蛙の王女様―醜女が本当の愛を見つけるまで―

深石千尋

文字の大きさ
25 / 31
第四章 精霊と呪い

偽りの愛と母の愛(2)

しおりを挟む
 シグルンは霞がかった白い空間に立っていた。


 さっきまで確かに目の前にはゾーイがいたし、背後にはゲオルグもヨハンナもいたというのに、いつの間にか誰もいなくなっていた。
 どこか場所を移動したとは思えないが、まさか立ったまま夢でも見ているというのだろうか。
 そんな馬鹿なとは思いつつ、シグルンの頭は視界とは裏腹にやけにはっきりとしていた。


(ここはどこ?)



(何でここにいるの?)



 やはりシグルンの言葉は声にならなかった。
 自問自答だけが頭に響く。


 そのままただ突っ立ったまま呆然としていると、そんなに時間も経たない内に、白い霞がさぁーっと引いて視界が開けてきた。
 今度はシグルンは見覚えのある場所に立っていた。
 つい先程までは夜だったというのに、シグルンは眩しい光に目を細める。


 そこはシグルンの住む丘の向こう、さらに奥に行った先——隣国と国境を隔てるようになだらかに連なるラップラントの山の森の中だった。
 ここは薪を集めたり、薬草採取したりするよく見知った場所でもある。
 空は雲一つなく青々と晴れ渡り、木々の葉は涼やかな風にいつもと変わりなく揺れていた。


(え? ここは……森?)


 シグルンはまるで石膏のように驚きで固まった。
 一瞬魔法の仕業かと思ったが、こんなリアルな魔法がこの世にあるというのだろうか。


『——ク……った……わ!!』


 ふいに背後から女声がした。
 不明瞭な言葉だが、何かの叫び声。
 シグルンが弾かれるように振り返った先には、銀色の髪の女がこちらに向かって走ってくるではないか。
 櫛通りの良さそうな真っ直ぐ伸びた銀色の髪。アーモンド型に縁取られた目に収まった黒曜石の瞳。形の良い鼻梁と唇。
 目の前には見目麗しい女が迫っていた。
 さらに耳の先は尖ってつんとしており、背中には筋の入った透明なはねを生やしている。
 その姿はさながら神話の世界に登場する精霊のようだった。女は神がかった震える美しさで眩しい光を放っている。



(ぶ、打つかる!!)



 シグルンは後光が差す美しい女を避けることができず、咄嗟に目を瞑った。
 しかし、衝撃は何もない。
 片目から恐る恐る目を開けてみると、目の前には誰もいない。いや、誰もいないのではなく、正しくは女はすでにシグルンを通り抜けていたのだ。
 まるで幽霊のように。
 シグルンは心臓がドキドキし過ぎて壊れてしまうのではないかと思った。


 女を目で追いかけると、女は男と抱き合っていた。
 シグルンは逢瀬の瞬間に顔を赤らめながらも、なぜか目を離すことができず、むしろどういうことなのかと、女と同じ尖った自分の耳をぴんと立てて聞き入る。


『会いたかったわ!』
『私もだよ、フレイヤ』


 抱き締める男に翅はなかった。普通の人間の男のようだ。
 亜麻色の髪に理知的なエメラルドの瞳。知性と力強さの同居した顔立ち。男は青い絹サテンの外套マントを羽織り腰には剣を下げ、騎士然とした出で立ちだ。
 普通の人間だが、男としては逞しく見惚れてしまうだろう。
 男女はしばしお互いの存在を確かめるようにひしひしと抱き合った。


『フレイヤ……』


 男はフレイヤと呼んだ女に優しく口付けを落とすと跪いて言った。


『私と結婚してくれ』
『まぁ……嬉しいわ!』


 男のプロポーズにフレイヤは喜んだ。
 フレイヤは腰を落とすと男に目線を合わせて破顔する。
 男も満足げに笑みを返す。


『お父上は許してくださるだろうか?』


 男は嬉しくて堪らないとばかりにフレイヤを再び抱き締めた。
 しかし、フレイヤは男の腕の中で首を振る。


『お父様はきっと人間との結婚を許さないわ』
『……そんなっ!』
『私たち精霊は人間と結ばれると永遠の寿命と若さを失ってしまうわ。精霊王の娘の私には許されないでしょう』
『フレイヤ、頼む! 私とともにいてくれ!』


 フレイヤの抑揚のない言葉に男は哀願した。
 シグルンはそれを遠巻きに、人間と精霊も恋に落ちるものだと、驚きよりも感心しながら見ていた。
 やはりあのフレイヤという女は精霊だったのか。
 いつか王宮で見た精霊の絵画は誰かの想像かと思ったが、まるで忠実に再現したかのような姿だった。きっとその昔誰かが見たのだろうか。


『私もあなたと一緒にいたい』
『……なら、私と……』


 誰の目から見ても二人は愛し合っていた。
 精霊王がどんなものかは知らないが、きっと人間と精霊の結婚は難しいのかもしれない。
 だが、フレイヤは何度も首を振った。


『あなたのことは好き。だけど、私はあなたと違う。お父様には逆らえないわ』
『私はあなたに永遠の命も若さも求めない。私とともに生き、死んでほしいのだ』


 もしシグルンがフレイヤと同じ立場でアレクと恋に落ちたら、シグルンならきっと反対を押し切るだろう。
 身勝手にも育ててくれた家族に二度と会えなくなったとしても。
 精霊の永遠の命も若さもいらない。
 アレクの愛さえあれば。
 意外にもシグルンは男と同意見だった。


『フレイヤ……私は許さないよ』


 だが、男はおもむに立ち上がったかと思うと、腰の剣に手を当てた。


『……ヘンリク?』


 女は困って眉根を寄せたままだった。
 男の行動が理解できないのか、小首を傾げている。


『フレイヤ、私の名前はケント・・・と呼んでくれ』
『そ、それは……!』

 
 吐き捨てるようにそう言って、男——ヘンリクは顔を赤くして俯いたフレイヤに剣を振り上げた。



(ヘンリク……?)



(ケント……?)



 シグルンはヘンリクが振り上げた剣から目を逸らせないまま、湧き上がった疑問をひしひしと感じた。頭の隅に泡のように浮かび出てくる記憶。
 ラップラントに住む者なら誰もが一度は聞いたことがある名前だ。



(ヘンリク……ケント・ベーヴェルシュタム……!)



『どこへも行けないよう翅を切り落としてしまいましょう』


 剣の切っ先が鈍色に光った。


 ヘンリクの剣はきっとものすごい速さで振り下ろされたのだろうが、シグルンの目にはまるで止まりそうなほど遅いテンポで動いて見えていた。
 シグルンは吐き気を催すほどの強い衝撃を全身に感じてふらついた。
 地面に膝を突く。驚きと恐怖が入り混じり、悲鳴の上がりそうな口を慌てて両手で押さる。
 ヘンリクから目を逸らせないシグルンは、せめてもの抵抗にと目をぎゅっと閉じた。



(いや……! 怖い!)



 シグルンは震える肩を抱きながら、しばらく目を閉じていた。
 しかし、その後聞こえてきそうなフレイヤの悲鳴も、翅を切り落とす音も、血飛沫の音も、何なら森の中の鳥や虫の鳴き声すら聞こえなかったのだ。
 そう言えば、どういうわけだかフレイヤにはシグルンの姿が見えていなかったようだ。だとすれば、シグルンの姿はヘンリクには分からないかもしれない。
 シグルンはどうするべきか迷いながら、再び恐々と目を開けた。


 次に目を開けると、シグルンは今度はどこかの別の場所、建物の一室にいるようだった。
 さっきまでの森は一体どこへ消えたのか?
 シグルンは森だったはずの周囲を見渡し、困惑に大きく嘆息した。

しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

夫に顧みられない王妃は、人間をやめることにしました~もふもふ自由なセカンドライフを謳歌するつもりだったのに、何故かペットにされています!~

狭山ひびき
恋愛
もう耐えられない! 隣国から嫁いで五年。一度も国王である夫から関心を示されず白い結婚を続けていた王妃フィリエルはついに決断した。 わたし、もう王妃やめる! 政略結婚だから、ある程度の覚悟はしていた。けれども幼い日に淡い恋心を抱いて以来、ずっと片思いをしていた相手から冷たくされる日々に、フィリエルの心はもう限界に達していた。政略結婚である以上、王妃の意思で離婚はできない。しかしもうこれ以上、好きな人に無視される日々は送りたくないのだ。 離婚できないなら人間をやめるわ! 王妃で、そして隣国の王女であるフィリエルは、この先生きていてもきっと幸せにはなれないだろう。生まれた時から政治の駒。それがフィリエルの人生だ。ならばそんな「人生」を捨てて、人間以外として生きたほうがましだと、フィリエルは思った。 これからは自由気ままな「猫生」を送るのよ! フィリエルは少し前に知り合いになった、「廃墟の塔の魔女」に頼み込み、猫の姿に変えてもらう。 よし!楽しいセカンドラウフのはじまりよ!――のはずが、何故か夫(国王)に拾われ、ペットにされてしまって……。 「ふふ、君はふわふわで可愛いなぁ」 やめてえ!そんなところ撫でないで~! 夫(人間)妻(猫)の奇妙な共同生活がはじまる――

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

記憶を無くした、悪役令嬢マリーの奇跡の愛

三色団子
恋愛
豪奢な天蓋付きベッドの中だった。薬品の匂いと、微かに薔薇の香りが混ざり合う、慣れない空間。 ​「……ここは?」 ​か細く漏れた声は、まるで他人のもののようだった。喉が渇いてたまらない。 ​顔を上げようとすると、ずきりとした痛みが後頭部を襲い、思わず呻く。その拍子に、自分の指先に視線が落ちた。驚くほどきめ細やかで、手入れの行き届いた指。まるで象牙細工のように完璧だが、酷く見覚えがない。 ​私は一体、誰なのだろう?

二度目の初恋は、穏やかな伯爵と

柴田はつみ
恋愛
交通事故に遭い、気がつけば18歳のアランと出会う前の自分に戻っていた伯爵令嬢リーシャン。 冷酷で傲慢な伯爵アランとの不和な結婚生活を経験した彼女は、今度こそ彼とは関わらないと固く誓う。しかし運命のいたずらか、リーシャンは再びアランと出会ってしまう。

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

辺境に追放されたガリガリ令嬢ですが、助けた男が第三王子だったので人生逆転しました。~実家は危機ですが、助ける義理もありません~

香木陽灯
恋愛
 「そんなに気に食わないなら、お前がこの家を出ていけ!」  実の父と妹に虐げられ、着の身着のままで辺境のボロ家に追放された伯爵令嬢カタリーナ。食べるものもなく、泥水のようなスープですすり、ガリガリに痩せ細った彼女が庭で拾ったのは、金色の瞳を持つ美しい男・ギルだった。  「……見知らぬ人間を招き入れるなんて、馬鹿なのか?」  「一人で食べるのは味気ないわ。手当てのお礼に一緒に食べてくれると嬉しいんだけど」  二人の奇妙な共同生活が始まる。ギルが獲ってくる肉を食べ、共に笑い、カタリーナは本来の瑞々しい美しさを取り戻していく。しかしカタリーナは知らなかった。彼が王位継承争いから身を隠していた最強の第三王子であることを――。 ※ふんわり設定です。 ※他サイトにも掲載中です。

処理中です...