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帝都の大学

嘘のやり手

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 壊れた日傘は、ローベルトの家にあった。

 帰り際、彼が自室としている部屋からそれを持ち出してきて、処置を決めてくれ、と言う。

 柄は見事に折れて、傘の布も泥に塗れてしまっているそれ。キルシェの目にも、修理するよりは新しく贖った方がよい、と見える状態である。

 処置__修理はできないから、棄てるのか、持ち帰るか。

 これは、もはや棄てるしかないだろう__律儀に確認をしてくる彼に、キルシェは笑ってそう願い出た。

 2時間ほどの滞在を終え、外へ出ると、日はかなり傾いていた。

 住宅街の入り組んだ道を抜ければ、いよいよ視界が開ける。長く伸びるリュディガーの影を見ながら、キルシェはその影の中を踏みしめるようにして続いた。

 川辺の道は住宅街以上に人が少なく、キルシェは周囲に対してそこまで構えることをせずに済んだ。

「__それを使えばよかったのに」

「え?」

 顔を上げると、傾いた日の陽光が視界を焼く中で、彼が肩越しに振り返ったところだった。

 目を凝らしてみれば、彼がわずかに顎をしゃくるようにして示すのは、キルシェが押し抱く日傘。

「あぁ……これを使うと、リュディガーに当たってしまいそうだったので。手を引いてもらっていましたし……前よりも近いですから……」

 そう。以前にも増して近いのだ。そうならざるを得ないのだが、改めて感じた距離の近さに少しばかり耳が熱くなった気がした。

 __それにまだ日傘については決着してないもの。私は。

 頃合いを見て、日傘のお代については抗議しようとしていたのだ。そんな日傘を差すわけにはいかない。

 だが、時間を置いてしまったから、どうにも勢いが削がれてしまっている。それもあって、内心、どうしたものか、と困っていたところではあって、無口になってしまっていた。

「独り善がりが過ぎたか」

「……独り善がりとは思いませんが……」

 此処まで気遣われてしまっていることが、忍びない。

 今日など、彼の厚意に甘えて貴重な時間を使っている形だ。

 __今日までずっと……。

 あの事件から、ずっと。それこそ事あるごとに。

「__お代……おいくらだったの?」

「教えてもいいが、受け取るつもりはないな」

 迷いなく言い切られ、キルシェは押し抱く日傘をより自身に押し付け、足を止める。

 リュディガーもまた、足音が止まったことに気づいて、すぐに歩みを止めると振り返った。

 その顔は、やれやれ、と困ったように笑っている。

「言っただろう? 快気祝いだと。励ましのつもりだったんだが。__普段どおりに努めていたから……普段どおりということなら、そのうち先生の付き添いで外へ出る機会も増えるだろう。そうなったら、日傘は持っていくものなのではないか、と」

 彼の言う通り、付き添いで出ることが今後は出てくるだろう。

 今日までで、近くに信頼のおける人がいれば、外への恐怖心はかなり軽減されるとわかった。加えて、ビルネンベルクの付き添いであれば、移動は馬車が主。ほぼほぼこれまでと変わらないで済ませられそうではある、と自信がついた。

「……日傘のこと、本当に感謝しています。気にかけてくださって……私自身、全然思いもつかなかったことでしたから、連れて行ってもらえたことは、すごく嬉しかったです」

「だが、素直には受け取れない、というのだろう? 快気祝いでも」

「甘えすぎていると思えるので……」

「そんなことはないと思うが」

 歯切れ悪く言えば、からり、とリュディガーは笑いながら言い放つ。

 その彼の顔を見ていると、キルシェは抗議する勢いを更に削がれた心地になって、口を一文字に引き結んだ。

「……本当なら、もっと抗議するところなのですが……今日は、私、強く出られないんです」

 どういうことだ、とリュディガーは眉を顰める。

 言葉を発するべきはキルシェなのだが、目の前の彼が片足に重心を置いて、腰に手を置いて待つ様を見るにつけ、その居辛さから、下唇を噛み締めて視線を落とした。

「えぇっとですね……嘘をつきました」

「嘘?」

 キルシェは恐る恐る、鞄に仕舞っていたハンカチの包装を取り出した。

「これ……本当は、先生に差し上げるものではないんです」

「……意味がわからないのだが……まさか、自分で使うために? わざわざ男物を?」

 違います、とキルシェは首を振る。

「__リュディガーへの、お礼の品、と申しますか……贈り物です」

 贈り物、と白状した途端、気恥ずかしくて顔が赤くなったのを自覚して、顔を隠そうと背ける。

「私へ……?」

「ほら、先日……ハンカチを駄目にしてしまったでしょう?」

「……あぁ……駄目に、というほどのことでもないが」

 気にしすぎだ、と笑う彼に、更に衣嚢から白地のハンカチを取り出して示す。それは、赤茶色の染みがいくつもついているもの。

「__てっきり、ラエティティエルが捨てただろうと思っていたのだが、君が持っていたのか」

「どんなに洗っても、血痕だけは綺麗にならなくて……」

「まぁ……血はそうだろう」

「このままお返しするのがどうしても忍びなくて……だからって、新しい物をお返しに買いに行こうにも、独りでは……。ハンカチを返すために新しいのを買いたい、って正直に言ったら、要らないって断られるだろうと……」

「……だから、先生のハンカチをインクを零して駄目にしてしまって、お詫びを兼ねて新しいものを見に行きたい、と。まだ独りで出歩く勇気はないから、付いてきてもらうついでに、男物のハンカチの参考に意見をほしい__そう言ったのか」

 こくり、と目線を合わせられず、キルシェは手にしたハンカチを見つめ俯いたまま頷く。

 それならいくらかでも、リュディガーの好みを反映させられると思ったのだ。

 __帰り道に、渡してそれで終わりになるはずだった。驚かせて、終わって……それで。

 なるほどな、と頷く彼は、汚れたハンカチを手にした。

 そしてそれを暫し眺めてから、小さく、ふっ、と鼻で笑う。

「わかった。ならこうしよう」

「何?」

「その日傘を快く受け取ってくれるのなら、そのハンカチを受け取る__それでいいか?」

「リュディガー……」

「今更、店にお互い返すわけにもいかないしな」

 そうだろう、と彼は冗談めかした言い方で同意を求める。

「わかりました。……ありがとう」

 リュディガーは満足げに笑って頷き、キルシェが差し出す包装されたハンカチを受け取った。そして、汚れたハンカチを仕舞ってから包装を外し、中身を取り出す。

「これはまた、参考になる意見を言った者のセンスが光った一品だな」

 受け取ってもらえたことで安堵したキルシェは、小さく息を吐く。

「__お礼、になっていればいいのですが……」

「礼など必要ないと言ったはずだが……まあ、君なら、そうはいっても気にはするか」

 致し方ない、と苦笑を浮かべるリュディガー。

 彼にすれば、当然のことをしただけのことだ。たまたま異変に気づき、異様な声を聞き、探し回って、遭遇しただけのこと。

「__あの時……リュディガー、首を締められて……苦しそうにしていて……みるみる、みるみる顔が赤くなって行くのが見えて、死んでしまう、と……私のせいで……」

「キルシェ……」

 手元の日傘を、強く胸元に押し抱く。

「それが恐ろしかった……私のせいで……」

 喉が引きつって、かろうじてそれを吐露できたものの、視界が滲んでしまった。口を一文字に引き結んで、ひきつるような呼吸を零さないよう堪えていると、滲んだ視界のリュディガーが動くのが見えた。

「__早速の出番だな」

 そう言った直後、目元に近づく白い影。それが触れた途端、視界が鮮明になった。すると、困ったような顔のリュディガーがそこにはいた。

 白い影__それは、さきほど渡したハンカチで、涙を拭われたのだと悟った瞬間、心臓が少しばかり早く打ちはじめたから、キルシェは戸惑って俯いた。

「すまなかった。助けに入ったのに、一瞬の隙を突かれてしまった……。不安にさせたのは私の至らなさだ」

「隙……?」

「__君だと気づいて、頭が真っ白になったんだ」

 リュディガーの顔がわずかに俯き、少しばかり影が濃くなる。

 暫し二人は、そうして俯いていた。

 居辛さは皆無だったが、キルシェはそこから動くことも、会話を取り持つこともできなかった。

 じりじり、と大きなリュディガーの向こうの日が、西の山の端に近づきつつある__それを眺めていれば、彼が手にしていたハンカチを丁寧に畳み始めて、衣嚢へ仕舞うのが目に留まる。

 仕舞い終えた彼は、視線を交えた。その顔は穏やかなもので、無言のまま身振りと視線で、歩みを再開しようと促した。

 キルシェは頷いて、彼に続く。いくらかあるき、川辺の道の終わりが見えてきた頃、彼が小さく笑ったので、怪訝にリュディガーを見上げる。

 彼に続いていたはずなのに、そのときには、ほぼ並ぶような形になっていて、その距離が近かったから、どきり、としてしまった。

 それを知ってか知らずか、リュディガーが口を開く。

「君の嘘を看破できなかったわけだ……」

 自嘲気味に笑いながら、彼が顔を向けてくる。

「__君は、意外にやり手だな」

「__嘘の、やり手……?」

「ああ」

 からり、と笑う彼を見て、ちくり、と胸に痛みを覚える。

 __嘘……。

「お褒めに預かり、まして……」

 きっと、戸惑った笑顔になっていることだろう。
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