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帝都の大学
事件と事故
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戻ってきたリュディガーは、それこそ満足げな顔をしていてキルシェは嫌な予感が的中したのでは、と危惧していた。
「__快気祝い」
「え」
「怪我は治っただろう?」
「それは……ええ、お陰様で。ですが、だからって……そういうつもりで居たのではないですし__」
「他に、何か見ておくものがあるか?」
キルシェの抗議は予想の範囲だったのだろう、あまり気にした風もなく半ば黙殺する形で彼は話を切り替えてしまった。
「それは、ないですが……」
「なら、出よう」
「あの、リュディガー、聞いてますか?」
肩を竦めながらリュディガーは、キルシェの背中を押して、店の外へと促す。
もう少し抗議してもいい案件であるが、流石に店内でそれはお店に迷惑がかかるし、ひと目が多いところでするようなことではない。
人が少なくなってきた頃までは堪らえよう、と外へ出てからも、大人しくその日傘を押し抱きながら彼の誘導に従って歩みを進めた。
彼も馬鹿ではないし、そこまで他人の機微に疎いわけではないから、キルシェが感謝の言葉も述べずに押し黙って追従する様に含むところがあることぐらいは承知のはずだ。
その証拠に、肩越しに距離を確認することはあっても、来たときとは違って一切視線を交わらせないのだ。
彼の気遣いはありがたいことである。
自分でさえ忘れていた日傘のことを考えていてくれて、選んで贖う機会を設けてくれたのは、なかなかにできることではないだろう。
__それだけで、十分なのに……これじゃあ、お礼も言いにくい……。
お礼を言ったら、これを贖ってくれたことを肯定してしまうことになる。そこまで頼んではいないし、望んではいない。それは、彼の厚意に甘えすぎというもの。
__今日までのことを思うと、本当にしてもらってばかりだもの……。これ以上は……。
キルシェは、徐に先ほど贖ったハンカチを仕舞っている鞄へと手を伸ばす。
そこでリュディガーは速度を緩めて、ゆっくりと止まる。周囲を見れば、大きな通りを過ぎ去って、少しばかり人通りが少ない通りへと踏み入るところだった。
「キルシェ、頼みがある」
「はい?」
唐突に言う彼は、振り返った。
その顔はいささか神妙で、キルシェは内心構えてしまう。
__今度は、何?
「今から、家へ寄ってもいいだろうか?」
きょとん、としていれば、彼は罰が悪そうな顔になる。
「実は一昨日、昨日と、父のところへ様子を見に行けていないんだ」
彼の言葉に、キルシェは目を見開く。
「それは……ええ。構いません。参りましょう」
食材の量はもちろんのこと、何よりも足が不自由で肺を患っている父の容態が急変でもしていたら取り返しがつかないに決まっている。
「疲れているだろうに、本当にすまない」
「いえ、いいの。大丈夫、そんなこと」
昨日は__正しくは昨日まで、長期休暇にも関わらず、彼は法学の教官に頼まれて資料のまとめを手伝っていたと聞いている。
それは教官が、今日、中央から招かれて、会議で意見を求められることになっていたから、それに向けてのことだったらしい。
これに駆り出されていたのは、リュディガーだけではない。それでも数日は要したものだった。昨日はその追い込みだったのだ。
その間、彼と大学で会うのは早朝の弓射の鍛錬のときだけで、それとなく彼から法学の教官に頼まれたことについては聞いてはいたが、父の元へ行けていないとは聞いていなかった。
「……気が付かなくて、ごめんなさい」
「いや」
「言ってくれれば……私が__」
「頼むつもりはなかった。君独りでなんて……行かせられるわけがない」
苦笑を浮かべるリュディガーに、キルシェは何と答えていいかわからず、口を引き結んで俯く。
俯いた視界に、彼の足が歩み寄って来たのが見え、直後、肩に手を置かれ、その手が滑って促すように背中を軽く押すので、キルシェは顔を上げた。
そこには、穏やかに笑っているリュディガーがいる。
「行こう。……まあきっと、お茶の一杯は誘われることは覚悟していてくれ」
はい、とキルシェは笑って頷いて、手をひかれる形で続いた。
ローベルトは、足は不自由に変わりないが、相変わらず明るく元気な様子だった。案の定、お茶の一杯をお呼ばれし、テーブルに付くと寧ろ、キルシェが気遣われた。
「__大怪我をしたって聞いていたから、心配していたんだよ。濡れた石階段で転んだって、リュディガーから聞いてね」
どうしてそんな話をわざわざ、と視線でリュディガーに問えば、彼は後ろ頭を掻いた。
「父が、キルシェさんは長期休暇中で何をしているんだい、たまには連れておいでよ、と言うので……それで、そういう状況だから諦めてくれ、とそのことを話したんだ」
なるほど、と苦笑を浮かべるキルシェ。
「帝都は、扇状地だから緩そうに見えるけど、高低差があるからね……私もそれで、足をやってしまった口だから、すごく心配したんだ」
自虐的に笑って、引きずる足を軽く叩いて示すローベルト。
「治療は……」
「医者にはかかったよ」
「治癒魔法はいらない、と聞かなかったんだ」
ローベルトの言葉に、ややきつめに添えるのは台所に近い壁際に佇むリュディガーだった。
見れば、視線も鋭く抗議している風である。
「命に関わる怪我じゃなかったんだ。それに治癒魔法なんて、転んだだけの私がしてもらうのはおこがましいよ。奇跡の御業なんだから、もっと必要としている人にするべきだ」
__必要とする人……。
キルシェが治癒魔法を無償で施してもらえたのは、犯罪に巻き込まれてのことだったから。
しかしながら、ローベルトの場合は犯罪に巻き込まれたわけではなく、所謂自損。この場合、多額の心付けをすれば施してもらえなくもない。
「__学費に充てなさい、とね」
いたずらっぽく笑むローベルトに、リュディガーはやれやれ、と首を振ってお茶を口に運ぶ。
「学費なんてどうにでもなる、とあの時言いましたよね? 一時的に休学して復帰する手段があると、そう説明しました」
「これこれ、リュディガー。それをまた言い出すのかい。__その復帰したとき、お前さんに何かあったら、私は私を一生許せない、と言ったはずだよ」
__えぇっと……。
少しばかり剣呑とした雰囲気に、キルシェは身体を強張らせて二人を見守る。
すると、それを真っ先に感じ取ったのは、側近くに座るローベルトで、彼は自嘲を浮かべた。
「まあ、私のわがままだったのは間違いないね。でも、後悔はしていないよ。ここは帝都だから潤沢に司祭様はいるけれど、田舎じゃ、これが当たり前なわけだしね。すぐに頼ろうとは思えないんだ、昔から」
はは、と軽く笑ってお茶をすするローベルト。
今からの治癒魔法は、怪我が__ローベルトの場合は骨がどのような形であれくっついてしまっているのであれば、施す意味がない。それが治った形なのだ。これから治癒魔法を施すことがまるで意味をなさないわけではないが、それは単に痛みを緩和したりするだけの行為にしかならない。
もし治癒魔法で綺麗に治したいというのであれば、おそらくだが同じ場所を同じように折ってからになるだろう。
「__キルシェさんは、怪我の予後はいいのかい?」
「ええ、もう不便なことはほとんどなく。お陰様で、矢馳せ馬の鍛錬にも復帰をしました」
「そう言えば、そうだったね! 冬至の矢馳せ馬か……見られるのなら、見たいものだねぇ」
膝を打って喜ぶローベルトに対し、リュディガーが処置なし、と天井を仰ぎ見てため息をこぼすのを見、キルシェは苦笑を浮かべた。
「__快気祝い」
「え」
「怪我は治っただろう?」
「それは……ええ、お陰様で。ですが、だからって……そういうつもりで居たのではないですし__」
「他に、何か見ておくものがあるか?」
キルシェの抗議は予想の範囲だったのだろう、あまり気にした風もなく半ば黙殺する形で彼は話を切り替えてしまった。
「それは、ないですが……」
「なら、出よう」
「あの、リュディガー、聞いてますか?」
肩を竦めながらリュディガーは、キルシェの背中を押して、店の外へと促す。
もう少し抗議してもいい案件であるが、流石に店内でそれはお店に迷惑がかかるし、ひと目が多いところでするようなことではない。
人が少なくなってきた頃までは堪らえよう、と外へ出てからも、大人しくその日傘を押し抱きながら彼の誘導に従って歩みを進めた。
彼も馬鹿ではないし、そこまで他人の機微に疎いわけではないから、キルシェが感謝の言葉も述べずに押し黙って追従する様に含むところがあることぐらいは承知のはずだ。
その証拠に、肩越しに距離を確認することはあっても、来たときとは違って一切視線を交わらせないのだ。
彼の気遣いはありがたいことである。
自分でさえ忘れていた日傘のことを考えていてくれて、選んで贖う機会を設けてくれたのは、なかなかにできることではないだろう。
__それだけで、十分なのに……これじゃあ、お礼も言いにくい……。
お礼を言ったら、これを贖ってくれたことを肯定してしまうことになる。そこまで頼んではいないし、望んではいない。それは、彼の厚意に甘えすぎというもの。
__今日までのことを思うと、本当にしてもらってばかりだもの……。これ以上は……。
キルシェは、徐に先ほど贖ったハンカチを仕舞っている鞄へと手を伸ばす。
そこでリュディガーは速度を緩めて、ゆっくりと止まる。周囲を見れば、大きな通りを過ぎ去って、少しばかり人通りが少ない通りへと踏み入るところだった。
「キルシェ、頼みがある」
「はい?」
唐突に言う彼は、振り返った。
その顔はいささか神妙で、キルシェは内心構えてしまう。
__今度は、何?
「今から、家へ寄ってもいいだろうか?」
きょとん、としていれば、彼は罰が悪そうな顔になる。
「実は一昨日、昨日と、父のところへ様子を見に行けていないんだ」
彼の言葉に、キルシェは目を見開く。
「それは……ええ。構いません。参りましょう」
食材の量はもちろんのこと、何よりも足が不自由で肺を患っている父の容態が急変でもしていたら取り返しがつかないに決まっている。
「疲れているだろうに、本当にすまない」
「いえ、いいの。大丈夫、そんなこと」
昨日は__正しくは昨日まで、長期休暇にも関わらず、彼は法学の教官に頼まれて資料のまとめを手伝っていたと聞いている。
それは教官が、今日、中央から招かれて、会議で意見を求められることになっていたから、それに向けてのことだったらしい。
これに駆り出されていたのは、リュディガーだけではない。それでも数日は要したものだった。昨日はその追い込みだったのだ。
その間、彼と大学で会うのは早朝の弓射の鍛錬のときだけで、それとなく彼から法学の教官に頼まれたことについては聞いてはいたが、父の元へ行けていないとは聞いていなかった。
「……気が付かなくて、ごめんなさい」
「いや」
「言ってくれれば……私が__」
「頼むつもりはなかった。君独りでなんて……行かせられるわけがない」
苦笑を浮かべるリュディガーに、キルシェは何と答えていいかわからず、口を引き結んで俯く。
俯いた視界に、彼の足が歩み寄って来たのが見え、直後、肩に手を置かれ、その手が滑って促すように背中を軽く押すので、キルシェは顔を上げた。
そこには、穏やかに笑っているリュディガーがいる。
「行こう。……まあきっと、お茶の一杯は誘われることは覚悟していてくれ」
はい、とキルシェは笑って頷いて、手をひかれる形で続いた。
ローベルトは、足は不自由に変わりないが、相変わらず明るく元気な様子だった。案の定、お茶の一杯をお呼ばれし、テーブルに付くと寧ろ、キルシェが気遣われた。
「__大怪我をしたって聞いていたから、心配していたんだよ。濡れた石階段で転んだって、リュディガーから聞いてね」
どうしてそんな話をわざわざ、と視線でリュディガーに問えば、彼は後ろ頭を掻いた。
「父が、キルシェさんは長期休暇中で何をしているんだい、たまには連れておいでよ、と言うので……それで、そういう状況だから諦めてくれ、とそのことを話したんだ」
なるほど、と苦笑を浮かべるキルシェ。
「帝都は、扇状地だから緩そうに見えるけど、高低差があるからね……私もそれで、足をやってしまった口だから、すごく心配したんだ」
自虐的に笑って、引きずる足を軽く叩いて示すローベルト。
「治療は……」
「医者にはかかったよ」
「治癒魔法はいらない、と聞かなかったんだ」
ローベルトの言葉に、ややきつめに添えるのは台所に近い壁際に佇むリュディガーだった。
見れば、視線も鋭く抗議している風である。
「命に関わる怪我じゃなかったんだ。それに治癒魔法なんて、転んだだけの私がしてもらうのはおこがましいよ。奇跡の御業なんだから、もっと必要としている人にするべきだ」
__必要とする人……。
キルシェが治癒魔法を無償で施してもらえたのは、犯罪に巻き込まれてのことだったから。
しかしながら、ローベルトの場合は犯罪に巻き込まれたわけではなく、所謂自損。この場合、多額の心付けをすれば施してもらえなくもない。
「__学費に充てなさい、とね」
いたずらっぽく笑むローベルトに、リュディガーはやれやれ、と首を振ってお茶を口に運ぶ。
「学費なんてどうにでもなる、とあの時言いましたよね? 一時的に休学して復帰する手段があると、そう説明しました」
「これこれ、リュディガー。それをまた言い出すのかい。__その復帰したとき、お前さんに何かあったら、私は私を一生許せない、と言ったはずだよ」
__えぇっと……。
少しばかり剣呑とした雰囲気に、キルシェは身体を強張らせて二人を見守る。
すると、それを真っ先に感じ取ったのは、側近くに座るローベルトで、彼は自嘲を浮かべた。
「まあ、私のわがままだったのは間違いないね。でも、後悔はしていないよ。ここは帝都だから潤沢に司祭様はいるけれど、田舎じゃ、これが当たり前なわけだしね。すぐに頼ろうとは思えないんだ、昔から」
はは、と軽く笑ってお茶をすするローベルト。
今からの治癒魔法は、怪我が__ローベルトの場合は骨がどのような形であれくっついてしまっているのであれば、施す意味がない。それが治った形なのだ。これから治癒魔法を施すことがまるで意味をなさないわけではないが、それは単に痛みを緩和したりするだけの行為にしかならない。
もし治癒魔法で綺麗に治したいというのであれば、おそらくだが同じ場所を同じように折ってからになるだろう。
「__キルシェさんは、怪我の予後はいいのかい?」
「ええ、もう不便なことはほとんどなく。お陰様で、矢馳せ馬の鍛錬にも復帰をしました」
「そう言えば、そうだったね! 冬至の矢馳せ馬か……見られるのなら、見たいものだねぇ」
膝を打って喜ぶローベルトに対し、リュディガーが処置なし、と天井を仰ぎ見てため息をこぼすのを見、キルシェは苦笑を浮かべた。
応援ありがとうございます!
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