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第ニ章 王都

月下の庭園(1)

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 翌朝、シグルンは温かな日差しと鳥の鳴き声で目が覚めた。身じろぎすると、長椅子ソファーの上で伸びをする。
 疲れが溜まっていたのだろう、どうやら昨晩は到着してすぐに眠ってしまったようだった。


 シグルンは天井を仰ぎながら頭を掻いた。


 一体誰がどんな風にしたらあんなところに絵を描けるのだろうか。
 だだっ広く高い天井には美しく荘厳な絵画の世界が広がっていた。
 蜻蛉とんぼを思わせる薄く透明な羽を生やした女性たちが、人々を天に向かって導いている絵だ。


 そう言えば、とシグルンは思う。


 この世界には精霊信仰というものがあった。魔法は精霊の加護によって発動するが、魔法は誰でも使えるようなものではない。極々限られた一部の人間の間でしか使えなかった。
 シグルンもそうだが、田舎へ行けば行くほど魔法使いは稀少な存在だ。火を起こすという簡単な魔法でさえ驚かれるほど。
 魔法使いは都市部や近親婚で血統を守ってきた王侯貴族に特に多かった。
 田舎者にとって教会や信仰などといったものは、結婚するときと死んだときぐらいのものだろう。


 シグルンは上体を起こすと、目を瞬いて昨夜ゆうべとは打って変わって全貌を現した部屋を見た。
 あの後ゲオルグと別れ、侍女に案内された部屋だ。


 壁や柱には花柄や蔦模様などの意匠が凝らされ、設えられた家具や調度品の多くに流麗なシルエットが施されていた。しかもよく見れば、部屋は一部屋ではなく、奥の方にも何部屋か続いている。
 シグルンの住む田舎では、薄板ベニヤの上にその辺の芝生を乗せただけの簡素な造りの家が当たり前だった。二人家族だったが部屋も一部屋だ。だが、暖を取り雨風を凌ぐには十分な代物だ。それだけにシグルンは、与えられたこの部屋を無用の長物だと感じてしまった。


「奥様」


 ふいに背後から女声した。シグルンの肩がびくりと跳ねる。


 いつの間に人が立っていたのか。
 昨夜は気にも留めなかったが、恐らくは同じ侍女だろう。シグルンは長椅子から若い侍女の顔をしげしげと見た。
 侍女は癖のあるふわふわの榛色はしばみいろの髪を一つに束ね、可愛らしい顔立ちを能面のように微動だにさせずに、まるで人形のようにシグルンを見返していた。
 それに第一なぜ奥様と呼ばれたのか、未婚のシグルンには全く見当もつかなかった。
 今更だが枕元に置いてあるヴェールは被った方が良いだろうか。シグルンはヴェールに手をかけた。


「奥様、今ヴェールは必要ありません。部屋を出る際に被っていただくように、との仰せですので、部屋にいる間はご自由にお過ごしください」


 侍女は綺麗に腰を折ると言った。
 だが、奥様と言われるのには違和感がある。


「申し遅れました。私は奥様のお世話係をしますヨハンナと申します。何なりとお申し付けください。では早速ですが、本日のお召し替えはこちらでよろしいでしょうか」


 シグルンが訝しげにしているのに気付いたのか、侍女はヨハンナと淡々と自己紹介した。
 いや、そういうことを聞きたいわけではないが。
 シグルンの困惑を知ってか知らずか、ヨハンナは挨拶もそこそこにドレスを見せてくる。


「黒……」


 シグルンは納得して小さく呟いた。
 ヨハンナの差し出したドレスが真っ黒に染められていたからだ。
 シグルンが普段身に纏う粗末なスカートより光沢がかってずっと品があったが、それは紛れもなく喪服だった。
 昨日に限らず、今後も未亡人のなりで過ごせと言うのか。
 不意に、シグルンは子どもの頃、仮面を付けて友達と遊んでいたことを思い出した。友人たちは震えて逃げ出したが、こんな醜い顔を見てさぞや怖がらせたに違いない。シグルンは未だにあのときの後悔の念が拭えなかった。
 今後も顔を隠して過ごすことに躊躇いを覚える。


「奥様、毎日黒ばかりでも飽きられましょうから、同じ黒でもこのように袖が長く口の広いドレスや、こちらの繊細な金のレースをあつらえたドレスなどはいかがでしょうか」
「いえいえ、良いです。このドレスで良いです。これを着ましょう」


 押し黙ったシグルンを察してか、ヨハンナは他の黒いドレスもどうかと聞いてきた。
 シグルンは慌てて首を振る。


「ご親切にどうもありがとう、ヨハンナさん」
「ヨハンナで結構です、奥様」


 シグルンは苦笑しながら頭を下げたが、ヨハンナはぴしゃりと返した。
 何だか取っつきにくい人だと、シグルンは感じる。


「では、お召し替えの後にお部屋まで朝餉をお持ちいたします。ですが、昨夜はそのままお休みされてしまいましたので、まずは湯浴みと、それからお召し替えのお手伝いをさせていただきます」
「お、おおっ手伝いですか!?」


 シグルンはギョッとして両手を前に突き出した。
 田舎と王都ではこんなにも暮らしぶりが違うというのか。身支度など子どもでもできるのが常識だ。
 だが、ヨハンナは事も無げに左様でございますと答えると、シグルンの腰に手を伸ばし、スルスルと服を脱がせていく。
 ヨハンナはちゃんと説明してくれる辺り親切なようだが、有無を言わさない圧力を持った感じはゾーイと同族かもしれなかった。


「じじじ、自分でできますから!」
「いいえ、これが私の仕事ですから、奥様は大人しく身を任せてください。第一、長椅子でお休みになられるところといい、奥様は少し変わったところがおありのようですが、私も仕事を奪われましたら、街に住む幼い兄弟姉妹が路頭に迷ってしまいます」


 シグルンは吃った。長椅子で寝てしまったのはこの部屋の居心地が悪かったせいだが、シグルンはバツが悪そうに目を逸らした。
 シグルンは困ったことがあるとどうしたら良いか分からず、よく吃ってしまった。長年家に引き篭もっていた所為で、    少々対人技術コミュニケーションが苦手なのだ。ある意味後遺症と言えるかもしれない。
 第一、生活がかかっていると言われたら何も言えないではないか。
 もしシグルンがゾーイなら、もっとはっきり嫌と言えたかもしれないが。
 はたから見てどちらの立場が上か分からないやり取りの末、シグルンは不承不承頷いた。




****
 シグルンはある意味修行とも言えた苦行を終え、簡素な喪服に身を包んでいた。
 朝食を終えると、給事だけでなくヨハンナも部屋を出ていく。



『部屋にいる間はご自由にお過ごしください』



 ヨハンナはそう言っていたが、シグルンは早速手持ち無沙汰になった。
 ヨハンナは眉を顰めたが、彼女の話によると、普通貴族の女性というものは、刺繍や編み物をしたり、茶会や夜会に興じて日々過ごすらしい。
 シグルンはなんてつまらない毎日だろうと思った。ここでの暮らしよりも毎日畑を耕し、花を育て、薬草を摘み、薬学の勉強をするラップラントでの暮らしの方がよっぽど充実していたではないか。


 シグルンはやれやれと首を竦め、とりあえず今後について考えてみた。時間はたっぷりあるのだ。


 『婚約の儀』と『聖なる矢』によってシグルンは今ここにいる。
 だが、今後も未亡人で過ごすよう言ってくる辺り、聖女である以上無碍にはできないが、歓迎もできない。案外王宮側もこの先の対応は考えあぐねているのかもしれない。
 シグルンの容姿さえ良ければ諸手を挙げて迎えたことだろうが。人間とはつくづく外見で物事を判断する生き物だなと、シグルンはそう思った。


 だが一方で、シグルンにとっては逆に好都合だとも思った。
 どこぞの貴族の未亡人というのは余計な肩書きだが、正体が明かされないなら、シグルンはただの老女にしか見えないだろう。
 その方が動きやすいし、何よりシグルンは、ラップラントの村人たちが目の色を変えて決起したように、いつ城や都中の人々が自分に憎悪の目を向けてくるのか恐ろしかった。だからこれで良いのだ。
 いや、これで本当に良いとするならば、ゾーイはなぜ自分を王都にやったのだろうか。


 シグルンは余計に頭を悩ませた。
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