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35.男同士のセンシティブな問題Ⅱ
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湿度の高い小さな空間でバシャバシャとうるさく流れ続ける。上から落ちてくるシャワーのお湯に頭から打たれつつ、足元に一度落とした視線はなかなか上がりそうになかった。
「……はぁ……」
辛気臭ぇ。自分がだ。ついてしまった溜め息に気づいて虚しさとともに口を閉じた。
ここは瀬名さんちの風呂場。あれだけ提案を断っていたのに結局はまたこうして風呂を借りている。だるまさんの脅しがあったあの翌日から毎晩だ。
どうしてこういう状況になったか。水場に集まってくるかもしれない魑魅魍魎が怖かったのもある。だがそれ以上にあの男は俺の操作が上手かった。
落ち着かない気分でバタバタしながら風呂に入るのは疲れるだろ。そんな状態になってる恋人を放っておくことができると思うか。俺が安全を保証してやるとついこの前に誓ったじゃねえか。身の安全の保証ってのは安心できる環境の保全も含む。苦痛に耐えていると知ったからにはなんとかするのが俺の役目だ。日々痛みに晒されているお前の眼球も守りぬきたい。それにここの風呂を使えばお前にはもう一つメリットが生まれる。自分とこの風呂を使わなくなればな、水道光熱費が浮くぞ。
ペラペラと良く回る口にはいつも以上に感心させられた。くどくどくどくどと受けたプレゼンの最後の一言が決め手だった。
何せ貧乏学生だ。生活費の負担軽減という耳寄りな誘いには抗えない。
自分で思っていたよりも俺は人としてチョロかったようで、あっさりコントロールされてその結果眼球も守られている。
いたずらに怖がらせてくるクズ野郎行為と水道光熱費のささやきによってとうとう折れてしまったその日、ふわふわラテ系スイーツ女子には絶対になりたくないから自分ちのシャンプーを持参した。
所詮は悪足掻きだ。自覚はあった。それでも小さなボトルにシャンプーを詰めて隣の部屋に持ち込んだ。俺が持ってきた物を目にした瀬名さんは、どうやら相当面白かったようで。
「今度は何を持ってきた」
「……シャンプー」
「女子かよ」
「いいじゃん別に」
「次は化粧水持ってくるんだろ?」
意地悪く小バカにされた。すげえムカつくけど何も言えなかった。
人を鼻で笑いながらひとしきりからかって遊んだのちに、嫌な奴なのかいい人なのかさっぱり分からないあの男は言った。もしもシャンプーにこだわりを持っているならウチにあるのを一式買い替える。
シャンプーにもリンスにもボディソープにもこだわりなんてものはない。この人と同じのを使いたくないから三個入り百円のチープなボトルをわざわざ百均で買ってきたのに、そんなことをされたら本末転倒。ふわふわラテ系の脅威が迫る。
絶対に変えるんじゃねえ。食い気味に詰め寄ったのもやむを得ない。シャンプー変える気満々だった大人は不思議そうな顔をして俺を見ていた。
とにかくそういう経緯があった。頭を洗っている最中に目をつぶれるようになったのはいいが、細かいお湯に打たれながらまたしてもついてしまったのは溜め息。
昼間の学食で知ってしまった衝撃の事実が頭から離れない。ダルい投資対象。カモり行為。何かと俺にも当てはまった。
瀬名さんはどう思っているんだろう。毎日のように押し倒されるけど無理強いだけはしてこない。俺が本気で力を込めて胸板に手をつき返せば、それだけでやめるのを知っている。上がるのはキスの経験値だけでその他は散々甘やかされている。
ダルいかな。そりゃダルいよな。いくら貢いでもヤレねえんだもん。男のくせに何をいつまでも守ってんだって感じだろう。
「はぁ……」
ウザいため息ばっかりつきすぎてそのうち呼吸困難になりそう。
ヒタリと壁に手をついた。上から降ってくるあったかい水と、その湯気によって目の前がぼやける。
瀬名さんの、あの表情が浮かんだ。あれがどういう顔か分かる。あれは欲情した男の顔だ。したいって、あの目がいつも言ってる。
嫌だなんて思わない。思うはずがない。あの人となら。キスがあれだけ気持ちいいんだから、その先を期待せずにはいられない。
今日はだめって、あと何回言えばいい。いつになったら明日が来るんだ。問題なのは俺じゃない。俺じゃなくて、瀬名さんだ。
あの人は俺で大丈夫なのか。だってこんな、普通の男と。腹を覆っているのは筋肉で胸は当然ペタンコで硬くて、触ったって柔らかくもなんともない、つまらないだけの男の体だ。
明け透けなことを瀬名さんは言うけどあの人も男は初めてだろうし、実際本当に、できるのか。いざとなってみたらやっぱ無理だったってことも当然にあり得るんじゃないのか。
駄目なら駄目でそれでもいい。そういうのはなくても付き合える。ちゃんと一緒にいられるなら、あってもなくても、どっちでもいい。
だけどもし本当に駄目で、それで瀬名さんにガッカリされたら。こんなもんかと。やめときゃよかったって。溜め息の一つでもつかれたら。
あの人に幻滅なんてされたら、たぶん結構、立ち直れない。
「…………」
と言うか今の今まで一切の疑問も持たずに瀬名さんはそっちだと思っていたけど。
あの人って、そっちでいいんだよな。いわゆる、あれ、その。上とかそういう。
分かんないけど。できればここら辺のことは深く考えたくないんだけど。自分が下だとなんとなく思っていたのも最低に屈辱でしかないのだが。
隣にいれば腰に腕を回してくるし。抱きしめてくるし。くっついてくるし。隙あれば押し倒してくるし。首さらしてると甘噛みされるし。キスだっていつもあの人のリードだし。常に俺はされるがままで。
え、でも。いや、分からない。経験がなさ過ぎて判断材料もない。
突如浮上してきた上か下か問題。どっちなんだ。上なのか下なのか。下品なあれこれが色々と浮かぶが、初めて疑問に思ってしまって湧いてきた不安はただ一つ。
逆だったらどうしよう。凄まじく自信が持てない。
無理だろ普通に。だって瀬名さんだ。完全無欠と言っても過言じゃないような男前を相手に、右も左も分からないガキがなんの役に立てるって言うんだ。
シャワーを頭からかぶりながら悶々と考え込んだ。次から次へとモヤモヤしながら脳内に浮かんでは消えていった。
なんとはなしに手を伸ばし、湯気でくもった鏡の表面を手のひらでキュッとこすった。卑猥な妄想に心がヘシ折れた間抜けで情けない自分の姿がぼんやりと映し出されている。それを見てふと、我に返った。
「…………」
何を考えているんだ俺は。
クソすぎる。酷い気分だ。こんなに最悪なテンションもそうない。
なんとも言えない罪悪感を心の中にぎゅうぎゅうと押しこみ、最大限の何食わぬ顔で風呂から上がって部屋に戻った。ベッドの前にはドライヤーを用意して待ち構えている瀬名さんの姿。そこからこいこいと手招きしてくる。突っ立ったままそれを見つめた。
この男の中に下心なんて本当に存在しているのかと疑いたくなってくるほど爽やか。青い空と白い雲と澄んだそよ風が似合いそう。柑橘系炭酸飲料のコマーシャルに出ていても不思議じゃない。
「おいで。風邪ひく」
「……はい」
しょうもないこと想像しちゃってごめんなさいって気分になった。
「……はぁ……」
辛気臭ぇ。自分がだ。ついてしまった溜め息に気づいて虚しさとともに口を閉じた。
ここは瀬名さんちの風呂場。あれだけ提案を断っていたのに結局はまたこうして風呂を借りている。だるまさんの脅しがあったあの翌日から毎晩だ。
どうしてこういう状況になったか。水場に集まってくるかもしれない魑魅魍魎が怖かったのもある。だがそれ以上にあの男は俺の操作が上手かった。
落ち着かない気分でバタバタしながら風呂に入るのは疲れるだろ。そんな状態になってる恋人を放っておくことができると思うか。俺が安全を保証してやるとついこの前に誓ったじゃねえか。身の安全の保証ってのは安心できる環境の保全も含む。苦痛に耐えていると知ったからにはなんとかするのが俺の役目だ。日々痛みに晒されているお前の眼球も守りぬきたい。それにここの風呂を使えばお前にはもう一つメリットが生まれる。自分とこの風呂を使わなくなればな、水道光熱費が浮くぞ。
ペラペラと良く回る口にはいつも以上に感心させられた。くどくどくどくどと受けたプレゼンの最後の一言が決め手だった。
何せ貧乏学生だ。生活費の負担軽減という耳寄りな誘いには抗えない。
自分で思っていたよりも俺は人としてチョロかったようで、あっさりコントロールされてその結果眼球も守られている。
いたずらに怖がらせてくるクズ野郎行為と水道光熱費のささやきによってとうとう折れてしまったその日、ふわふわラテ系スイーツ女子には絶対になりたくないから自分ちのシャンプーを持参した。
所詮は悪足掻きだ。自覚はあった。それでも小さなボトルにシャンプーを詰めて隣の部屋に持ち込んだ。俺が持ってきた物を目にした瀬名さんは、どうやら相当面白かったようで。
「今度は何を持ってきた」
「……シャンプー」
「女子かよ」
「いいじゃん別に」
「次は化粧水持ってくるんだろ?」
意地悪く小バカにされた。すげえムカつくけど何も言えなかった。
人を鼻で笑いながらひとしきりからかって遊んだのちに、嫌な奴なのかいい人なのかさっぱり分からないあの男は言った。もしもシャンプーにこだわりを持っているならウチにあるのを一式買い替える。
シャンプーにもリンスにもボディソープにもこだわりなんてものはない。この人と同じのを使いたくないから三個入り百円のチープなボトルをわざわざ百均で買ってきたのに、そんなことをされたら本末転倒。ふわふわラテ系の脅威が迫る。
絶対に変えるんじゃねえ。食い気味に詰め寄ったのもやむを得ない。シャンプー変える気満々だった大人は不思議そうな顔をして俺を見ていた。
とにかくそういう経緯があった。頭を洗っている最中に目をつぶれるようになったのはいいが、細かいお湯に打たれながらまたしてもついてしまったのは溜め息。
昼間の学食で知ってしまった衝撃の事実が頭から離れない。ダルい投資対象。カモり行為。何かと俺にも当てはまった。
瀬名さんはどう思っているんだろう。毎日のように押し倒されるけど無理強いだけはしてこない。俺が本気で力を込めて胸板に手をつき返せば、それだけでやめるのを知っている。上がるのはキスの経験値だけでその他は散々甘やかされている。
ダルいかな。そりゃダルいよな。いくら貢いでもヤレねえんだもん。男のくせに何をいつまでも守ってんだって感じだろう。
「はぁ……」
ウザいため息ばっかりつきすぎてそのうち呼吸困難になりそう。
ヒタリと壁に手をついた。上から降ってくるあったかい水と、その湯気によって目の前がぼやける。
瀬名さんの、あの表情が浮かんだ。あれがどういう顔か分かる。あれは欲情した男の顔だ。したいって、あの目がいつも言ってる。
嫌だなんて思わない。思うはずがない。あの人となら。キスがあれだけ気持ちいいんだから、その先を期待せずにはいられない。
今日はだめって、あと何回言えばいい。いつになったら明日が来るんだ。問題なのは俺じゃない。俺じゃなくて、瀬名さんだ。
あの人は俺で大丈夫なのか。だってこんな、普通の男と。腹を覆っているのは筋肉で胸は当然ペタンコで硬くて、触ったって柔らかくもなんともない、つまらないだけの男の体だ。
明け透けなことを瀬名さんは言うけどあの人も男は初めてだろうし、実際本当に、できるのか。いざとなってみたらやっぱ無理だったってことも当然にあり得るんじゃないのか。
駄目なら駄目でそれでもいい。そういうのはなくても付き合える。ちゃんと一緒にいられるなら、あってもなくても、どっちでもいい。
だけどもし本当に駄目で、それで瀬名さんにガッカリされたら。こんなもんかと。やめときゃよかったって。溜め息の一つでもつかれたら。
あの人に幻滅なんてされたら、たぶん結構、立ち直れない。
「…………」
と言うか今の今まで一切の疑問も持たずに瀬名さんはそっちだと思っていたけど。
あの人って、そっちでいいんだよな。いわゆる、あれ、その。上とかそういう。
分かんないけど。できればここら辺のことは深く考えたくないんだけど。自分が下だとなんとなく思っていたのも最低に屈辱でしかないのだが。
隣にいれば腰に腕を回してくるし。抱きしめてくるし。くっついてくるし。隙あれば押し倒してくるし。首さらしてると甘噛みされるし。キスだっていつもあの人のリードだし。常に俺はされるがままで。
え、でも。いや、分からない。経験がなさ過ぎて判断材料もない。
突如浮上してきた上か下か問題。どっちなんだ。上なのか下なのか。下品なあれこれが色々と浮かぶが、初めて疑問に思ってしまって湧いてきた不安はただ一つ。
逆だったらどうしよう。凄まじく自信が持てない。
無理だろ普通に。だって瀬名さんだ。完全無欠と言っても過言じゃないような男前を相手に、右も左も分からないガキがなんの役に立てるって言うんだ。
シャワーを頭からかぶりながら悶々と考え込んだ。次から次へとモヤモヤしながら脳内に浮かんでは消えていった。
なんとはなしに手を伸ばし、湯気でくもった鏡の表面を手のひらでキュッとこすった。卑猥な妄想に心がヘシ折れた間抜けで情けない自分の姿がぼんやりと映し出されている。それを見てふと、我に返った。
「…………」
何を考えているんだ俺は。
クソすぎる。酷い気分だ。こんなに最悪なテンションもそうない。
なんとも言えない罪悪感を心の中にぎゅうぎゅうと押しこみ、最大限の何食わぬ顔で風呂から上がって部屋に戻った。ベッドの前にはドライヤーを用意して待ち構えている瀬名さんの姿。そこからこいこいと手招きしてくる。突っ立ったままそれを見つめた。
この男の中に下心なんて本当に存在しているのかと疑いたくなってくるほど爽やか。青い空と白い雲と澄んだそよ風が似合いそう。柑橘系炭酸飲料のコマーシャルに出ていても不思議じゃない。
「おいで。風邪ひく」
「……はい」
しょうもないこと想像しちゃってごめんなさいって気分になった。
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