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第四章 精霊と呪い
恋煩い(1)
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月明かりが冴え冴えと照る晩、ソルヴィはいつものお気に入りの場所で、ある人物を待っていた。
お気に入りの場所とは、王宮の中でも夜中は人っ子一人寄り付かない小さな花園のことだ。そして、待ち人とは、つい一昨日の晩に知り合ったばかりの女のことだった。
ソルヴィは大きな溜め息を零した。
吐息には待ち人を焦がれる熱もあったが、一方で我が身に火の粉が降りかかりそうな、そんな行く末に対する失望感も含まれていた。
熱い気持ちに雑念が入り混じり、ソルヴィは金色の髪を掻き上げて、やれやれと肩を落とした。
シグルンはまだ来そうになかった。
ソルヴィは噴水の中央にある縁に寄りかかりながら、すでに散って葉だけになってしまった月下美人を見つめた。
ソルヴィの目下の懸念事項はシグルンだ。
会いたいと言ったは良いものの、本当に来てくれるかどうか不安で堪らなかった。シグルンの姿を感じられない一瞬一刻が、まるで千里のように感じるのは大袈裟な表現ではない。
まだ会いに来てくれないと決まったわけでもないのに、ソルヴィの胸は切なく痛んでいた
さらにソルヴィにはもう一つ懸念事項があった。
それは聖女と聖女を取り巻く陰謀のことだ。
****
日暮れ時の王宮の自室にて、ソルヴィは窓枠に腰を落ち着けて読書をしていた。
だが、目線は頻繁に手元の本と窓の向こうを行き来し、本の内容などさっぱり入ってこない。
ソルヴィは普段国王の政務に随行して休みなしのスケジュールを送っていたが、急に謹慎という名の暇を与えられて手持ち無沙汰になってしまった。もちろん政治的陰謀や駆け引きのない喧騒から離れるのは、清々しい気分であるが。
そうなると自然に、シグルンのことばかりがソルヴィの頭を占めた。一晩前に話したことを思い出したり、今夜会える楽しみを思うとつい頰が緩んでしまう。
本の内容も頭に入ってこないはずだ。
「殿下、ご報告があります」
その時、唐突に扉をノックする音とともに、聞き慣れた声がソルヴィの甘い思考を中断させた。
「例の件か……」
「左様にございます」
ソルヴィの青く熱っぽい瞳が急に冷え込んだ。執事を一瞥すると、本を閉じる。
今朝方頼んだ密偵の件だろう。
普通ならば何日もかけてあらゆる方面から情報を仕入れ、さらに時間をかけて内容を精査するものだが、意外過ぎるほどソルヴィの執事は有能だったようだ。そもそも王家の使用人である以上、能力が高いのは前提条件であるが。
それでもこれだけ早く報告してくれようとは、よほど重大な何かがあるということだ。
「まだ情報の真偽は引き続き調査中でありますが、早々に殿下のお耳に入れておくべきではないかと思うことがいくつか」
「ああ、言ってくれ」
ソルヴィは頭を切り替えて、言葉少なに続きを促した。
執事は手巾で汗を拭いながら頷く。
「まずゲオルグ・ヤンセンですが、こちらは教会と王宮への出入りが多いため、申し訳ありませんが現在も調査中になります。しかし、聖女の送迎に参加したという兵士が昨日王都に帰還したとの情報を得ましたので、その者に話を聞きましたところ…………どうやら聖女には王宮で噂されるような病気らしき異変は見られなかったそうです」
聖女が迎えられ早々に病気になるなど、出来過ぎた話だ。
婚約の儀でお祝い範囲気から一変、代わりの正妃と側室を要求するのだから。むしろ何か裏があると思うのは当然のことで、ソルヴィは何一つ驚かなかった。
ただ、もしかすると今までのソルヴィならば、周りの貴族連中に流されて、今頃アニタとの婚約を決めていたかもしれない。王に従い、子の産めそうな若い女を側室に迎えていたかもしれない。例え密かな抵抗をしたとしても、周りの大きな圧にねじ伏せられて、結局全てを諦めていただろう。今までのソルヴィならば。
しかし、ソルヴィは出会えってしまったのだ。
シグルンに。
運命の人に。
シグルンを手元に置いておきたいのならば、ソルヴィは変わることも吝かではなかった。
ソルヴィは表情を変えることなく執事の報告に耳を傾けた。
執事は眉を顰めて続ける。
「しかも信じられないことに、聖女はとても若い娘とは思えない顔で、老婆のような奇妙な姿をしていたと言うのです。その兵士に限らず、聖女の送迎に関わった多くの兵士が、その後すぐにラップラントの防衛ラインに配置を命ぜられしまったため、聖女の行方は分からないままです」
ソルヴィの形の良い片眉が驚きで跳ねた。
執事も同意するように深く頷く。
聖なる矢の選ぶ聖女は、決まって若い娘のはずだった。
それが老婆というのはおかしい。いや、その老婆が若い娘というのがおかしいのか。
ソルヴィは疑問を拭えないまま小首を傾げる。
「しかも、よくよく調べましたところ、防衛ラインに送り込んだのはベーヴェルシュタム公爵であるこが判明しました」
「…………やはりな、読めてきたぞ」
ソルヴィは吊り上がった眉を一撫でし、推察した。
聖女がなぜ老いた姿なのかは、すぐ答えは見つからなさそうだが、ベーヴェルシュタム公爵がなぜそう動いたかは容易に想像できる。
執事はソルヴィの思考を邪魔しないよう一歩下がった。
「自分の娘こそ正妃にと目論んだベーヴェルシュタム公爵が、聖女の醜聞をこれ幸いにと利用し、聖女自身を隠したな。しかも病に伏せったことにして、最終的に用済みなれば殺すつもりだったのか」
「恐らくは……その通りでございましょう。公爵は殿下との婚姻に随分裏で走り回っていたようです。しかし……」
執事は短く息を吐くと、念の為キョロキョロと辺りを確認してからソルヴィに耳打ちをしてきた。
「これは先程私が直接聞いた話ですが……先刻、公爵は近衛騎士団の連隊を何個か持ち出し、自領に戻っていきました」
「な、何だと……?」
ソルヴィは驚きの声を上げて、窓枠から立ち上がった。
近衛騎士団とは国王に直接仕え、王家や王宮を守る軍隊のことだ。
聖女の送迎中に勝手に兵に移動命令を出したこともそうだが、国王の軍隊を勝手に持ち出すなどあってはならなかった。
****
ソルヴィは頭が痛くなって、こめかみを抑えた。
謹慎中とは言え、これでも一国の王太子だ。不穏な動きを見せるベーヴェルシュタム公爵を見過ごすことなどできなかった。
だが一番の問題は、どうするべきかということ。
まずは王に報告するのが筋だが、ずる賢いベーヴェルシュタム公爵のことだ。それも王の兄でもある。自分の倍以上を生き、枢密院議長の座にまで上り詰めた男を吊るし上げるためには、確実な証拠だけでなく、裏の裏をかくくらいの頭が必要だ。考えなしに捕まえようと動いても、出し抜かれてしまうのは目に見えていた。だから頭が痛いのだ。
もっと賢く、もっと強くならなければ、未熟な王太子のままでは、好きな女とも結婚できないだろう。ただ好きだという気持ちだけで、自分のものにできたらどんなに楽だろうか。
ソルヴィの前に立ちはだかった壁は大きかった。
ソルヴィは再び大きく息を吐いた。
『……アレク……』
どこからともなく、ソルヴィの頭にも心にもシグルンの声が響いた。
『……アレク……』
シグルンの声を何度も思い出す。ソルヴィを呼ぶシグルンの声は恥ずかしそうに小さく震え、耳に心地良く甘く響いていた。
ソルヴィは思わず興奮を覚えてぶるりと震える。
アレクという名はソルヴィの偽名ではない、ミドルネームだ。
ミドルネームとは、王侯貴族が氏名の間に先祖に敬意を込めて先祖の名を入れる習慣のことだった。
ソルヴィの『アレクサンデル』という名は、隣国の侵略から祖国を守り初めて中立基盤を築いた、偉大な曽祖父王の名に因んでいた。
そして、このミドルネームは、ごく親しい家族、ソルヴィで言えば父親は論外だが、母親や乳母が使うような名前だ。
ソルヴィはあえてミドルネームを名乗ることで、シグルンと親しみをもってより深く付き合っていきたいと思っていたのだ。
(いつか私が王太子だと明かしたら、彼女はどんな反応をするだろうか?)
お気に入りの場所とは、王宮の中でも夜中は人っ子一人寄り付かない小さな花園のことだ。そして、待ち人とは、つい一昨日の晩に知り合ったばかりの女のことだった。
ソルヴィは大きな溜め息を零した。
吐息には待ち人を焦がれる熱もあったが、一方で我が身に火の粉が降りかかりそうな、そんな行く末に対する失望感も含まれていた。
熱い気持ちに雑念が入り混じり、ソルヴィは金色の髪を掻き上げて、やれやれと肩を落とした。
シグルンはまだ来そうになかった。
ソルヴィは噴水の中央にある縁に寄りかかりながら、すでに散って葉だけになってしまった月下美人を見つめた。
ソルヴィの目下の懸念事項はシグルンだ。
会いたいと言ったは良いものの、本当に来てくれるかどうか不安で堪らなかった。シグルンの姿を感じられない一瞬一刻が、まるで千里のように感じるのは大袈裟な表現ではない。
まだ会いに来てくれないと決まったわけでもないのに、ソルヴィの胸は切なく痛んでいた
さらにソルヴィにはもう一つ懸念事項があった。
それは聖女と聖女を取り巻く陰謀のことだ。
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日暮れ時の王宮の自室にて、ソルヴィは窓枠に腰を落ち着けて読書をしていた。
だが、目線は頻繁に手元の本と窓の向こうを行き来し、本の内容などさっぱり入ってこない。
ソルヴィは普段国王の政務に随行して休みなしのスケジュールを送っていたが、急に謹慎という名の暇を与えられて手持ち無沙汰になってしまった。もちろん政治的陰謀や駆け引きのない喧騒から離れるのは、清々しい気分であるが。
そうなると自然に、シグルンのことばかりがソルヴィの頭を占めた。一晩前に話したことを思い出したり、今夜会える楽しみを思うとつい頰が緩んでしまう。
本の内容も頭に入ってこないはずだ。
「殿下、ご報告があります」
その時、唐突に扉をノックする音とともに、聞き慣れた声がソルヴィの甘い思考を中断させた。
「例の件か……」
「左様にございます」
ソルヴィの青く熱っぽい瞳が急に冷え込んだ。執事を一瞥すると、本を閉じる。
今朝方頼んだ密偵の件だろう。
普通ならば何日もかけてあらゆる方面から情報を仕入れ、さらに時間をかけて内容を精査するものだが、意外過ぎるほどソルヴィの執事は有能だったようだ。そもそも王家の使用人である以上、能力が高いのは前提条件であるが。
それでもこれだけ早く報告してくれようとは、よほど重大な何かがあるということだ。
「まだ情報の真偽は引き続き調査中でありますが、早々に殿下のお耳に入れておくべきではないかと思うことがいくつか」
「ああ、言ってくれ」
ソルヴィは頭を切り替えて、言葉少なに続きを促した。
執事は手巾で汗を拭いながら頷く。
「まずゲオルグ・ヤンセンですが、こちらは教会と王宮への出入りが多いため、申し訳ありませんが現在も調査中になります。しかし、聖女の送迎に参加したという兵士が昨日王都に帰還したとの情報を得ましたので、その者に話を聞きましたところ…………どうやら聖女には王宮で噂されるような病気らしき異変は見られなかったそうです」
聖女が迎えられ早々に病気になるなど、出来過ぎた話だ。
婚約の儀でお祝い範囲気から一変、代わりの正妃と側室を要求するのだから。むしろ何か裏があると思うのは当然のことで、ソルヴィは何一つ驚かなかった。
ただ、もしかすると今までのソルヴィならば、周りの貴族連中に流されて、今頃アニタとの婚約を決めていたかもしれない。王に従い、子の産めそうな若い女を側室に迎えていたかもしれない。例え密かな抵抗をしたとしても、周りの大きな圧にねじ伏せられて、結局全てを諦めていただろう。今までのソルヴィならば。
しかし、ソルヴィは出会えってしまったのだ。
シグルンに。
運命の人に。
シグルンを手元に置いておきたいのならば、ソルヴィは変わることも吝かではなかった。
ソルヴィは表情を変えることなく執事の報告に耳を傾けた。
執事は眉を顰めて続ける。
「しかも信じられないことに、聖女はとても若い娘とは思えない顔で、老婆のような奇妙な姿をしていたと言うのです。その兵士に限らず、聖女の送迎に関わった多くの兵士が、その後すぐにラップラントの防衛ラインに配置を命ぜられしまったため、聖女の行方は分からないままです」
ソルヴィの形の良い片眉が驚きで跳ねた。
執事も同意するように深く頷く。
聖なる矢の選ぶ聖女は、決まって若い娘のはずだった。
それが老婆というのはおかしい。いや、その老婆が若い娘というのがおかしいのか。
ソルヴィは疑問を拭えないまま小首を傾げる。
「しかも、よくよく調べましたところ、防衛ラインに送り込んだのはベーヴェルシュタム公爵であるこが判明しました」
「…………やはりな、読めてきたぞ」
ソルヴィは吊り上がった眉を一撫でし、推察した。
聖女がなぜ老いた姿なのかは、すぐ答えは見つからなさそうだが、ベーヴェルシュタム公爵がなぜそう動いたかは容易に想像できる。
執事はソルヴィの思考を邪魔しないよう一歩下がった。
「自分の娘こそ正妃にと目論んだベーヴェルシュタム公爵が、聖女の醜聞をこれ幸いにと利用し、聖女自身を隠したな。しかも病に伏せったことにして、最終的に用済みなれば殺すつもりだったのか」
「恐らくは……その通りでございましょう。公爵は殿下との婚姻に随分裏で走り回っていたようです。しかし……」
執事は短く息を吐くと、念の為キョロキョロと辺りを確認してからソルヴィに耳打ちをしてきた。
「これは先程私が直接聞いた話ですが……先刻、公爵は近衛騎士団の連隊を何個か持ち出し、自領に戻っていきました」
「な、何だと……?」
ソルヴィは驚きの声を上げて、窓枠から立ち上がった。
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聖女の送迎中に勝手に兵に移動命令を出したこともそうだが、国王の軍隊を勝手に持ち出すなどあってはならなかった。
****
ソルヴィは頭が痛くなって、こめかみを抑えた。
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だが一番の問題は、どうするべきかということ。
まずは王に報告するのが筋だが、ずる賢いベーヴェルシュタム公爵のことだ。それも王の兄でもある。自分の倍以上を生き、枢密院議長の座にまで上り詰めた男を吊るし上げるためには、確実な証拠だけでなく、裏の裏をかくくらいの頭が必要だ。考えなしに捕まえようと動いても、出し抜かれてしまうのは目に見えていた。だから頭が痛いのだ。
もっと賢く、もっと強くならなければ、未熟な王太子のままでは、好きな女とも結婚できないだろう。ただ好きだという気持ちだけで、自分のものにできたらどんなに楽だろうか。
ソルヴィの前に立ちはだかった壁は大きかった。
ソルヴィは再び大きく息を吐いた。
『……アレク……』
どこからともなく、ソルヴィの頭にも心にもシグルンの声が響いた。
『……アレク……』
シグルンの声を何度も思い出す。ソルヴィを呼ぶシグルンの声は恥ずかしそうに小さく震え、耳に心地良く甘く響いていた。
ソルヴィは思わず興奮を覚えてぶるりと震える。
アレクという名はソルヴィの偽名ではない、ミドルネームだ。
ミドルネームとは、王侯貴族が氏名の間に先祖に敬意を込めて先祖の名を入れる習慣のことだった。
ソルヴィの『アレクサンデル』という名は、隣国の侵略から祖国を守り初めて中立基盤を築いた、偉大な曽祖父王の名に因んでいた。
そして、このミドルネームは、ごく親しい家族、ソルヴィで言えば父親は論外だが、母親や乳母が使うような名前だ。
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