブルの上には、人間用の三分の一ぐらいの大きさの丸テーブルと椅子が二脚。
丸テーブルは、四隅にきれいな刺繍がある真っ白いテーブルクロスがかけられていて、その上にはお人形用のティーポットやティーカップ、ミニチュアのお菓子もさまざまに並んでいて、小さな花が小さな花瓶に生けられている。ドール用のそれとはいえ本格的なお茶会と言えた。
そしてもちろん――人間用のテーブルも、美しい薄い繊細な茶器と、芸術品のようなお菓子たちと、そして美しい花が。
「このような席を用意してくださってありがとうございます、侯爵夫人」
「そうじゃないわ、メル」
「え?」
アリアは不満そうに、唇を尖らせてから命じた。
「私のことはアリアと呼んで」
「しかし……。いえ、わかりました。ではアリア様とお呼びいたします。よろしいでしょうか」
「えぇ、それなら!」
そして、マギシェン侯爵夫人アリアは、とっても楽しそうにこのお茶会の開会を宣言する。
「さぁさぁ、メルとエヴェリアのためにとっておきの素敵なお菓子ばかり用意させたのよ! もちろんお紅茶も……私はミルクたっぷりのモルグネが好きなのだけど、メルたちが好きなお紅茶はなにかしら? すぐに用意させるから」
「はぁ……お腹苦しい……身体重い……というかドレス重い」
お茶会はまぁ、ちゃんとお話が盛り上がって楽しかったし、お菓子やサンドウィッチはとても美味しかった。
だが精神的にも肉体的にも疲弊したのは確かだった。
メルは一度部屋に戻って、エヴェリアを丁寧に机の上に座らせてから、邸の外に出た。
この邸の空気ではなく、外の清浄な空気が吸いたくなったのだ。
着替えをしようかどうか迷ったが、コルセットを解くにもメイドを呼びつけなければいけないので、面倒くさくなってそのままの薄い青と白の絹のドレス姿だ。
星降りの湖アルフェンカは、指先を上に向けて開いた右手のひらのようなかたちをしている。その指にあたる部分には橋がかかっており、指と指との隙間の部分には貴族の別荘が点在しているのだ。
マギシェン家の別荘は人差し指と中指の間の、付け根にかなり近い場所にある。
そして――
「リヴェルテイア家の別荘は、中指と薬指との間にあるって話だったけど……」
まさか会えるはずはないだろうと思っていても、そちら側への歩みは止まらない。
ドレスの裾をつまんで、湖にかかった橋の上を進む。
――と、そのときだ、うなじがびりびりする感覚が走った。メルは悪い予感がするときには必ずこうなるのだ。
「あ、やば、これ」
ばきっ。
多分傷んでいたのだろう足元の橋板が、メルが乗ったことでトドメをさされた。
簡単に言えば、メルは足元がぬけて――そのまま湖に投げ出されたのだ。
「……ごぼっ……っ……ぁっ……!」
ドレスが重い、コルセットが苦しい、ペチコートがまとわりつく――まともに泳げない。
メルは必死に水面でもがくが、水を吸ったドレスは無慈悲にもメルを湖の底へ案内しようとしている。
もしかしなくても、死ぬのだろうか。死ぬのだろうか。死ぬのだろうか。
そんな最悪の想像をした時、そのあたたかな腕はメルを抱きしめた。そして、岸のほうへと引っ張っていかれる。
「……ジル?」
ようやくたどり着いた岸辺に寝かせられた時、思わず呼んだのは愛する人の名前。
だが、返ってきたのはメルの恋人ジルよりもぐっと高い声。
「それが君の恋人の名前かい? 残念だったね、人違いだ」
「あ……」
「でもまぁ、それなら多分はじめてのキスぐらいは済ませてるだろうから、かまわないよね」
そう言って、声の主――あの、ウルという子――たしか使用人にはウルリッヒ様と呼ばれていたひとの身体がメルに覆いかぶさる。
あ、と思った瞬間……とても柔らかな感触がした――ウルリッヒの唇が、メルの唇に触れたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
天然だと思ったギルド仲間が、実は策士で独占欲強めでした
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話+後日談7話⭐︎
ギルドで働くおっとり回復役リィナは、
自分と似た雰囲気の“天然仲間”カイと出会い、ほっとする。
……が、彼は実は 天然を演じる策士だった!?
「転ばないで」
「可愛いって言うのは僕の役目」
「固定回復役だから。僕の」
優しいのに過保護。
仲間のはずなのに距離が近い。
しかも噂はいつの間にか——「軍師(彼)が恋してる説」に。
鈍感で頑張り屋なリィナと、
策を捨てるほど恋に負けていくカイの、
コメディ強めの甘々ギルド恋愛、開幕!
「遅いままでいい――置いていかないから。」
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~
二階堂吉乃
恋愛
同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。
1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。
一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。
有能女官の赴任先は辺境伯領
たぬきち25番
恋愛
お気に入り1000ありがとうございます!!
お礼SS追加決定のため終了取下げいたします。
皆様、お気に入り登録ありがとうございました。
現在、お礼SSの準備中です。少々お待ちください。
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26)
ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。
そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。
そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。
だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。
仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!?
そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく……
※お待たせしました。
※他サイト様にも掲載中
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
冷徹団長の「ここにいろ」は、騎士団公認の“抱きしめ命令”です
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー全16話+後日談5話⭐︎
王都最硬派、規律と責任の塊――騎士団長ヴァルド・アークライトは、夜の見回り中に路地で“落とし物”を拾った。
……いや、拾ったのは魔物の卵ではなく、道端で寝ていた少女だった。しかも目覚めた彼女は満面の笑みで「落とし物です!拾ってくださってありがとうございます!」と言い張り、団長の屋敷を“保護施設”だと勘違いして、掃除・料理・当番表作りに騎士の悩み相談まで勝手に開始。
追い出せば泣く、士気は落ちる、そして何より――ヴァルド自身の休息が、彼女の存在に依存し始めていく。
無表情のまま「危ないから、ここにいろ」と命令し続ける団長に、周囲はざわつく。「それ、溺愛ですよ」
騎士団内ではついに“団長語翻訳係”まで誕生し、命令が全部“愛の保護”に変換されていく甘々溺愛コメディ!
愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました
由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。
尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。
けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。
そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。
再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。
一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。
“尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。
静かに離婚しただけなのに、
なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。
一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました
しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、
「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。
――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。
試験会場を間違え、隣の建物で行われていた
特級厨師試験に合格してしまったのだ。
気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの
“超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。
一方、学院首席で一級魔法使いとなった
ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに――
「なんで料理で一番になってるのよ!?
あの女、魔法より料理の方が強くない!?」
すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる